眼が覚めても、マッドの機嫌はやはり悪かった。
  その夜は流石にマッドと同じベッドに入る事はできず、サンダウンは一人寂しくソファで夜を明かした。そ
 して、目覚めた朝。マッドが最初に見た表情は、物凄く機嫌が悪そうな仏頂面だった。
  サンダウンを見るなり、この世の嫌悪を掻き集めたかのような表情をしたマッドは、再びベッドに倒れ込む
 と、白い羽毛布団の中に包まり、こんもりとした山を作ってしまった。まるで、犬が小屋の中に籠ってしまっ
 たような様子だ。
  その様子に溜め息を吐きつつ、サンダウンはどうするかと考える。
  変に口出ししようものならマッドはますます依怙地になる事は眼に見えているし、だからと言って拗ねた子
 供の機嫌を窺うなど器用な事はサンダウンには出来ない。
  結局、途方に暮れてマッドが籠るベッドに腰掛けて、マッドが出てくるのを待つしかなかった。




  四日目






  朝日が地平から完全に顔を出し、空も暗紅色から燃えるような赤へ、そして黄赤から山吹へと変貌し、そし
 て今はその錦を収めて少し藤色を残した白んだ青色になっている。海が明け方の暗い青から水色に治まった頃、
 ようやくマッドが布団の中から顔を出した。
  もぞもぞと動く気配に気付いたサンダウンが、白いシーツに溶け込みそうなマッドの顔を覗き込むと、マッ
 ドは不機嫌そうながらも少し居心地悪そうにして呟いた。

 「…………なんでそこにいるんだよ。」

  ベッドに腰掛けてずっとそこにいるサンダウンに、マッドはもそもそとした声で呟く。鼻から上だけを布団
 から出した姿に、サンダウンはまるで子供のようだと心中で溜め息を吐いた。
  そんなサンダウンの考えが伝わったのか、マッドは再び、ごねるように布団の中に顔を隠してしまう。黒髪
 が白い羽毛布団に隠れるのを追い掛けながら、サンダウンはとりあえず直近でやるべき事をマッドに投げかけ
 た。

 「朝食は…………。」
 「一人で食いに行けばいいだろ。」

  もそもそと返ってきた言葉は、かなり非情なものだった。一人であの好奇の視線の嵐の中に――しかも昨日
 マッドがいきなり不機嫌になって席を立っているところを見られているから、好奇の視線もひとしおだろう―
 ―入っていけというのか。
  無言で、視線だけで抗議していると、布団に潜り込んでいてもサンダウンの視線が痛かったのか、再びマッ
 ドが顔を出した。黒い眼が、困ったように、けれど多大なる嫌悪を含めて瞬く。

 「俺はあんたと一緒に飯食いに行くのは嫌だからな。」
 「………………。」

  何も知らない人間が聞けば、マッドの台詞は窘めたくなるほどの言いようだが、事の経緯を知っているサン
 ダウンにはそれを叱る事は出来ない。マッドは別にサンダウンと一緒に食事をするのが嫌なのではなく、あの
 好奇の眼差しが嫌なのだという事が分かっているのだから。
  ………しかしそれでも、やはりマッドの言い方に、少しばかり傷ついたような気もする。
  いやこれはマッドの所為ではないと頭の中で繰り返し呟きながら、サンダウンは気を取り直して顔半分を出
 しているマッドを覗き込む。

 「お前は、いらないのか?」

  昨日の晩は、途中で退席したからあまり食べていなかったはずだ。ならばマッドも腹が減っているはず。す
 ると、案の定、マッドの眼が少しばかり宙を彷徨った。やはり、彼も食事はしたいのだろう。
  逃げ道を探す子犬のように視線だけをあちこちに彷徨わせるマッドを見て、サンダウンは手を伸ばしてマッ
 ドの顔半分をいまだに覆っている布団をするりと払い落す。隠す物を奪われたマッドは、あっという顔をした
 が、サンダウンにはどうでもよい事である。
  ようやく露わになったマッドの顔を見下ろし、二の腕を掴んでシーツに懐いている身体を引き上げる。

 「行くぞ。」
 「嫌だ。」

  逃げ場のなくなったマッドが、頬をぷくっと膨らませて、そう返す。
  子供かお前は。
  思わずそう言い掛けて、しかしマッドの気持ちも分からぬではないと思いなおす。現に、サンダウンもあの
 好奇の中に一人飛びこむ気はなく、こうしてマッドを誘っているのだから。
  つまり、嫌なのは、マッドもサンダウンも一緒だ。別に互いが嫌なのではなく、あの場に行く事が嫌なのも、
 同じ。
  するりとサンダウンの腕から逃げ出して、再び布団の中に潜り込んだマッドを追い掛け、辛うじて羽毛布団
 から少しはみ出た黒い髪を指で軽く引っ張ると、マッドが布団の中でうぞうぞと動く。その様子を眺めながら、
 それならばと考えて口に出す。

 「別の場所に、行くか?」

  このホテルでわざわざ食事する必要は何処にもない。ホテルから出て、別の場所に食べに行っても何ら問題
 はないはずだ。
  そう思って声を掛けると、隠れていたマッドの顔が、再び布団の中から出てくる。さっきから出入りを繰り
 返すマッドの顔に、何かに似ているなと思ったが、それがなんなのか思い出す事はサンダウンには出来なかっ
 た。  
  ぱちぱちと眼を瞬かせているマッドが、おずおずと言った態で布団から這い出して来る。それを捕まえよう
 としたその時。

  コン、コン。

  ドアをノックする音が聞こえた。途端に、布団の中に逆戻りするマッド。これは、あれだ。砂漠の中に穴を
 掘ってその中で生活する、げっ歯類か何かだ。
  再び亀のように布団の中に両手足と首を引っ込めてしまったマッドを、頭を抱えて見下ろしている間も、そ
 れを齎したノックの音は続いている。些か不機嫌になりながら、サンダウンがそれでものそのそとドアに近づ
 き、少しだけそれを開いて廊下を眺めると、そこにはメイド服の女性従業員が白い陶器を抱えて佇んでいた。

 「お客様、お部屋のお掃除をさせていただきたいのですが。」
 「…………申し訳ないが、連れの具合が悪いので、掃除は結構だ。」
 「それでは、こちらの陶器をお部屋の中に置いてくださいませんか?」

  そう言って有無を言わさぬ口調で、抱えていた白い陶器をサンダウンに押し付ける。サンダウンが思わず受
 け取ってしまったのを見てから、彼女は機械的な口調で言った。

 「では、本日のお食事はこちらに持って来させましょうか?」
 「む…………。」

  その方法があったか。

 「頼む………そうしてくれ。」
 「かしこまりました。」

  一礼して立去るメイド服を見送って、サンダウンはマッドを振り返る。すると先程のやりとりを聞いていた
 のか、マッドは布団の中から出て来ていた。

 「食事は此処に持ってくるそうだ。」
 「…………へぇ。」
 「これなら、他の連中と逢わなくても済むだろう。」
 「ああ、そうだな。」
 「………マッド?」
 「それ…………。」

  マッドはじっとりとした視線で、サンダウンが手にしている白い陶器を眺めている。そこから漂うのは、マ
 ッドが嫌いな、甘ったるい奇妙な匂いだ。
  マッドのむっつりとした表情に、分かっていると頷いて、サンダウンは陶器の中身を外へとぶちまける。得
 体の知れない匂いが潮の匂いで流されてしまってから、ようやくマッドが完全に身を起こした。まだむくれた
 ような顔をしているが、最初に比べればかなり機嫌が直ってきたのだろう。
  ただ、ほんの少し、まだ気まずそうな様子をしている。いくらなんでも、ごねすぎたと思っているのかもし
 れない。
  いつもは傲岸不遜な態度を貫くマッドのそんな姿に、サンダウンは喉の奥だけで笑い――表情に出せばまた
 機嫌を損ねてしまう――空になった陶器を棚の上に置く。

 「…………まあ、今日一日、何もせずにいるのも悪くない。」
 「…………あんたは初日もごろごろして終わったじゃねぇか。」

  呟いた声に、ベッドの上から小さく憎まれ口が返ってきた。




  よくよく考えてみれば、とサンダウンは日陰になっているベッドの上を見て思った。時刻は昼を過ぎ、日も
 少しずつ傾いている。その日差しが当たらないベッドの上は濃い影になっており、窓の外との対比がくっきり
 としている。
  その上には、布団に包まっているマッドが転がっている。昼ご飯を食べて人心地ついた彼は、ベッドの上で
 うつらうつらしていた。そんなマッドの姿を見るのは、稀有な事だ。普段はなんだかんだで賑やかで、同時に
 きっちりとしている男だ。それが、昼間でもベッドの上にいるのは、むしろ奇跡に近いのではないか。

  黒い頭がシーツに埋もれて、時折思い出したように身動ぎする様は、子犬が昼寝をしているようだ。サンダ
 ウンはマッドの正確な年齢を知らない。知っているのは自分に比べれば、まだ若いという事くらいだ。しかし
 時折浮かべる冷徹な表情や、何かを悟ったような表情から、ひどく大人びた印象を受ける事もあったのだが。
  ころりと転がっているマッドの顔を見て、もしかしたら、もっと幼いのかもしれないと思った。居心地の良
 い場所を求めて無意識に身体を動かすところや、唇を薄く開いて片頬をシーツに擦りつけているところは、無
 防備すぎて、見ているこちらがはらはらする。その心境は、よちよち歩きをする子犬が、今に転ぶのではない
 かと思いながら見ているのに似ている。

  そんなサンダウンの心境など知らず、マッドは、んー、と時折呻いて身を捩っては、再び眠りの縁に戻って
 いく。起きようという気は、全くないようだ。
  それでお前はいいのか、と言いたくなるほど警戒心がない。襲われても文句は言えない状態だ。

  そんな、襲われても文句が言えないようなマッドの状態を、先程からぼんやりと眺めていると、不意にドア
 をノックする音が聞こえた。その音に軽く舌打ちして、マッドが眼を覚ましていない事に安堵しつつ、喧しい
 ノックの音を立てている扉を開く。
  薄く開いた扉の隙間から、長く伸ばされたウェーブ状の髪を見て、サンダウンは顔を顰めた。それは、正に
 今サンダウンとマッドがこの部屋で大人しくしている事になった元凶――つまり、昨日、マッドの事をサンダ
 ウンの恋人だと発言した男だったからだ。
  そのまま扉を閉めてやりたくなるのを寸でのところで止め、サンダウンはけれども不機嫌なのを隠しもせず
 に用件を聞く。が、男のほうはと言えばサンダウンの不機嫌など見て見ぬ振りをして、微笑みを湛える。

 「いえ、お連れの方の具合が悪いと聞いたものですから。」
 「…………今は寝ている。」
 「ほう………。」

  何か妙な邪推をされた気もするが、訂正するのも馬鹿らしく面倒なので、勘違いされたままにしておく。そ
 れを何と受け取ったのか、男はサンダウンに紙切れを差し出してきた。

 「いえ、貴方がたをコンサートにお招きしようと思ったので。今日の夜、ピアノコンサートがありましてね。
  しかしピアノに興味のない者にチケットを渡しても仕方ない。そこでどうやら音楽を嗜んでいるご様子の貴
  方の恋人に、と思いまして。」
 「……………。」

  いかがでしょう、と聞いてくる男の言葉を額面通り受け止めるほど、サンダウンはお人好しではない。それ
 でもマッドが何と言うか分からない為、念の為にチケットは頂戴しておく。
  頂戴してから、失礼の極みであろうが、サンダウンはお構いなしに一言もなく扉を勢いよく閉めた。きっち
 りと鍵を閉めてから部屋の中を振り返ると、先程まで夢見心地だったマッドが、しっかりと眼を覚まして起き
 上がっている。

 「で…………?あの男はなんだって?」

  マッドに促され、サンダウンは手にしたチケットをマッドに渡す。受け取った白い指は、しばらくの間その
 材質の手触りを確かめていたようだったが、興味をなくしたようにそれを床に払い落す。

 「………行かないのか?」
 「あんた、行く気だったのか?」
 「いや…………。」

  お前が行くのなら、と口の中だけで呟くと、マッドはふんと息を吐く。

 「モーツァルトのピアノコンサートって言っても、本当のところ何するか分からねぇだろうが。ピアニストの
  名前だって聞いた事ねぇ名前だし。行かないにこした事はねぇよ。」

  そう言ってマッドはベッドから降りて大きく伸びをする。すっと伸びた背骨から肩甲骨までが、そのまま空
 に舞い上がりそうで、彼の若さを象徴する。
  身体を解したマッドは、ゆうゆうとした足取りで部屋を横切ると、昨日買ってそのまま放置していた酒瓶を
 取り出した。それを片手にしてゆっくりとサンダウンを振り返り、口の端に笑みを浮かべる。

 「ピアノなんかよりも、あんたはこっちのほうが好きだろ?」

  今夜は酒盛りだな、と歌うように彼は言った。