次の日、マッドは瞼を焦がしそうなほど赤く差し込む光で眼を覚ました。
  片頬を白いシーツに埋め、真っ白な羽毛布団に包まった彼は、二枚貝のようにぴったりと閉ざされた瞼の僅
 かな隙間から入り込むその光に小さく身を捩ると、のろのろと眼を開く。すると真っ先に飛び込んできたのは、
 空とそこを漂う雲を錦のような朝焼けに染める朝日と、それを映す海原だった。
  そう、此処はカリフォルニア沿岸部の海に面した高級ホテル。鉱山と鉄道で富を築いた富豪が経営するこの
 ホテルは、西部開拓時代の砂と埃に塗れた世界を忘れようとでも言うかのように、なみなみと広がる海をウリ
 にしており、ホテルからすぐにでも海に行けるような造りになっていた。特に一階の海に面する部屋は、大き
 く開け放たれた窓全面から海が見渡せ、そこから海にでも入れそうな勢いだ。
  芸術家や若い恋人達ならばこの風景――特に夕日朝日の瞬間は、感傷的な思いに捕われるかもしれない。お
 そらく、このホテルの経営者もそういった客層――富豪の子息達の遊び場や、或いは愛人との逢引――を狙っ
 ているのかもしれない。
  確かに、今こうしてベッドから眺め見る朝焼けも、このベッドが設置してある英国様式の広い部屋も、短く
 甘い時間を過ごすには完璧すぎる舞台なのだろうが。
  マッドは自分の横に大量に積み上げた枕の向こう側を想像し、げんなりとする。
  髭のおっさんと夜を一緒に過ごす部屋としては、些か間違いすぎたきらいがある。




  二日目






  昨夜、マッドは必死で抵抗した。
  なんでお前と同じベッドで一夜を共にしなけりゃならんのだと、至極真っ当な言い分で、マッドが寝転がっ
 たダブルベッドに潜り込もうとするサンダウンを押し留めようとした。
  しかしダブルベッドの対角線上になるようにと陣取ったマッドの身体を、サンダウンはあっさりと引っ繰り
 返し、もぞもぞと布団の中に入り込んできた。それでも足蹴にしたりと色々と試みたが、悉く打ち負かされ、
 最終的には列車で移動する前から疲れ果てていたマッドが折れる形となったのだった。
  天蓋付きのベッドで男二人が横に並んで寝ている図式を想像し、マッドは思わず身震いして、慌ててベッド
 から降りる。これが後四日も続くのかと思うとぞっとする。何処かでどうにかして何らかの対策を立てねばな
 らない。その方法はまったくもって思いつかないが。

  マッドが起きる気配に気づいたのか――いやその前から眼を覚ましていた可能性のほうが高い――防波堤の
 ように積み上げた枕の向こう側で、サンダウンが身を起こすのが視界の端に見えた。ぎしりとベッドを軋ませ
 て、背の高い影が立ち昇る。
  リゾート・ホテルだというのに、荒野のいる時と変わらぬ隙のない気配に、呆れを通り越していっそ惚れ惚
 れする。まあ、隣にいるのはサンダウンの首を狙うマッドなので、当然といえば当然なのかもしれないが。
  起きたばかりとは思えない動作で、さっさと身支度を整えるサンダウンを横目に見つつ、マッドももぞもぞ
 と着替える。シャツに手を通してタイを結んで完成と思っていると、サンダウンが非常に微妙な表情でこちら
 を見ていた。その視線になんとなくむっとして、なんだよと些か険のある声で問うと、サンダウンはすっと目
 線を逸らした。

 「………朝食時にも、こういう所ではタイは締めておくものなのか?」
 「あ?別にしなくてもいいと思うぜ。ディナーならともかく、朝飯はいらねぇだろ。俺のこれは、ただの好み
  だ。」
 「………そうか。」

  あからさまにほっとした様子のサンダウンに、マッドはああそうかと思いだし、にやっと笑う。

 「そうだよな、あんたタイ結べねえもんな。」
 「………結び方を忘れただけだ。」

  昨日の服屋で着替えさせられた時、最後の最後でタイの結び方が思い出せずマッドに助けを求めた時の事を
 思い出し、サンダウンは微かに顔を顰める。対照的に、マッドはサンダウンの弱みを握った所為か、酷く上機
 嫌だ。
  今にもスキップしそうな機嫌で、マッドはサンダウンを背後に従えて、朝食の為に食堂へ向かう。むろん、
 この場合食堂と言っても、所謂大衆食堂のようなものではなく、格式高いレストランである。
  荘厳な木の扉をマッドが開くと、さっと差し込んできたのは朝焼けを治めた朝の白い光であり、まだ人もい
 ない静かな海が、広い窓の向こう側で白んだ空の下に佇んでいた。その色は、マリンブルーよりも少し色の薄
 い、サックスブルーをしている。
  逆光が強いその中で、マッドはそれでも客がこちらに注目した事に気づき、少し眉を顰めた。確かに自分達
 が目立つのは分かる。年の離れた、しかも毛色も違う自分達には、なかなか説明も付けられないに違いない。
 しかしこういう場所――上流階級の集まる場所では、互いの事を詮索しないのが暗黙の了解だ。従って、こん
 なふうに注目する事は無礼以外の何者でもないのだが。
  が、そんな事を直に言うわけにもいかない。マッドはその視線を振り払うように案内されたテーブルに着く。
 が、それでもやはり視線がちらちらとこちらに向けられる。

 「………マッド。」
 「なんだよ。」

  むぐむぐと食事を口に詰め込みながら、マッドはサンダウンが何を言いたいのか痛いほどよく分かっていた。

 「………視線を感じるんだが。」
 「放っておけよ。」
 「………タイをしていないからか?」
 「んなわけあるか。」

  タイ一本如きで、とやかく言うわけがない。この視線は、単なる好奇の視線だ。ただし理由が分からない。
 確かに男二人でスイートルームっぽい部屋に泊まっている時点で好奇の眼に曝されてもおかしくないが、しか
 しそれを知っているのはホテルの従業員だけのはず。
  いや、それ以前に例えそれが分かったとしても、それをあからさまに好奇の目線として還元するのは上流階
 級の人間としてどうなのか。
  ぶつぶつと同じところばかりを繰り返す愚痴を頭の中で繰り広げながら、マッドは罪のないサラダを串刺し
 にしていく。先程と打って変わって不機嫌になったマッドを、サンダウンは怪訝に思いつつも同じように久し
 ぶりの健康的な食事を平らげていく。

 「で、どうするよ?」

  サラダを咀嚼し終えたマッドは、物珍しげにオリーブオイルを眺めているサンダウンに問いかけた。

 「これから、どうするんだ?まさかずっと部屋に引っこんどくわけにもいかねぇし。」
 「私はそれで構わないが。」
 「………あんた、内向的にも程があるぜ。せっかくカリフォルニアまで来たってのに、何にもしないつもりか
  よ。」
 「別に好き好んで来たわけではないからな。」

  大体賞金首が大手を振って街中を歩くわけにもいくまい。

 「出かけたければお前一人で行けばいい。お前は私と違って、誰に追われているわけでもないからな。」
 「は、別に俺だってあんたと出かけたかねぇよ。」

  あんたは一人部屋に閉じ籠ってタイを結ぶ練習でもしてりゃいいんだ。
  そう言ってマッドが立ち上がると、サンダウンもつられたかのように立ち上がる。

 「………戻るのか?」
 「一旦は、な。出かけるのはその後でもいいさ。」

  首を竦めて身を翻すマッドは、やはり背中に突き刺さる好奇の視線に、軽く舌打ちした。




  戻った部屋は、退出していたのは朝食の僅かな時間だけだというのに、きちんと整理されベッドメイクまで
 されており、マッドが作り上げた枕の防波堤は跡方もなく消え去っていた。
  活けかえられた花瓶の花に、サンダウンが先程まであった花はまだ枯れてもいなかったのにと呆れていると、
 マッドが部屋の隅で何やらごそごそしているのが見えた。何かと思い見ていると、何か器のような物を眺めて
 いる。
  マッドはその器を持ち上げると、サンダウンを振り返った。そしてその表情は、少しばかり顰められている。
 その様相にサンダウンも少し眉根を寄せると、それだけでマッドはサンダウンの言いたい事が分かったのか、
 口を開いた。

 「香か何かが、焚いてある。」

  そう言って白い陶器で出来た器の中身をマッドが見せる。すると確かにそこには、つもりに積もった灰のよ
 うなものがずっしりと詰まっていた。そして妙に甘ったるいような奇妙な匂いが鼻についた。

 「………なんだ?」
 「分からねぇ。乳香でもねぇし、麝香でもねぇな。」

  香の種類について言われてもサンダウンにはさっぱり分からない。強いて言えるとすれば、せいぜい好きか
 嫌いかという事くらいだ。
  そしてマッドも、サンダウンに求めるのは好みだけだったらしい。

 「なあ、これ、捨てていいか?」
 「………ああ。」

  どうやらマッドはこの匂いが嫌いらしい。普段きつめの葉巻を吸っているわりには、とも思ったが、口には
 しないでおく。
  どさどさと陶器の中の香を外に捨てたマッドは、全部捨て終わると窓を全開にして、部屋の中に溜まった匂
 いを薄めようとしている。心底嫌な様子のマッドに、サンダウンは溜息を吐きながら言った。

 「………匂いが薄まるまで、出かけたらどうだ。」
 「出かけてる間に、また仕掛けられたらどうするんだよ。」
 「………私が残っているから、無暗に入ってこないだろう。」

  そもそもそんなに嫌ならフロントに頼めばよいのだ。しかしマッドは面倒なのかそこまでするつもりはない
 らしい。むーっと呻りながら、香の入っていた陶器とサンダウンを見比べ、時折未だそこかしこに漂っている
 であろう匂いの残滓を睨みつける。
  そして、やがて決心がついたのか、白い陶器を放り出すとさっさと部屋から出ていってしまった。サンダウ
 ンに特に何も言わずに。
  一人置いておかれたサンダウンは、何も言わずに部屋から逃げ出したマッドに不満を抱くわけでもなく、静
 かになった部屋で一人の時間を満喫し始めた。




  眼を覚ますと、頭が痛くなるくらいの夕日が赤い帯を投げかけていた。それを瞼に落とされたサンダウンと
 しては、殴られたような気分なのだがそれを言っていては仕方ない。
  荒野での、身体を休めるだけの獣の眠りで削られた睡眠不足を解消するかのように、どうやら随分と眠りこ
 んでしまったようだ。頭も妙にすっきりとしている。
  頭を振って、漂う空気の欠片にも、あの甘ったるい香の匂いがない事を確認して、そういえばマッドの気配
 がない事に気づく。まだ帰ってきていないのか。一体何処まで行っているのか。

  なんとなく、一人放ったらかしにされている事が気に入らなくなり始めた時、扉の向こうから独特の、誰に
 も真似できない爆ぜるような気配が、酷く慌てた様子で近づいてきた。そしてそのままの様子で飛び込んでき
 たマッドは、ベッドの上に転がっているサンダウンを見て眉を顰めた。

 「………あんた、本当にする事ねぇんだな。」

  ゴロゴロしているサンダウンが、放ったらかしにされて少しばかり拗ねていた事には気づかなかったらしい。
  やれやれと肩を竦めて、マッドは両手に抱え込んでいた紙袋をテーブルの上に置く。どうやら買い物に行っ
 ていたようだ。そう見当を付けたサンダウンに、マッドはそれだけではない事を上着を脱ぎながら説明する。

 「ここ、乗馬できる場所もあるみたいだぜ。客の馬なんかも放牧できるみたいだったから、ディオの奴を放し
  てたんだ。此処にいる間に太ってたり身体が鈍ってたりしたら洒落になんねぇからな。ああ、あんたの馬も
  放してやったから、感謝しろよ。」
 「………それはどうも。」

  自分ではなく自分の馬を構っていたのか、この男は。
  なんとなく腑に落ちないサンダウンの様子に、何も知らないマッドは、どうしたんだと問う。尤もその問い
 にはサンダウンも答えられない。黙り込んだサンダウンを、マッドはしばらく怪訝な表情で眺めていたが、や
 がて、はっとしたようにサンダウンに近づいてその頬を両手で挟み込んだ。
  間近に迫る黒い瞳に、サンダウンがぼんやりと見惚れていると、

 「あんた、昼飯食ったのか?」
 「…………昼?」

  そう言えば、食べてない。

 「腹が減ってるんだな、そうなんだな。いや昼飯くらい一人で食べに行けよ、いくら慣れない場所と言っても
  そこは大の大人として。」
 「む…………。」

  別に食べに行かなかったのではなく、食べるのを忘れていただけなのだが。
  しかしマッドは再び上着を着込み、時計を見つつ、まだ早いけどいいかと呟きながら、サンダウンにも上着
 を着るように言いつける。

 「とにかく、分かったから。これからは飯は一緒に行ってやるから。だからそんな、物言いたげな表情でこっ
  ちを見るな。」
 「……………。」

  別にそんな理由で見てたんじゃない。
  が、三度の飯にはマッドが帰ってくるという事なので、特に訂正はしないでおいた。