ちらりちらりとこちらに視線が向けられる。
  不躾なそれは今に至るまで変わらず、マッドを突き刺しては矛先を緩め、そして再び貫いていく。好奇の眼
 差しに慣れているとは言え、ここまで変わらずに広がる視線に、マッドは一言何か言ってやりたいが、しかし
 それこそ不躾というものだ。
  もしもこれが西部の安宿や酒場であろうものなら、今すぐにでも睨みつけて黙らせてやるのだが、奈何せん
 此処はカリフォルニア沿岸部に位置する高級ホテル。上流階級だけが滞在する事を許された場所では、そのよ
 うな粗暴な振舞いは許されるものではないし、そんな事をしようものなら更なる好奇を生み出すだけだ。
  そして何よりも、おかしなところで昔の癖が染み付いてしまっている自分自身が、こういう所で騒ぎを起こ
 す事に踏み出せないでいる。
  昔取った杵柄にも程がある。
  どう考えても相手側に非があるのに、注意一つ出来ないなんて。
  苦々しい思いを抱きながら、マッドは再び、陶器の中に満たされた奇妙な香りのする灰を投げ捨てた。




  三日目






  昼を過ぎた頃から、マッドの機嫌は下降の一歩を辿っていた。
  午前中は特に何事もなく普通だったのだ。それどころか、昨日サンダウンを放置していた事――というかサ
 ンダウンが昼食をとらなかった事について見当違いの責任を感じたのか、出かける時にサンダウンを誘ったの
 だ。

  別にあんたの事を心配してるわけじゃねぇぞ放っておいたらどうせまた食事をとらないんだろだから誘って
 やるだけなんだからな金だって持ってねぇだろうしな。

  ぶつぶつと口の中でそう呟きながら一歩前を歩くマッドは、小奇麗な通りを臆する事もなく歩を進めていく。
 サンダウンとて保安官をしていた頃は、度々こういった洗練された街に行く機会もあったのだが、今では完全
 に縁のない場所だ。尻込みする事こそないものの、居心地の悪さは拭いきれない。
  だが、マッドはまるでそこが生まれながらの場所であるかのように、すっきりと馴染んでしまっている。
  確かに言葉遣いこそ粗野なものを使っているが、発音自体は徹底的に矯正されたのか滑らかなものだ。立ち
 振舞いも、西部の荒野にあるには不自然なほど洗練されている。むしろ、こちらの空気のほうがその身体には
 合っているのではないか。
  ただし、サンダウンはマッドの過去を知っているわけでもないし、その事についてマッドに何か言うつもり
 もない。マッドが荒野にいる理由など、それは所詮マッドの勝手でしかないのだ。
  それに、荒野だろうが町中だろうが、やたらと注目されるのが、この男だ。
  通りを歩いているだけなのに、まるで誘蛾灯のように人々の視線を吸い上げているのを見て、サンダウンは
 呆れた。
  視線を集めるのが嫌ならば、その気配を消せば良いのに。それができないわけでもないだろうに。荒野では
 獲物を伺う狼のように息を詰める事だってあるだろう。
  けれどマッドはそんな事は面倒だと言わんばかりに気配だだ漏れの状態で、通りに面した店の中を覗いてみ
 たりしている。そして珍しいものでもあると、しばらく立ち止まって見ていたりするのだ。それはサンダウン
 には良く分からない、びらびらとした飾りだったり、分厚い本だったりと様々だ。

  そうこしているうちに、やがて、やけにがっしりとした造りの建物へと辿り着いた。赤煉瓦を積み重ねたそ
 の建物は港に面した通りに広い幅をとっており、人の出入りも激しい。そして出入りする人もまた様々だ。潮
 風にはためく白い旗は、天気の良い青空に良く映えている。
  ぱたぱたと此処まで音が聞こえそうなくらい、気持ちよく風を受け止めているその白い旗には、その建物の
 属性を示す言葉が刻印されていた。

 「………交易所、か。」

  交易所とは、他の地域から取り寄せた品物を取り扱う場所の事だ。荒野でも規模の大きい街ならばあるかも
 しれないが、基本的には港のある海沿いの街にあるものだ。サンダウンも保安官時代に事件があった時くらい
 にしか入った事がない。
  だが、その場所へとマッドは普通に入っていく。しかし何か探し物というか、目的があるわけではなさそう
 だが。

 「なんか珍しい物が見つかるかもしれねぇだろ。」
 「……………。」

  サンダウンの心を読んだわけではないだろうが、マッドがぼそりと呟いた。
  別に目的がないからといって責めるつもりは全くないのだが。それにしても珍しい物が見つかったらどうす
 るつもりか。買う気か。

 「別に。でも珍しい酒とかあったら買ってもいいし。大体買ったら買ったであんたも飲むだろ。」
 「……………お前が許すなら。」
 「は、俺はそんなにケチじゃねぇぞ。」

  ふん、と鼻先で笑い、マッドはごった返す人ごみの中に入っていく。想像していた以上の込み合いに、サン
 ダウンはマッドの背中を見失わないようにと気を配る。尤も、マッドの気配を良く知るサンダウンが、マッド
 を見失うなどどんな場合にあっても有り得ない事なのだが。
  マッドもその事は承知しているのか、サンダウンを一瞥もせず、さっさと歩いていく。壁や棚に置いてある
 商品にばかり視線を向けているところを見ると、もしかしたらサンダウンの事など忘れているのかもしれない。
  赤い背表紙の本を手にとって、ぺらぺらと捲る指は繊細だ。その立ち姿に商人が何やら話し掛けているが、
 マッドはそれを聞き流して中身を読んでいる。そして何か気に入らなかったのか、ぱたりと閉じると元あった
 場所へと返してしまった。大方、偽物か何かだったのだろう。
  何か言い続けている商人を完全に無視して、さっさと行ってしまうあたりは流石だ。
  が、先程から完全にサンダウンを置き去りにしているのはどういうことか。

  お前は私を放ったらかしにしないために連れてきたんじゃないのか。

  一瞬、そんな不満がちらりと頭の片隅を過ぎった。なんだかこのまま自己主張しないでいたら、本当に放置
 されてしまいそうだ。それくらい、マッドはサンダウンを振り返りもしない。
  だが、マッドがサンダウンの気配を忘れるはずがないのだ。マッドが気配だだ漏れなように、サンダウンも
 忘れられないようにとマッドに向けて気配を発している。もはや殺気と言っても過言ではないほどに。
  けれどもさっぱり反応しないマッドに、声をかけようかと迷っていると、マッドがようやく振り返った。そ
 の口元には笑みが湛えられている。

 「見てみろよ、あれ。」

  細く形の良い指が得意げに指し示す方向には、交易所の明りを反射してキラキラと光る物がある。かといっ
 てそれは装飾品ではない。光を受け止めているのは滑らかな丸みを帯びた硝子の身体。酒瓶だ。

 「あれなら、あんたも興味があるだろ?」

  にやりと笑って、つやつやと光る瓶が幾つも置いてある棚へと向かうと、マッドは酒瓶に貼り付けてあるラ
 ベルを確認し始めた。英語ではない言葉が印刷されてあるラベルは、サンダウンにしてみれば唯の絵柄でしか
 ないのだが、マッドにとってはそうではないらしい。一つ一つを丹念に見遣っては、瓶やコルクの状態を調べ
 ている。
  その真剣な様子に、別に安物でも良いと言いかけて、止める。別にマッドはサンダウンの為に酒を買うわけ
 ではないのだ。口を出したら百倍くらいにして憎まれ口が返ってくるのは火を見るよりも明らかだ。
  なので、口を閉ざして彫像のように佇立してマッドの気が済むまで待つしかない。
  棚の前に屈んでいるマッドの旋毛を眺めながら、サンダウンはマッドが酒を選び出すのをひたすら待った。
  そして待ちに待って、ようやくマッドがサンダウンを見た時、その手の中には一本の深い緑色の瓶が握られ
 ている。マッドの顔は、何処となく自慢げだ。

 「ウェルシュ・ウイスキーだ。最近じゃ造ってる酒造がどんどん閉鎖されてて、ほとんど造られてねぇから、
  今に飲めなくなるぜ。」

  今しか飲めないと言って、マッドはたぷたぷと中の液体を確かめるように、酒瓶を揺する。そしてそれを大
 切そうに両手で持ち抱えると、

 「さて、お目当てのもんも見つかったし、そろそろ昼だし、帰るか。」

  にっこりと笑った。




  ここまでのマッドは非常に上機嫌だった。良い酒が見つかった所為もあるだろう。鼻歌混じりで通りを歩く
 姿は、その後ろ姿だけ見ても十分に機嫌が良い事が分かる。
  それが劇的に変化したのは、昼食を食べてからだ。
  ホテルの部屋に帰る前に、昼食を先に済ませてしまおうとホテルに添えつけられているオープンテラスのレ
 ストランに立ち寄った。
  マッドは席に着くと、さくさくと料理を――サンダウンの分も勝手に――頼むと、大きく伸びをしてから、
 そこから見える海を眺め始めた。海と空を広々と見渡せるテラスでは、潮の匂いが他よりも強い。マッドの黒
 い髪が潮風でふらふらと揺れるのを見ながら、雨や風の強い日は此処は休業になるのだろうかと、サンダウン
 は身も蓋もない事を考えていた。

  それにしても、

  サンダウンは視線だけを周囲に配り、やはり、と思う。
  やはり、自分達は――特にマッドは――無意味に注目されている。荒野ならば賞金首と賞金稼ぎが一緒にい
 るという事で――そうだった自分達は賞金首と賞金稼ぎだった忘れてた――注目されるのは仕方ないとしても、
 こんな自分達の事など知らなさそうな連中にまで注目されるのは何故か。
  これについてマッドは、上流階級を気取った成金の集まりと言っていた。つまり、本当の上流階級ならば、
 他人に不躾な眼差しを向けるものではないという事だ。なんでマッドがそんな事を知っているのかという事に
 ついてはひとまず置いておくとして、とにかく上流階級の嗜みを心の髄まで知っているらしいマッドには、彼
 らの目線には、やや神経を尖らせているようだった。
  しかし、料理を運んできたウェイトレスにまで意味ありげな視線を送られたら、流石にマッドでなくとも機
 嫌を損ねるというものだ。
  マッドはと言えば、先程までの上機嫌は何処へやら、料理を口に運ぶたびに機嫌のランクを一つずつ下げて
 いるようだった。
  それでも、まだ沸点ぎりぎりのところで何とか踏みとどまっているようだったのだが。

  真昼の日差しが眩しく降り注ぐ中、ぬっとテーブルの傍に一人の男が寄って来た。年齢でいえば三十代半ば
 くらいか。緩やかにウェーブがかった長い髪を後ろで一纏めにしている男は、それでも手入れが行き届いてい
 る所為か長い髪が下品には見えない。
  ただ、その表情が少しばかり気にかかった。
  何かを揶揄するかのような笑みを口元に湛えた表情。彼はその表情のまま、囁くように、しかしはっきりと
 サンダウンとマッドの耳に届くように、サンダウンに向けて言った。

 「可愛らしい恋人ですね、ミスター。」
 「……………?」

  朗らかな声で言われた台詞の意味が一瞬理解できなかったのは、サンダウンの所為ではないだろう。マッド
 については、石にでもなったかのように固まってしまっている。
  爽やかな笑みを残して軽やかに立ち去った男の後ろ姿を見送った後、ようやく二人の間に時間が戻ってきた。
 つまり、石の呪いを解いたマッドが、顔を真っ赤にして身体をふるふると震わせながら、勢いよく立ち上がっ
 たのだ。
  その黒い眼に怒りを灯した顔を見て、サンダウンはマッドが今から先程の男を撃ち殺しにいくんじゃないか
 と思ったが、マッドはその場に何もかもを放り出してテラスから出て行ってしまった。
  残されたサンダウンは、ようやく男の言葉の意味を理解し、深々と溜息を吐いた。
  荒野では珍しい端正な身体をしているマッドは、女の数の少ない荒野において、かなりの確率でそうした眼
 で見られている。そしてそれがマッドにとっては腹立たしい物事の一つである事を、サンダウンは知っている。
  尤もマッドの中身が組み敷けるようなものではない事が轟いている荒野では、マッドにそんな眼差しを向け
 る者は格段に減っている。が、何も知らない此処の連中は、平気でそうした目線で見てしまうのだろう。
  きっと、今、マッドは、究極的に、怒り狂っている。
  出来る事ならあまり関わりあいになりたくないのだが、かといって此処にずっといるわけにもいかない。
  仕方なく、サンダウンはマッドが置き忘れていった酒瓶を持って、部屋に戻った。




  微かに奇妙な甘ったるい匂いが残っているが、部屋の大部分は潮の匂いで満たされていた。窓の外を見れば
 捨てられた香が山盛りになっている。 
  そこから視線を移してベッドを見れば、こんもりと膨れ上がったシーツがあった。どうやら、その中にふて
 くされたマッドがいるらしい。賞金首を追い詰める時でさえ見る事ができないような険呑な気配を醸し出すマ
 ッドは、もはやサンダウンの事などどうでも良いらしい。
  いや、どうでも良くはないのだろう。中から、なんで俺とあんたが恋人に見えるんだ、なんて言葉が漏れ出
 ているあたりで、サンダウンを自分の意識下には置いているのだ。ただ、それが完全に邪険な方向を向いてい
 るだけで。
  きっと、今日はソファで寝ろと命じられるに違いない。
  そう思ってサンダウンは何度目かの溜息を吐いた。