確かにその日は良い月だった。




  月よ星よ





  深い紺青色の空は、今やその裾にさえ昼間の名残である錦を掻き消し、スマルトを嵌めこんだ丸
 窓のように地上を見渡していた。
  風は強いが、しかし何処からも雲が流れ込んでこない花紺青には、真珠の粉を散らしたように、
 数えきれないほどの星が遠くに見える蝋燭の灯りのように揺らめいている。今にも降り注ぎそうな
 星が揺れ動く只中を、ゆらりゆらりと銀盆の月が渡り歩いていた。
  散らした真珠の粉の、元の真珠であるかのような丸い、銀と白の光沢を帯びた月は、花紺青の空
 の頂点を、ちょうど渡っているところだ。大粒の涙にも見える月の周りでは、流石に星々も鳴りを
 顰め、主役の座を月に明け渡しているようであった。
    ひっそりと無情に、身を隠すには明るすぎ、けれども頼るには暗すぎる月光の下では、眠れぬ者
 もまた多い。 
  例えば恋人との逢瀬を重ねる若者達にしてみれば、月夜の晩はその身が誰かに見られぬかと不安
 に思いつつも恋人へと続く道を探し出せる夜であったし、貴族やら権力者といった所謂富裕層は、
 月にかこつけて夜会なりなんなり開く事だろう。小さな村に住む人々も月夜の晩に細やかな集まり
 を催す事もあるし、いつもは早寝の子供達もカーテンの裾から覗く月の光の所為で眠れない事もあ
 るに違いなかった。
  そもそも古来から月には神秘的な力があるとされ、魔女のサバトや狼男など魔的なものの話は数
 知れどある。
    それは動物達が妙に興奮しているだとか、そういう意味合いで口伝えられるようになったものか
 もしれないが、確かに月には、特には満月には何かと気を高ぶらせる効果があるのかもしれない。 
  だから、いつもならばひっそりと身を隠して野営をする時間帯にも拘わらず、サンダウンも馬を
 歩かせ続けていたのかもしれない。

  別に、満月だから興奮しているとか、そういうわけではない。
  放浪するようになってから幾つも月を重ねてきたし、その間に満月であった時は何度もあった。
 その度に、犬が遠吠えするように気を高ぶらせているなどあるわけがない。 
  満月であろうが新月であろうが立待月であろうが、サンダウンはサンダウンであったし、特に性
 格が変わったり精神的に不安定になるといった事はなかった。
  ただ、今夜は月の明るさに触発されたのか、まだしばらく野営をするには早いと思っただけだっ
 た。
  尤も、月夜の闇の中、馬を歩かせ続けた先に見つけたものを思えば、サンダウンの中には何か予
 感めいたものがあったのかもしれなかったが。 
  月の光に照らされて、無数に転がっている石や背丈の低い草の影が長く伸びて、何もないと思っ
 ていた荒れた大地に、奇妙な陰影を描き出していた。まるで別世界のように見える荒野を、しばら
   く、かぽかぽと馬を歩かせていくと、一際鋭く濃い影が、サンダウンの足元まで長く伸びている。
    岩か何かと思って目を凝らせば、しかし岩ほどの硬さは感じられず、微かに丸みを帯びている部
 分もある事に気が付いた。そして何よりも、影よりも影の本体のほうが、突き抜けて黒い。
  何よりも様々な色を飲み込んだ、何よりも色の濃い黒を、サンダウンはこの荒野では一つしか知
 らなかった。
  影の先にある深い黒を見つめれば、黒の中に白い鼻梁が月の光を受け止めているのが見えた。
  想像した通りの姿がある事にサンダウンは奇妙に安堵すると同時に、だがその姿が地面に寝そべ
 っている様子にどうしたのかと疑問に思う。
  突き抜けて黒い彼の姿と同じくらい黒い馬も、膝を突いて何やら休んでいるようだった。
  馬のすぐ脇で倒れているような姿に、サンダウンは馬の歩みを向けさせた。近づけば近づくほど、
 その姿はやはり倒れており、仰向けとなった身体の中で、顔だけが信じられないほど白い。高く形
 のよい鼻梁は、月の光の所為で蒼白にも見えた。
  馬から降りて、その身体の傍に立って顔を見下ろせば、白い顔の中で黒い双眸がゆっくりと動い
 てサンダウンを見た。夜露でも溜まっているかのように濡れている眼は、たった今まで仰ぎ見てい
 た空の色にそのまま染まってしまったかのような色をしていた。
  危うく吸い込まれてしまいそうなその眼に、一瞬狼狽えて眼を逸らし、サンダウンは誤魔化すよ
 うに、もごもごと問い掛けた。

 「………何をしているんだ。」 

  ころりと転がっている黒い賞金稼ぎは、サンダウンの言葉に緩慢に瞬きをした。
  普段の黒い賞金稼ぎ――マッド・ドッグの姿からは想像もつかない鈍い動作に、サンダウンは微
 かに不安を覚え、もう一度問いかける。

 「何を、している………。」 

  荒野のど真ん中で、眠るわけでもないのに仰向けに転がって、空を振り仰いで。

 「……月でも見ているのか?」

  マッドの視線の真ん中には、確かに銀色の月が浮かんでいる。マッドの眼にもそこだけ刳り貫か
 れたかのように白い月が落ちている。
  だが、サンダウンの台詞を聞き届けたのか、マッドは口の端を持ち上げて、いつもの皮肉っぽい
 笑みを浮かべた。
 
    「月を見る?あんたにしちゃあ随分と可愛らしい事を言うじゃねぇか。何か変な本でも読んだのか?」
 
     緩慢な動作は完全に隠れ、口調はいつもの如く軽やかだ。ゆらりと身を起こす仕草も獣のように
 しなやかだ。
  でも、とマッドは首を竦める。

 「あんたの予想を外すようで悪いが、俺は月も星も見てねぇよ。っていうか、月も星も、あんなも
  んは見るもんじゃねぇ。」

  眺めるものでも、愛でるものでもない。畏れるものでも、祈りを捧げるものでもない。
  黒い賞金稼ぎは、月のように白い頬についた砂を、長い指で払うとそう告げて小さく笑った。如
 何に美しかろうと、それに対して賛美の言葉を吐くのは愚の骨頂だと。

 「何を言ったってそれで言葉が通じるものでもねぇしな。月やら星を褒める暇があるなら、女でも
  褒めた方がよっぽど建設的だ。別に月やら星やら海やら山やら、褒めたきゃ好きにすりゃあいい
  さ。否定はしねぇよ。でも、人間が傍にいるなら人間に向かうほうが良いと思うがね。」

  そう告げてサンダウンを見るマッドの眼には、もう月の欠片も映っていない。マッドはサンダウ
 ンを見上げている。
  おそらく、サンダウンの眼にもマッドが映りこんでいるはずだろう。

    「星は読むもんだし、月は待つもんだ。」

    前者は場所を知る為に、後者は月を導に誰かを待つ為に。
  いずれも人の為であって、月や星を賛美する為ではない。

 「…………誰か待っていたのか?」

  月を見上げていたという事は。
  問えば、マッドが軽く笑った。

 「あんたは、なんで此処に来たんだ?」

  月の光のようなマッドの囁き声に、サンダウンは少し言葉に詰まった。そして、どんな言葉を返
 すべきか、酷く迷った。間違った答えを返せば、それっきりになりそうな気がしたのだ。と言って
 も何を言えば正解なのか、サンダウンにはとてもではないが分からなかった。
  なので、マッドの隣に無言で腰を下ろした。 
  すると、マッドが擦り寄ってきてサンダウンを風よけのようにしたので、どうやらそれで間違い
 ではなかったようだった。