そもそも、月を口説き言葉に使おうというのが、間違っている。
  欧米人は、そう思う。

  


  月の前の灯




  月というのは、古来より太陽と並んで神秘であった。
  しかし、太陽が金、黄で表されるのに対し、月は銀、白で表される。そして太陽が男であるのな
 ら、月は女、というふうに。つまり、月は太陽に準じるものであり、太陽の二番手である。
  まるで自分のようだ。
  ストレイボウは、遠く陽だまりの中で鬱金の髪をキラキラと反射させて村人と笑い合っている剣
 士を見て、顔にこそ心境を出さなかったが、心底で苦々しく思った。
  別に、自分が月のようであると思った事はない。
  月は、二番手だという印象こそあれ、しかしその白々とした銀の裾は美しく、闇夜にひっそりと
 浮かぶその姿は何も知らない処女のようである。事実、月を女性に見立てる事は多い。鋭く細い三
 日月は処女で冷徹なアルテミス、ふっくらと曲線美しい満月はセレネである。
  或いは、太陽の存在する真昼に空を渡る、真昼の月は無謀に見えるかもしれないが、けれども果
 敢に空を辿ってゆく。
  ストレイボウは、生憎とこの世に存在するありとあらゆる月からは掛け離れた容貌をしていた。
  銀箔の月のような美しさは何処にもない、血色の悪い顔と、それを覆うねっとりとした髪は目立
 たない鈍色だ。眼の色も剃刀色と言えば鋭い印象を受けるが、しかしその眼の色で誰かを圧倒した
 事など一度もない。
  どう考えても月のような、何処か掴みどころのない、けれども蠱惑的な美しさというものからは、
 大きくかけ離れたストレイボウの容貌は、一言で言ってしまえば、冴えない、というものだった。
  しかし容貌が冴えなくとも、その身体の内々から発する気配が他者を圧倒する、もしくは行動の
 一つ一つが一目置かれるという人物も存在しよう。小柄な老人から健啖な気配が立ち昇るように。
 だが、ストレイボウにはそれさえない。基本的に世間をひねた眼で見ているストレイボウは、大勢
 の前で人目を惹くような行為をする事は愚かであると思っていたし、人目を避けた場所でも誰かの
 心を奪うような行為をする事はなかった。
  そうしたストレイボウの、人目を気にしながら人目を避けるという行為は、ただの臆病者以外の
 何物でもなかったのだが、ストレイボウ自身がそれを認める事は、彼の生涯において終ぞなかった
 のである。
  ただ、ストレイボウが認める事が出来たのは、己は月に似ているわけではないという事実だけだ
 った。
  夜を照らす密やかな美を持つ月でもなく、真昼の青空を渡りゆく果敢な月でもなく。
  しかし、ストレイボウが己を月ではないと言い張ったのは、それは月の美しさや果敢さを思って
 の事だったのかは、甚だ疑問が残る。
  何故ならば、ストレイボウが己と月の結びつきを否定したのは、それは月というものに纏わる暗
 い側面を指しての事だったかもしれないからだ。
  満月は、魔女がサバトを行う夜である。
  魔女狩りと称して罪もない人々を処刑し、それに乗じて気に入らない政敵を葬り去っていくとい
 う風潮がヨーロッパ諸国に蔓延した頃をストレイボウは生きていたのだ。
  ストレイボウは、魔術師である。
  言っておくが、如何にも起こり得そうな事を言い募ったりどうとでも解釈できる予言をあげつら
 ったり、奇術――所謂手品を魔法として見せるような、紛い物の魔術師ではない。
  生粋の、れっきとした魔術師であった。
  空を飛び、人を兎に替え、神の声を聴く事こそ出来なかったが、何もない所に一切の技なく炎を
 立てる事は出来たし、微かな風を引き起こす事も出来た。むろん、後世に語り伝えられているよう
 な魔法使い――薬草を煮詰めたりした古き知恵を持つ人々――のように、薬を作る事も出来た。
  生まれた時かられっきとした魔術師であり、悪魔の視線を逸らす為に使われぬ本名のほかに、当
 たらぬ弓という忌み名を持つ彼は、確かに誰よりも魔というものを身近に感じていた。
  それは、ある時代までは重宝され、尊敬される存在であった。
  薬草や悪魔祓いに長けた知識は、何も知らぬ無知なる人々にとっては畏怖すべきであったのだ。
  だが、畏怖は裏を返せば、恐怖である。
  そしてそれに気づき、それを利用し、己の意向を高めようとしたのが神の家たる教会であった。
 それが、悪名高い魔女狩りの始まりである。
  そして、魔女狩りの風はストレイボウが身を置く小さな田舎国家ルクレチアにまで押し寄せてい
 た。
  何の利権も持たず、拘わらぬ小国にまで教会が置かれているのは、魔女狩りの本質が貴族の駆け
 引きや利権争いである事を見抜いていたストレイボウにしてみれば、酷く奇妙に映った。けれども
 一方で、権力に溺れた人間というのは何処にでも自分の威光を置きたがるものだともストレイボウ
 は察していた。
  だから、ルクレチアにある教会を、ストレイボウは冷やかに権力主義の象徴のように見ていた。
  しかし、その一方で、誰よりも足蹴く教会に訪れた。
  ストレイボウとて愚かではない。如何に小国と雖も、魔女の烙印を押されてしまえばどうなるか
 くらい、小さな子供でも想像がつく。ましてストレイボウは教会の敵である魔術師なのだ。何処に
 敵が潜んでいるともしれない。
  ストレイボウは知っていた。
  己の行く先々を監視する目がある事を。
  薬草を煮詰め、悪魔を祓う自分の脚を引っ張ってやろうと、己が魔女として、神の敵対者として
 襤褸を出す瞬間を窺い見る目がある事を。
  その眼が何者であるのか、ストレイボウは特に追及した事はなかったが、その眼がストレイボウ
 がいつサバトを行うのかを、今か今かと待ち遠しく思っている事は知っていた。
  だからストレイボウは、誰よりも熱心に教会の行事には参加したし、面倒なしきたりも全て覚え
 込んで教会の望む通りの作法を取った。勿論、魔女がサバトを行う日だという満月に、出歩いたり
 しない。
  そうして、ストレイボウは己が無害な羊である事を示しながら生きてきたのだ。
  だが、それを鬱金の太陽のように輝く髪は、いつもいつも、粉々に粉砕する。

 「ストレイボウ、今夜少し外に出てみないか?」
 「断る。」

  夜遅くにストレイボウの元を訪れた、ストレイボウを友だと言い張る剣士の誘いを、ストレイボ
 ウは一蹴した。
  今宵は満月だった。
  己と魔女を括り付ける満月の夜に出歩くなど、ストレイボウには考えられない事だった。きっと
 今も、監視の目は続いている。

 「今夜は、月が綺麗なんだ。」

    月よりも太陽が相応しい鬱金の髪の剣士の台詞に、ストレイボウはその差異に顔を顰めたが、剣
 士はストレイボウの表情の変化など全く気にしない。もしかしたら、気づきもしていないのかもし
 れない。

 「こんな日に辛気臭く家に閉じ籠ってるなんて勿体ない。」
 「そんなの、俺の勝手だろう。」

    魔女の烙印を押され、火炙りにされるよりもましだった。魔女と認定された為、生きたまま火炙
 りにされ、途中で火から降ろされた挙句陰部を見せられ、所詮はただの女であると断じられて再度
 火炙りにされた少女を、ストレイボウは聞いた事がある。
  だが、そんなストレイボウの懸案をオルステッドは感じ取ったわけでもないだろうに、全く根拠
 もないままに笑い飛ばす。

 「大丈夫さ。」

  何を根拠に、と言い返そうとしたストレイボウに、オルステッドは太陽と見紛うほどの笑顔で続
 ける。

 「今夜は、外には誰もいないさ。この私が、変な連中を追い払ったからね。あんな連中にこんな月
  夜を邪魔されるなんて、野暮以外の何物でもないよ。」
 
  全く、と屈託なく笑うオルステッドに、それ以上の意味はなかったのだろう。
  けれども、オルステッドの台詞がストレイボウに凄まじい勢いで突き刺さった。
  つまり、ストレイボウがその視線から逃れようと月の下に出なかった監視の目は、オルステッド
 の言葉一つで追い払えるものなのだ。
  ストレイボウが逃げ隠れしていたものは、オルステッドには大したものではないのだ。そしてオ
 ルステッドはストレイボウを連れ出そうとしている。それはまるで、太陽なしには輝けぬ月を暗示
 しているかのようだ。
  いや、輝きもしないストレイボウは、月でさえない。
  ぞわり、と背筋を這い上がったのは一体なんだったのか。
  言葉を付ける前に、ストレイボウは表情に出さず、ただ仕方なさそうな溜め息だけをわざと吐き
 出し、オルステッドの後についていった。
  けれども、溜め息の色はどす黒い色をしていた。
  気づく者はいなかったけれども。