In die hohle Hand Verlangen
 






 己の手の中にある銃で、マッドの黒光りする銃を弾き飛ばしたのはいつもの事だ。

 しかし、銃弾と共に弾倉に込められていたのは、怒りにも似ているがそれ以上に醜い感情だった。

 その感情の名前も、それが何に起因するものなのかも、サンダウンは嫌気が差すくらいに知っている。
 
 腕を抑えて蹲っているマッドが、賞金稼ぎとして以外の理由で銃を扱っている事が、サンダウンには許せないのだ。

 しかも、銃を扱っている理由というのが、雇われの随行者というのも、サンダウンの神経を逆撫でする。

 賞金稼ぎとしては申し分のない腕を持ち、稼ぎにも困らないはずの彼が、随行者として雇われる必要などない。
 
 そもそも、マッドを雇おうとする者は大抵の場合、マッドの身体に良からぬ視線を向けている。

 その為かマッドは誰かに雇われる事を厭う。

 そんな感情を追いやって雇われても良いと思う相手は、彼と相当深い関係にある者だろう。

 だが、サンダウンの想像とは裏腹に、マッドを連れ回しているのは、マッドに艶めいた眼差しを向ける麗しい青年だった。


  
 醜い感情に、いちいち名前を付ける気にもならなかった。

 賞金首である自分が賞金稼ぎであるマッドの前にわざわざ姿を現わすという、らしくもない行動を取った時点で答えは出ているのだ。

 マッドが青年を逃がした事に少し蟠りを感じながらも、それでも二人の間の夾雑物がなくなった事に喜んでいる。

 青年を乗せた馬車の車輪の音は、もう耳には届かない。

 青年達が残した炎もマッドの手によって掻き消され、二人だけの空間を誰にも覗き見れないようにしている。

 普段通りの自分達の時間が手に入り、サンダウンは満足している自分に気付いた。

 邪魔するものは何一つとしてない。



 サンダウンは蹲っているマッドに近寄り、その黒髪を掴んで無理やり顔を引き上げさせた。

 訊きたい事も言いたい事も、喉元につっかえるほど大量にあった。

 何よりも、淡く美しい青年の手を拒絶してサンダウンと一夜を共にした癖に、再び青年のもとに戻った理由を問い詰めたい。

 だがその前に、銃を弾き飛ばされた後に一言も発せず、サンダウンに視線を向けずに蹲っているマッドの様子が恐ろしかった。

 乱暴に顔を引き上げたが、内心、その瞳に浮かぶ光の色に戦々恐々としている。
 
 そして見下ろした黒い瞳は、あの夜と同じ、どこか傷ついたようにひび割れていた。

 しかし、そんな眼とはまるで別個体であるかのように、マッドの口元はいつものように薄い笑みを浮かべて引き上げられている。



「へっ、どうしたよ。てめぇから俺に逢いにくるなんざ、明日は世界が滅ぶんじゃねぇか?

 それとも、やっと俺達の関係に決着をつけようって気になったのか?」


  
 相変わらずの口調で吐き出される言葉は、それでも讃美歌のように滑らかな響きを持っている。

 だが、教会で響くそれのように妙に澄んで硬いのではなく、微かに残る訛りがマッドの声音を柔らかいものにしている。

 半分以上が強がりに満ちた言葉を聞いて、初めてその事に気がついた。

 あの青年は、この事に気づいていたのだろうか?

 そう思えば腹の底に苛立ちが燻り始め、サンダウンは一言も言葉を結ばずに、マッドの身体を引き寄せた。

 想像していた以上に呆気なく腕の中に収まった身体は、腕の中に閉じ込められても大人しい。



「止めろよ………。」



 低く告げて身じろぐ身体。

 しかしそれらは抵抗と呼ぶにはあまりにも弱い。

 その事に違和感は覚えたが、抵抗がないという事実だけを拾い上げ、サンダウンはマッドの額に口付ける。

 額から鼻先に、鼻先から頬に。

 それに伴って、マッドの瞳も口付けに応じるように閉ざされていく。

 触れるだけの唇が、閉ざされたマッドの瞼を縁取る睫毛にくすぐったさを感じた時、サンダウンの瞼にも熱が灯る。
 
 まるで、別の生き物のようにそこだけ熱を持って、ひくひくと脈拍を速める皮膚。

 全身に散らばりそうな熱を掻き集めると、思い出されるのは熱を与えた皮膚の感触だ。

 その皮膚は今、眼下で薄く開き、細い呼吸を繰り返している。

 自分の唇で貪るように何度も感じたのに、奪った感触よりも、与えられた感触のほうがまざまざと思い描く事が出来る。

 



 あの晩。

 何度も口付けた。

 額に、頬に、唇に。

 腕に抱き込まれて、空よりも透明な瞳に傷ついたような色を浮かべる彼に、傷つけたいわけではないのだと思いながら、それでも熱
 を奪い取る。

 その瞳の色が何を思っているのかは、他者がマッドにぶつける視線を思えば想像するは容易い。

 違うのだと否定しても、マッドにとってはサンダウンの行為も同じものに思えるのだろう。

 真に彼の事を思うのならば止めてやればいい。

 だが、魔王の気配の濃い夜に、その身を手放す事などできはしない。

 蒼褪めたシーツの上に倒れた身体は色に反して酷く暖かく、その熱に誘われながらも弁解の意を込めながら口付けた。


『キッド…………。』

 
 零れる声は普段聞くものとは全く違った音をしており、サンダウンが感じる熱を一層深くする。

 物言いたげに瞳の光を歪めていたマッドの指が、シーツの上を彷徨うのを止め、サンダウンのシャツに縋りついた。

 声と端正な指の動きに煽られて更に口付けて、吐息が顔にかかるほど身を寄せ合って。

 その手を自分の肩に導いて。

 マッドの透明な黒瞳に、自分の顔が映るくらいに近づいて。


 それは、不意に、訪れた。
  

 サンダウンの肩を緩く掴んでいた指が、明確な意思を持って動く。

 傷の多い、しかしそれでも秀麗な手先。

 長くしなやかな指が、サンダウンの頬に触れた。

 初めてかもしれない、マッドからの接触。

 どれだけ自分を追いかけていても、熱を触れ合うのはいつもサンダウンからだ。

 それが、マッドからサンダウンに触れている。

 
 恍惚となる一瞬。

 だが、転瞬、驚愕に置き換えられた。
 
 顔がぼやけるほど近づいた顔。

 柔らかく啄ばむように、サンダウンの瞼に触れたのは、火傷をするように熱く弾力があった。

 何、と頭が理解する必要もない。

 理解よりも速く、心にじわりと熱が沁み渡る。

 その熱の名前を何と言うのか、サンダウンは知っている。

 とうの昔に捨てたと思っていた感情だ。

 けれど、なくすまいと足掻いていた。

 眼も眩むような勢いで揺さぶられた心の琴線は、その反動で弾かれたように激しく熱を求める。

 驚愕が喜悦にすり替わった時には、心の中で渦巻いていた熱は完全に形を取っていた。

 しかし、それはあまりにも翻りやすい感情だ。

 現に今、醜く収斂してマッドを傷つけようと動いている。

 


 
 
 瞳を閉ざしたマッドに強請るように口付けて、瞼を開くように促す。

 あの青年に向けられたであろう眼差しを見たいと、マッドの肌を再度自分の熱で塗り替えながら、瞳を開くように強請る。

 何度も口付けた後、息苦しくなったのか根負けしたのか、ようやく黒い瞳が曝される。

 そこにあった光には、どこにも傷ついた色は見当たらない。

 代わりに、酷い嫌悪と恐ろしいほどの怯えに満ちていた。

 その眼差しに、サンダウンは虚を突かれたが、傷つきはしなかった。

 嫌悪と怯えの光は鋭くサンダウンを見ているが、それは寧ろマッド本人に向けられたもので、

 サンダウンに向けられているものは、マッド自身を貫いた光が反射されただけのものにすぎない。

 
 一体、何故。


 虚を突かれた後に浮かぶのは疑問だ。

 サンダウンの行動に嫌悪や怯えを呈するのは分かる。

 これまで散々、肉体的欲求を浮かべた視線で見つめられてきたのだから、それは当然の事だ。

 だがマッドが浮かべるそれらは、マッド自身に投げかけられている。

 何故、組み敷かれているマッドが自身を嫌悪するのか。

 マッドの心の有り様はその眼からはっきりと読みとれるが、その理由までは教えてくれない。

 
 仕方なく自分で考えを纏める事にしたサンダウンだったが、思い浮かぶのは碌でもない事ばかりで、

 とてもではないが、マッドの事を思い遣ってやれるような考えは出てこない。

 網膜の裏にちらつくのは、淡い金髪と青い瞳の青年に抱き締められる姿ばかりだ。

 その光景が、どうしても良からぬ想像ばかり引き起こす。



 ――守りたいほど、気に掛けていたのか。

 ――腕に閉じ込められても良いくらい、心を許していたのか。

 ――口付けも、誘いの言葉も、本心では喜んでいたのか。

 ――気にかけて、心を許して、喜んで、どこまでその身の奥深くに、刻みつけられた?

 ――だから、他の男に抱かれている自分を嫌悪するのか。



「キッド?!」



 ようやく腕の中で上がった声は、困惑と本心からの拒絶で微かに上擦っていた。

 それが更にサンダウンを苛立たせる。

 あの子供には、どんな声を聞かせたのか。

 それを、確かめたい。

 ジャケットの下に手を差し込み、腰から肩に手を這わせてジャケットの袖をその腕から払い落す。

 逃げを打ったマッドの身体に全体重を掛けて押え込み、両腕を片手で掴み頭上で人括りにする。

 もう片方の手は、首元まできっちりと止められたシャツのボタンを器用に外していく。

 

「キッド!やめろ!」



 本気の拒絶だ。

 押え込んだ身体の抵抗が、それを物語っている。


 そんなに嫌か。

 一晩中抱き合って口付けを交わしても、その身を見せるのは、嫌か。

 
 普通に考えれば当然の事だが、もう一つの考えがあるサンダウンにしてみればマッドの拒絶を聞いてやる事はできない。

 他に何か理由があるのか。

 そういった思いが胸の底で膨らんでいる。

 一歩間違えれば引き裂きそうだったシャツを、なんとか壊さずに剥ぎ取り、マッドの肌を自分の視線と月白の光の下に曝す。

 ごく自然に美しい配列で並ぶ筋肉と骨格で積み上げられた身体は、外気に曝されて僅かに身を震わせた。

 整った肌の上は、一点の曇りもない。

 小さく粟立っている身体をうつ伏せにしても、やはり同じで、肌にはいかなる痕も存在しない。

 身を捩り嫌がるマッドを無視して、丹念にその身体に視線を巡らせるが、そこにはサンダウンが想像していたような鬱血の跡は一つ
 として残されていなかった。

 時折、傷跡のようなものを見つけたが、それらはいつついたとも知れない古いものばかりだった。

 だが、それだけでは解放してやれない。

 ホルスターが止めてあるベルトに手を掛けると、マッドの眼が零れ落ちそうなくらい大きく見開かれた。

 カチャカチャと響き始めた金属音を掻き消すように、マッドの拒絶の声が大きくなる。



「い、やだっ!キッド!」



 マッドの声にあるのは、本能的な恐怖や嫌悪ではない。

 微かに懇願の様相を見せた声音が物語るのは、自分の身体がどうとかそんなのではなく。

 だが、サンダウンが思い当たるよりも先に手は閃いて、マッドの下肢を覆うものを取り払った。

 その瞬間に黒い瞳に走ったものに息が詰まりそうになったが、それよりも投げ出された長い脚に眼を奪われた。

 誰にも汚された事がないような、そして実際に汚された事などないのだろう、そんな整った形をしている。

 眼を背け唇を噛み締めているマッドの様子を窺いながら、そっとうつ伏せにすると、傷一つない背が広がる。

 浅く浮いた肩甲骨から腰のラインは、まるで野生の獣のようだ。

 引き締められた腰の下にある、影一つない直線。



 サンダウンの想定していた碌でもない考えを一蹴してみせた身体は、しかし苦しげに顔を歪めている。

 その表情に、詰めていた息を思い出し、サンダウンは荒野の夜露に震えていた身体を抱き込む。

 剥ぎ取った衣服をその身に元通りになるように重ねていき、背けているマッドの顔を覗き込んだ。

 苦しげな表情を残しているマッドに、先程瞳に走った光に止まってやれなかった自分を苦く思う。

 あの瞬間にマッドが叫んでいたのは、組み敷かれる恐怖や嫌悪ではなかった。

 マッドの声が語っていたのは、サンダウンへの信用が壊れるという事だった。

 サンダウンだけは自分を組み敷く事がないと信じていた心が突き崩されると叫んでいたのだ。

 そしてそれは、サンダウンの手によってあっさりと現実のものに引き落とされた。


 あれほど望んでいた、マッドからの信用を自分の手で壊してしまった。

 あまりにも愚かで、滑稽すぎて笑えてくる。

 だが、あそこまでされておいて、それでも逃げ出さないマッドに喜んでいる自分は、どれだけ傲慢で欲深いのか。


 噛み締められたマッドの唇に、サンダウンはそっと口付ける。

 恐れていた身体への痕はなかったが、その痕と同じ種類の傷が、マッド本人の手によってその唇につけられようとしている。

 それを止めようと、解すような口付けを何度も落とす。


「マッド…………。」


 頬に手を這わせ、あの夜のように名前を呼び、口付けを落とす。

 
「マッド、済まなかった。」

 
 口付けの合間に名前を呼んで、許しを請い、謝罪の言葉を繰り返す。

 その言葉に再び開かれたマッドの眼に浮かぶのは、やはり嫌悪と恐怖。

 しかも、先程のものよりも遥かに深くマッド本人を貫いている。

 自己を断罪するかのような瞳の色が、あの青年の為ではない事はその身に痕がない事から実証済みだ。

 では、他にマッドが自己嫌悪する理由はなんだというのか。

 それは、マッドが厭う相手に雇われた理由と繋がっているのだろうか。

 マッドが青年につき従った道のりは、荒野に背を向けるような行程だった。

 荒野から離れていく足取り。

 それは、サンダウンに背を向ける事と同義ではないのか。

 あの夜から浮かんでいるマッドの自己への怯えと嫌悪は、サンダウンから逃れようとするその足に何らかの説明をつけていないだろうか。

 だが、いくら考えてもマッドの表層を滑るだけで、本質まで探れない。

 それならば。


「マッド。」


 サンダウンは声を発しないマッドの左手を取り、己の肩へと導く。

 あの夜と同じように。
 
 ただし、マッドは声を発しないし自ら動こうともしない。

 そんな彼の腰に手を回し、開いた手で右手を取る。

 緩く握られた指。

 その指を開かせ、なだらかな曲線を描く親指の付け根から生命線にかけて唇を這わせる。


「あ………。」


 かさついた感触に、物を触れる事に特化しているが故に敏感な器官は反応し、マッドの口から小さく声を生ませる。

 肩に回った指先に小さく力が籠った。

 その圧迫感に、もう一度済まないと低く告げる。
 
 ちらりと視線を巡らせると、弾き飛ばされたマッドの銃が月の白を反射していた。

 唇を這わせていたマッドの手を離し、サンダウンはそれを引き寄せる。

 そして腰に回していた腕を肩に移動させ、銃を持った手は長い脚を抱えてそのまま押し倒す。

 はっと息を呑んだマッドの手に銃を滑り込ませてやり、その掌の付け根に一つ唇を落とし、耳元で囁く。



「マッド、頼む…………。」



 今まで、何度も繰り返した懇願。

 だが、その懇願の色を変えてやる。



「嫌なら、本気で抵抗しろ。」



 逃げるのではなく、その銃で、撃ち抜け。



 大きく震えたマッドの瞳に、サンダウンは頬を撫でてやる。

 額と額を合わせ、鼻先を触れ合わせて、何よりも間近で眼を覗き込んでもう一度告げる。



「頼むから、」


 
 










 掌の上なら懇願のキス