マッドは雪を頂いたシエラネバダ山脈に背を向け、ディオを連れて山脈と盆地が交互に繰り返さ
 れるような大地を、ぽくぽくと歩いている。
  賞金稼ぎに対して憎しみを持って、そして延々と殺人を犯し続けていた男を撃ち抜いたおかげで
 マッドは自分の腹の底が妙に冷え込んだような気分になっている事が分かっていた。
  それは、殺人に巻き込まれた賞金稼ぎ達の死体が、何故もっと早く、と虚ろに無念な眼をしてい
 たからに他ならない。そして、きっと聞く事はないだろうが、遺族の中にもそう思う人間がいるだ
 ろうという事が、マッドには分かっている。
  マッドの所為ではなくても、そう思わなくては生きていけない人間はこの世に大勢いる。
  そんな事は、マッドには分かっている。
  それに、或いはマッドが殺した元保安官に近しい輩が、逆恨みをして命を狙ってくる事だってあ
 る事も分かっている。
  それだけは、銀の星だろうと嘆きの砦だろうと、変わらぬ事象であった。
  



  争いにより生まれた州





  山脈による高低差と、それによって生まれる剥き出しの砂漠。しかし、一方でゴールド・ラッシュ
 ならぬシルバー・ラッシュに湧いた土地でもある。そして、未だに多数のインディアンが住む場所。
  そして、後世、この地に住むインディアン達によって、世界一のカジノが生まれる土地でもある。
  脈々と自由で、そして同時に危険な魅力を受け継ぐ事になるネバダ州を、マッドは未来を知って
 いるわけではないが、しかし何かを感じ取っていたのか、気に入っていた。
  もし、一人になりたい時は、インディアン達にさえ不毛であると言われる砂漠に迷い込む事もで
 きたから、余計にマッドには魅力に映ったのかもしれない。何よりも、その不毛の大地には、人目
 を避けようとする、何処か自分の命には無頓着な男がいるかもしれないという予感を孕んでいた。
  低木と枯れかけたような草しか生えていない砂地に、毛布に包まって座り込んだマッドは、真夜
 中の途方もなく透き通った夜空を一人で読み込んでいた。
  わざわざ星を読む必要もないほど世界は明瞭であったし、明日の天気を占う必要などないほど、
 この地は水に餓えている。
  ただ、星を読む事で、自分の立ち位置が明瞭になる事も確かだった。
  何よりも、背後に近づく気配を感じ取るには、静かに息を殺して星を読む以外にすべき事はない。
  視線の先には、おそらく騒々しいほどに派手な人々の生きる街がある。これから発展するであろ
 うギャンブルに興じる人々の熱気が、きっと立ち込めているに違いない。
  だが、背後から近づく気配はそれとは丸きり真逆の気配だった。
  マッドが座り込んでいる不毛の大地と同じくらい静かで、一方で容赦のない苛烈さを持っている。
  その苛烈さはマッドが今まで感じた事のないもので、ふと、もしかして怒っているのだろうか、
 と少しばかり愉快な気分で思った。
  だが、同時にマッドには怒りを向けられる謂れは何処にもない。
  怒りの矛先は、今や天国でも地獄でも何処にでも行ける、他人を守る事に囚われて他人の眼に囚
 われた、死んでしまった元保安官に向けられるべきものだ。
  或いは、そんな男の中にあった激情を見抜けなかった自分自身を。
  なので、マッドは背後から近づく男と同じくらい容赦なく、言い捨てた。

 「てめぇから俺に近づくなんて、よっぽどだな。何の用だ。」

  振り返りもせずに言い放つと、さくり、と立ち止まる砂の音がした。そのまま風の音に掻き消え
 てしまいそうな音であったが、マッドには男が顔を顰めた事が分かった。

 「でも今はてめぇの相手をしてやってる暇はねぇ。生憎と、俺はこの星空を満喫してる真っ最中な
  んでね。それとも、まさか俺がいつでもあんたの相手をしてやるとでも思ってんのか?」

  そんなわけねぇよな、と、いつもは直ぐに逃げ出す事を揶揄してやれば、男がますます顔を顰め
 た気配が漂ってきた。
  むろん、マッドにはそれを気にしてやる必要は全くない。
  当たり前だった。
  何故、憐れみの矛先を向ける先を間違っているかつての銀の星に、マッドが何かを言ってやらね
 ばならないのか。

 「もしかして、あんた、あの元保安官の死体を見つけたのか。」

  具体的な名前を出さずに、確証を持って問いかける。
  きっと、見ている。マッドが撃ち殺した元保安官の死体を。そして、きっとそれは男の知り合い
 だった。何処まで深い仲であったのかは分からない。単にすれ違っただけか、それとも悩みを相談
 し合うほど親しかったのか、そこまではマッドには分からない。
  けれども確かに知り合いであったはずだ。
  同じ北部軍の出身で、コロラドのあの町で前後して保安官になったというのなら。マッドの足跡
 の後追いが正しければ、この推測は当たっている。
  そして、マッドと同じく誰が賞金稼ぎ殺しの犯人であるか――マッドが撃ち殺した元保安官が犯
 人である事にも気づいているに違いない。
  もしかしたら、マッドよりもずっと早く気づいていた可能性だってある。

   「あんた、何?もしかして、怒ってるのか?」 

  俺が元保安官を殺したから。
  マッドの声は、夜の張りつめた色と同じくらい冷ややかだった。そしてようやく、振り返って、
 背後に佇んでいた荒野と同じ色をした男を見た。砂色の髪と青い眼は、今は闇に沈んでいるが、け
 れどもやはり、身震いするほど荒野に似ている。
  だが、無慈悲でありながらも公正である荒野から少し掛け離れた表情をしているのは、やはりマ
 ッドが殺した男の事を知っていたからだろうか。

 「あんた、あの男が何をしたのか知ってるか?」

  荒野に座したまま、マッドは砂色の髪をした男を眺める。今の男の属性は、マッドが追い求める
 賞金首だが、かつてはマッドが殺した元保安官と同じく、守るという本分を持っていたのかもしれ
 ない。
  けれども、だからといって全ての罪が許されるわけではない。
  性質の悪い賞金稼ぎを、正義の御旗の下に撃ち落した。だが、賞金稼ぎの仲間達が大挙して押し
 寄せた。だから、保安官は任務地を転々と変えた。そして、最後、この不毛の大地で箍が外れた。
  押し寄せる賞金稼ぎ達を悉く撃ち落し、この地はならず者と争う地と成り果てた。
  それでも保安官を辞め、そしてカリフォルニアの山に引っ込んで、なんとか箍を元に戻そうとし
 たのだろう。それは、叶わなかったが。
  同情できなくはない。
  その経歴には。

 「でも、食うに困って賞金稼ぎになったばかりの、しかも全く関係のないガキを殺す必要があった
  んか。」

  カリフォルニアに引っ込んでも、男は争いを止められなかった。むしろ自ら進んで行っていた。
 そこに、同情の余地はない。

 「それとも、賞金稼ぎだから殺されても構わねぇって?」

  問い掛けると、男の苛烈な気配が奇妙なほど薄れて、いつもと同じ酷い静寂が訪れた。視線を男
 から外したマッドに、普段よりもかさついた、割れた鐘のような声が小さく届く。

 「いいや………。」

  ただ、と掠れた声で、死んだ男の代わりに詫びるように囁いた。

 「誰もが、賞金稼ぎを憎んでいるわけではない。」

  時に疎んじたり苛立つ事もあるが、決して軽蔑したり、まして憎んだりはしていないのだ、と。
  法を乱すのも、その網目を掻い潜るのも、それは人々の嘆きがそうさせるのだ、と知っている者
 もいる。
  それを知る者は少ないだろうけれども。だが、確かに気づく人間もいるはずだった。

   「………例えば、お前を見て私が気づいたように。」

  恐ろしく近くで囁かれた声に、マッドが咄嗟に振り返ると、そこには既に砂色の風が舞っている
 だけだった。