日陰者とて、別に月を愛でないわけではない。
  汚い金で伸し上がった権力者が、豪勢な高台を作って遊女を侍らせて、かかと嗤いながら杯を空
 けるなんて事は、古今東西何処にでもある。
  そして、豪奢な満月の下、その喉元が掻っ捌かれる事も。




  月の霜





 「今宵は良い月じゃあ!」

  でっぷりと良く肥えた腹を、無理やり帯で止めて、どうにかして着物の中に押し込めている商人
 は、盃になみなみと酒を注いで、それを一度満月に向かって突き上げた。
  確かに、男がわざわざ口に出して言うのも頷けるほど、その夜の月は美しかった。
  真っ白な顔には、昔の人々が兎だ蟹だ、時には美女の横顔だと囁きあった、神秘的な痣があるが、
 それが今宵はくっきりと見えた。
  だが、それがなんなのか、言いさしたりするという遊びに興じるつもりは商人にはなかったよう
 だ。商人の意識は、専ら周囲に侍らせた遊女達の柔らかな曲線にあった。今にも舌なめずりしそう
 な眼差しで、ねっとりと女達を吟味する視線は、普通の女からしてみれば不愉快な事この上ないだ
 ろう。
  けれども、普通の女ならそのまま逃げ出してしまいたくなるような商人の情欲に濡れた視線を、
 いっそ微笑みを浮かべながら酌をしている女達は、やはりそれが仕事だから慣れているのだろうか。
  男が喜ぶ癖を知り尽くしている遊び女は、腰を振り立てるような動きで男ににじり寄っているよ
 うにも見える。

    「ほんに、良い月だこと。」

  男に擦り寄るようにして答える女の声も、男の視線と同じくらいねっとりとしていた。
  男に吸い付き、そして精気と金を巻き上げる女達も、所詮は下賤な商人と同じ穴の貉であるのか
 もしれない。
  男が宴を開く為の――そして女達の四肢を楽しむ為の出汁にされた月こそ、良い迷惑だろう。
  白く冴え冴えとした月は、そのまま眺めるだけでも十分な価値があるだろうに、それを無視され
 ただけではなく、男はでっぷりとした腹を揺らして、そのまま乱痴気騒ぎを繰り広げようかという
 目論見さえ覗かせている。
  下衆だ。
  きっと、この世で一番蔑むべき輩だろう。
  月を出汁にして男と女が逢瀬を交わす事は珍しくもないが、しかしでっぷりと脂肪のついた男が
 頭の中を情欲でいっぱいにして、ぼってりとした指で盃を持ったまま女の身体を舐め回すように見
 ているのは、どう贔屓目に見ても醜悪であったし、遊び女が仕事とはいえ男の金に屯して身体を蛇
 のようにくねらせているのも不気味であった。
  むろん、醜悪な男がそんふうに女に気を取られていなくては、成り立たない仕事というのもある
 のだが。
  盃を再び空けた男が、鈍い動きで芋虫のような指を女の身体に絡みつかせ、女達もそれに応じる
 かのようにしな垂れてみせる。白い肌に、ぶよぶよとした指が這って行き、着物の裾が次々に巻き
 上がっては乱れていく。 
  その合間合間に、戯れる男と女の歓声のような笑い声が沸き起こる。
  一人の男に無数の女が群れている。
  男の視界は、おんなの白い腕で、或いは太腿で、あるいは乳房でゆったりと覆い隠された。
  それが、好機だった。
  いや、別に無関係の女達がべったりと侍っている時点で、好機など何処にもなかった。男一人で
 あったなら、好機を窺う意味はあっただろうが、これほどまでに人が多いとなると、もはや、全て
 の息の根を止めるしかなかった。
  だから、これは好機というよりも、これ以上醜悪な現場を見たくなかったという思いのほうが強
 い。
  徐々に肌を露わにして、折り重なっては乱れていく男と女の身体を見つめていた双眸は、その下
 で冷酷に抜き払った小太刀を特に力強く構えるわけでもなく手に納めると、ただ一飛びで柱の色濃
 い影の中から抜け出して、脂肪の群れの中に飛び降りた。
  逆手に持った氷柱のような色をした小太刀は、勿論脂肪の群れへと吸い込まれていく。
  突然の重みも、戯れる女の重みが増えただけにしか思わなかったかもしれない。そして男の盾に
 なった女の呻きも快楽から出てくるものだと。 
  だが、眼を剥いてひっそりと血を流した女を見ても、そんな悠長な事を思えただろうか。
  けれども、きっと、それを思う暇もなかっただろう。男の上に覆いかぶさっていた女の首に突き
 刺さった小太刀を引き抜くなり噴き上げた血に、他の絡みついていた女達が悲鳴を上げたが、その
 悲鳴と同時に血濡れとなった女を突き飛ばし、その下に転がっていたでっぷりとした脂肪を掘り起
 こすと、間髪入れずに眼を見開いた男の、同じく大きく開いた口腔目掛けて小太刀を振り下ろした。
  男は、悲鳴一つ上げなかった。
  上げれなかったというべきか。
  代わりに、白い裸体を惜しみもせずに見せながら、女達が何事か甲高く叫んでいる。
  それらが一気に折り重なって、絶叫に変わり響き渡る前に、もう一本腰に帯びていた刀を抜くと、
 一呼吸さえも許さずに女の背中を、背骨の陰影に従って割り切った。
  そして返す刀で別の女の喉を捌き、走って逃げていく女の首目掛けて、男の口腔から引き抜いた
 ばかりの小太刀を投げつける。
  ぽてりぽてりと斃れる女達は、その瞬間までは姦しかったが、ひとたび太刀を受ければ、まるで
 何かが切れてしまったかのように黙りこくって、磨かれた床の上に、朱塗りの盃や酒を撒き散らし
 ながら転がった。
  やがて、全く静かになった酒宴の跡。 
  金やら丹で飾られた茶器や座布団を見下ろせば、そこには酸鼻を極めるような光景が広がってい
 る。肥えた男と遊女の死体がごろごろと転がっているのだ。騒ぎを聞きつけてやって来るであろう
 家人も、この様子には呆気に取られる事だろう。
  酸鼻を極める。
  だが、それ以上に男の醜態が極まっているのだから。
  それに、酒宴を朱に染めた襲撃者――おぼろ丸にとってはこんな光景は日常茶飯事の事であった。
 忍びである彼にとって、血というのは水のように身近なものであり、その匂いに顔を顰めるという
 事は、まるでない。
  尤も、無関係の遊女まで殺さなくてはならなかったのは計画外ではあったが、しかしそれも想定
 されていた事ではあった。無関係とはいえ、目撃者は全員口を封じなくてはならない。それは今更
 すぎる鉄則だった。 
  おぼろ丸は血糊で埋まった光景には眉一つ動かさず、ただ、月の光をきらきらと受けて煌めく金
 の欄干を見やった。
  高台に張り巡らされた欄干は、男が勢を凝らそうとしたのだろう。全てに金箔が張られ、煌めい
 ている。もしも真昼であったならば、眩しくて見れたものはないだろう。
  ただ、幸いにして今は夜で、月の光は日の光よりも強烈ではない故に、ともすれば下品になりが
 ちな金色を神秘的な色合いにしている。
  白々と煌めく欄干を見て、そしてそれを照らしている白く丸い顔を見上げ、おぼろ丸はたった今
 殺したばかりの男が口にした台詞が、決して間違いではなかった事を初めて知った。藩の次男坊を
 騙し、藩を脅しては金を巻き上げて私腹を肥やしていた男が、終ぞ言った真実であったのかもしれ
 ない。
  なるほど、確かに。

 「今宵の月は、美しい。」

  喉の奥でひっそりと告げた声は、酷く穏やかで、床に散らばる血臭も、白い肉も、全く知らない
 かのようだった。