月を賛美する風潮にあるのは、世界には良くある事かもしれないが、特に多いのは月見なんてい
 う月を見るだけの行事のあるアジア圏だろう。
  アジア圏の月見の期限は、中国の中秋節である。




  月の名残





  しかし、レイにとって、月なんて物は眺めるべきものではなかった。
  未だ人間の平均寿命からして人生の折り返しにも差し掛かっていないにも拘らず、頬にきっと一
 生消えないであろう鋭い傷跡の残る少女が月を見上げる時と言えば、その明るさに対して忌々しさ
 を覚える時だけだった。
  盗賊に身を窶していたレイにとって、暗がりは己の故郷であり、仕事場であった。故に煌々と白
 い顔を輝かせる月夜は、レイには異郷の地のようなものであったし、何よりも身を隠せない事がそ
 の日の食い扶持にも関わってくる。闇に紛れて盗みを働く輩にとって、月夜とは舌打ちしたくなる
 時であった。
  まして、レイのように力もない、ただただ痩せ細った子供には、暗闇という力添えがなければ盗
 みも上手くいかない事が多い。勿論、夜であろうとも相手を騙しきってその隙に盗むという手間は
 必要であったが、しかし昼間にそれをして、仮に上手くいったとしても顔を覚えられてしまったら
 それまでだった。
  顔を覚えられ、そして二度とその土地で盗みを働けなくなったという輩をレイは見た事があるし、
 レイ自身、そういう目に会って土地を転々とした事がある。
  だから、顔を見られる可能性の少ない闇夜のほうが、レイにとっては都合が良い。
  月夜というのは、レイの命を削るような夜だった。
  住む家もなく、着る物は何処かから拾った――もしかしたら生き斃れた死体から奪った物かもし
 れない古ぼけた物だけ。
  そんな子供に、月を見てそれを賛美する余裕など、何処にもありはしない。
  中秋節というものがある事は知っていたが、それを聞いてもレイには金持ちの道楽にしか思えな
 かった。そして、その期間は自分達の胃袋に入る、何処かの家の残飯が豪勢になる事くらいしか。
  盗賊を止め、心山拳の師範だとかいう老人の弟子にされ、兄弟弟子が中秋月だと騒いでいてもレ
 イには他人事のようにしか感じなかったのは、そういった謂れがあったからだ。
  中秋節だと息巻いて、月餅を作るのだとサモに言われた時も、一体何を言っているのか分からな
 かった。そもそも、月餅というものについて、レイは良く知らなかったのだ。それを言うのも癪な
 ので、そうかい、とだけ返事をしていたのだが。  

 「今日は中秋節じゃしな。稽古は止めにするかのう。」 

  騒ぐサモとユンを見て、ほっほっほっと笑いながら言う師範の言葉に、自分は別にどうでも良い
 のだが、と思う。何よりも、中秋節だから、何をすればいいのかが分からない。
  なので、料理だなんだと騒ぐサモとユンを、レイは黙って見るしかなかった。  
  そもそも月餅という菓子を作って月を愛でるのだと言われても、レイはそれでだからなんだと言
 うしかない。
  せめて何か手伝いでも、と意地っ張りな彼女なりに考えたが、料理はどう考えたって兄弟弟子の
 ほうが上だった。大体、月餅についてもぼんやりとしか分からないのだから、手伝いのしようもな
 い。出来る事は、せいぜい創り上げられた月餅なる物を食べて、美味いかそうでないかの判断を下
 すだけだった。それも、月餅の味が良く分からない上に、これまでの食事よりも今の食事のほうが
 ずっと良い為、何を食べても上手く感じるので、あまり参考になりそうにもなかったが。
  なので、餡がどうだの、一緒に中に入れる木の実は何が良いだの言い合うサモとユンの様子を横
 目で眺め、レイは、ふん、と鼻を鳴らした。

   「月には、仙女がいるそうですね。」

  月餅を丁寧にお椀に盛りながら、そう告げたのはユンだった。
  祖母から聞いたのだと、何故か少し恥ずかしげに告げる少年は、月餅を椀に盛る手を止めないま
 まに続ける。

 「とても綺麗な女性だとも、蝦蟇だとも言われてるそうですよ。」
 「ふうん。」

  何もする事がなく手持無沙汰なレイは、けれどもユンの言葉にも興味が持てず、適当に相槌を打
 つ。
  正直なところ、仙女なんてものはレイはこれっぽっちも信じていないのだ。
  天帝や西王母の話は、ちょくちょく小耳に挟んだ事もあったが、けれどもそういう人智を超えた
 存在が、自分達の為に何かを為してくれた事は一度もなかったので、レイはその手の信仰を何処か
 冷やかに、ともすれば嘲笑うような気持ちで眺めていた。
  ただ、ユンの口調には信仰だとかそういった薄気味の悪いものとは別の、お伽噺でも話して聞か
 せるような響きがあったので、レイも嘲る声ではなく、ただただ興味のない声で返事を返したので
 ある。
  そんなレイの声の響きに気づいてかどうかは分からないが、ユンは小さく邪気のない笑みを浮か
 べ、あと、月には兎もいるとか、と言っていた。

 「その他にも桂の木が植わっていて、それを男が切り倒そうとしているっていう話もあります。」
 「………切って、それでどうするって言うんだい?」

    何も言わないのもおかしいので、レイはとりあえず興味がないままに問うてみる。
  すると、ユンは笑みを浮かべたまま顔を上げてレイを見て、答えた。

 「この男が桂を切れば、月が欠けていくんだそうです。」 

  本当でしょうか、と笑いながら首を傾げる兄弟弟子に、レイはゆっくりと首を振った。

 「さあね。いるかどうかも分からないんじゃ、嘘かもしれないね。」
 「そうですね……。ただ、この男も嫦娥と同じく、やっぱりとても美しいんだそうですよ。」
 
     その台詞に、レイは、はっと嗤った。
  どうやら、月というものにはどうしたって美というものが付き添うらしい。
  きっと、それは間違っていないのだろう。それが普通なのだろう。月を見上げて忌々しげに舌打
 ちするレイの生活のほうがおかしかったのだという事は、レイもちゃんと理解している。自分が胸
 を張れる生き方をしていない事は、誰かに糾弾されずとも知っているのだ。
  しかし、だからといって、いきなりこれまで忌々しかった月夜を美しく思えだなんて言われても
 出来るわけがない。どれだけ食うに困らず、誰かに襲われたりする事のない生活であるのだと知っ
 ていても、眼が覚めた瞬間に自分が安全な場所にいるのかどうか混乱するうちは、月を美しいだな
 んて思えるわけがない。

    「月にいるっていうのは、そういう美男美女ばかりなのかい。」 
 「多分、月が綺麗だからですよ。」 

  レイの嗤う言葉に、笑んで返す兄弟弟子の言葉も、今はまだ理解できるはずもない。
  レイ、ユン、とサモが外で騒ぐ声が聞こえた。どうやら、月見というものの準備ができたらしい。 
 ずっと料理を作ってそれを外に並べるのに忙しかったサモの声に、ユンも月餅の盛り付けられた椀 
 を持って外へと出ていく。 
  その様子をぼんやりと見ているレイの耳に、サモが早くと急かす声が入ってきた。

 「もう月が出たっチ!とっても綺麗っチよ!」

     そう叫ぶ声に、レイはいつかその感覚が染み渡る日が来るのだろうか、と呟いた。