目の前に現れた男は、両腕一杯に鮮やかな薔薇を抱え、その身体からは強く甘い香りを漂わせて
 いた。
  足元には、はらはらと花弁が落ちている。





  Cupid in the Garden






  真昼間。
  荒野の真っ只中。
  天井は真っ青で、床は砂色。その間を、黒とも茶色とも白とも言い難い鳥が、孤独に、或いは二
 羽連れ立って、もしくは群れで渡っていく。
  サンダウンがもしも鳥であったなら、一番最初の孤独な一羽であろうし、そして眼の前の黒い男
 もまた、孤独な一羽であった。サンダウンとは違い、巣に戻れば大勢の群れが待っているのかもし
 れないが。
  真っ黒なジャケットに真っ黒な帽子。その下にある紙も真っ黒である事を、サンダウンは知って
 いるし、口も雄弁だがそれと同じくらい雄弁な眼も、やはり黒い。
  ワタリガラスがその翼を一度折り畳んで人間の姿になったなら、もしやこんなふうになるのかも
 しれない。男の中身が、全てを鼻で笑い飛ばす狂言回しである事を知っているから、猶更そう思う
 のかもしれないが。
  遠くからでもかくやというほど黒く突き抜けた男は、それだけでも荒野のど真ん中で目立つのだ
 が、これまた荒野では珍しいほど小奇麗な恰好をしている。汗と垢など、まるでこの身には纏った
 事がないのだと言わんばかりの表情。
  口角を軽く持ち上げ、トリックスターそのものの表情をしきった賞金稼ぎは、やはりこちらを化
 かす気なのではないかと思うほどの、荒野では珍しい色とりどりの花を両手に抱え込んでいる。
  花に詳しくないサンダウンでも、その花がなんという名前なのかは知っている。
  花の中でも最も華麗で、花の中の皇帝と言われる花だ。
  薔薇。
  赤、黄色、ピンク、白。
  時として不毛の砂漠さえ広がるこの荒野では、それだけの薔薇を集めて束にして、両腕でいっぱ
 いにしてしまうのは、さぞかし苦労した事だろう。
  けれども、この男にとって、常人のする苦労は苦労ではない。
  金も力も有り余る男にとって、この程度の薔薇の花束など、指を一つ鳴らすだけで準備できたに
 違いないのだ。

 「なんだよ。」

  大輪の薔薇を抱え込んだ賞金稼ぎマッド・ドッグは、絶句したサンダウンに何と思ったのか、口
 元に笑みを湛えたまま、皮肉っぽい口調で問うた。そして問うだけでは口を閉じないのが、この男
 だ。

 「まさか、俺が持ってるもんが何なのか分からねぇってわけじゃねぇよな。いくら朴念仁のあんた
  でも、この花の名前を知らねぇだなんて言わせねぇぜ。」

  マッドが薔薇を抱え直すと、その度に薔薇の花弁が揺れ、赤やら黄やらの色が零れ落ちて、香り
 が一気に立ち昇る。香水をつけているわけではないだろうから、これは花の香りそのものなのだ。
  花の間から顔を覗かせているマッドは、けれども花に埋もれてしまっているという態ではない。 
 それどころか、妙に薔薇に馴染んでいる風情がある。
  誰かから貰ったのだろうか。
  信じられないほどマッドに良く似合った薔薇を見て、サンダウンはぼんやりと思う。
  マッドが自分で用意したとも限らない。誰かに貰ったという可能性もあるのだ。
  もしも誰かがマッドに渡したのだとしたら、間違いなくマッドに似合うという事を見越して買っ
 たに違いない。冷静に考えれば、この荒野でこれほどまでに薔薇に負けない男がいるかと言われれ
 ば、いるはずがないのだ。女に薔薇を与える事は、例え女が薔薇で霞んでしまう事があったとして
 も、有り得る事だろう。だが、男となれば薔薇など普通は与えるわけがない。もしも与えられても
 見栄えがおかしくない者といえば、それはマッドしかいない。
  他の花なら、マッドに負けてしまうだろう。
  だから、もしもこの薔薇をマッドが貰ったのだとしたら、間違いなくマッドに見劣りしない花を、
 そしてマッドに似合う花を選んで贈られたはずだ。そして、確かに彩る花はマッドに良く似合って
 いる。
  ただ、強いて言うなら。
  サンダウンは、薔薇を持つマッドを見て、少しばかり薔薇が負けているな、と思う。
  他の花を持った時ほどではないが、幾分か、花がマッドに見劣りしている。生憎と、花に見劣り
 するマッドなど、サンダウンは見た事がない。濡れ鼠の状態であっても、マッドはマッドとしての
 迫力を保ったままでいるだろう。
  サンダウンは花束を、まじまじと見る
  薔薇だ。
  赤、白、ピンク、黄色。
  色を一つ一つ眼で追いながら、サンダウンは、多分そういう事だろう、と心の中で頷いた。余分
 な色が混ざりすぎている。
    マッドには、はっきりとした色が似合う。別にパステル調の色が似合わないわけではないが、マ
 ッド自身に負けない色となれば、色鮮やかで濃い物が似合うのだ。
  そう考えれば、ピンクは駄目だ。
  白や黄色でも、まだ弱い。
  赤。
  そう、それが一番良い。
  他の色が混ざったのではなく、赤一色で。黒いマッドの眼の中でも存分に映えるのは、深い深い
 赤だろう。真白な肌に飛び散った返り血のように、さぞかし強烈に色を残すだろう。 
  もしも薔薇が贈られたものならば、贈った者は、その事に気が付かなかったのだろうか。それと
 も、ナイチンゲールのように自分の血で他の薔薇を赤く染めるつもりだったのか。
  なんだよ、と微塵も動かないサンダウンに、マッドがもう一度問う。

 「あんた、まさか本当に薔薇を見た事がないだなんて言うんじゃないだろうな。それとも薔薇を見
  ても特に何も思わないほど朴念仁か。」 

  後者の可能性が高そうだな、とマッドが言っている間も、サンダウンは薔薇の出所を問うべきか
 と首を傾げている。
  徹底的に無言であるサンダウンに、マッドのほうが焦れたのか、

 「まあいいさ。俺はあんたに構ってる暇はねぇんでな。今からこれを女達に渡しに行かなきゃなら
  ねぇ。」

  もてる男は大変なんだよ。
  特に大変そうでもない口調の言葉に、サンダウンはどうやら薔薇は貰い物ではないのだと頷く。
 そしてそもそも、マッドを彩る為のものでもない事にも気が付いた。
  薔薇は、マッドが気に入っている娼婦やらに与える為に買った物のようだ。
  だが、何の為に。
  その疑問にも、サンダウンは口にしたわけではないのだが、マッドが答えてくれる。

 「あんた、何にも分かってねぇ顔してるな。本当にどうしようもねぇ奴だな。まあ、あんたみたい
  な引き籠り世捨て人にはヴァレンタインなんて、どうでも良いイベントだろうよ。」

  気障な賞金稼ぎは、世の流行もお愛想程度にそつなくこなす。特別キリスト教を信奉しているわ
 けではあるまいに、女子供が喜ぶから、参加しているのだ。サンダウンはそんな愛想は既に底を尽
 き、もはやどうでも良いを通り越して、そんなイベントがある事も忘れていたのだが。
  マッドは、言葉通り、いつものようにサンダウンに絡むつもりはないらしく、薔薇を抱えたまま
 さっさとサンダウンの脇を通り過ぎていく。薔薇を抱えたまま決闘に雪崩れ込むつもりは、今日は
 特にないらしい。サンダウンを荒野に置き去りに、何処か賑やかな町へと駆け去っていく。
  後には、赤やら黄色やらピンクやらの花弁が零れ落ちて、それが砂の上で渦巻いている。
  砂の上に落ちた花弁の中、駆けるマッドの速さに耐え兼ねたのか、千切れた一輪の真っ赤な薔薇
 が、ぽつりと倒れていた。
  荒野の中で、やたらと目立つ色。
  サンダウンが顔を上げてマッドを見れば、マッドの姿は既に点となっているが、けれども突き抜
 けて黒い所為か、まだ見える。
  黒から振り落とされた赤。
  サンダウンはそれを、かさついた手で拾い上げると、ひっそりと懐にしまい込んだ。