縁の少し黄ばんだ紙は、それがつい最近の新しいものではないが、しかし触れれば壊れてしまい
 そうなほど遠い昔のものでもない事を示していた。乱雑に紙紐で括られて、隠されている様子が、
 書かれている内容がどんな内容であれ、人目には触れてほしくないものであろう事は、人の機微を
 知らぬ子供でもない限り、明白に分かる事だった。
  それに手を伸ばそうとして、しかしサンダウンははたと気づく。
  たった今見つけた本も、サンダウンには読めぬ文字であった。挿絵がついているのと、少なくと
 もアルファベット的な文字であるので、もしかしたら気合を入れれば言いたい事は分かるだろうが。
 だとしたら、この手紙もやはり同じく、サンダウンが読めぬ文字で書かれている可能性が高い。
  ある程度の教養のある人間ならば――サンダウンの比較的新しい記憶の中では、かの賞金稼ぎな
 らば、ラテン語の一文くらい平気で諳んじて、読めもするかもしれない。
  だが、今現在この世界にいる人間で、ラテン語が読めそうな人間というのは、サンダウンも含め
 いるようには思えなかった。東洋風の顔立ちをしている子供達が、ラテン語を読めるとは、サンダ
 ウンは端から思っていない。
  さて、どうするか、と首を傾げているところに、背後で絹を裂くような鋭い悲鳴が上がった。




  赤の隠形





  ぎょっとして振り返った。
  サンダウンの背後で悲鳴を上げるなど、この白くくすんだ世界では大勢はいない。あの、子供達
 くらいだった。
  しかし、アキラとかいう子供はともかく、他の子供達は幼いながらにも何処か血に飢えたような
 眼差しをしていた。だから、そうそう悲鳴を上げるとは思えないのだが。
  サンダウンが呑気にそんな事を考えて、しかも助けに行くべきかどうかを心の中で葛藤している
 間に、硬い大理石の上を何かが物凄い勢いで、しかしほとんど足音を聞こえさせないままに走って
 いる。
  ぱたぱたというのは、何かの足音だろう。
  大理石の上を走っているというのに、そんな足音しかしないという事は、相当に体重が軽いか、
 それか靴を履いていないか、それともその両方か。どうであれ、あからさまにそれは、人間の足音
 ではない事だけは確かだ。
  何せ、そんなに小さな足音なのに、隔離された塔にいるサンダウンの耳にまで、はっきりとそれ
 は聞こえているのだから。
  それとも、この世界の音の伝わり方も、また狂っているのか。
  悲鳴は途絶えた。
  だが、子供達はまだざわついているのか、空気に漣が立っている。そしてそれはサンダウンの元
 にはっきりと伝わっている。
  サンダウンが、腰に帯びた銃を抜くのと、開け放たれた扉の向こうに見える渡り廊下を、この世
 の物とは思えぬ速度で迫りくる影が見えた。
  がりがりにやせ細って肋の浮かんだ身体。唇のない、骸骨のような顔に蓬髪。眼だけは爛々とし
 ているが、しかしそれもまた虚ろだ。駆ける足元から、冷気がそそり立っているかのように、呼気
 が白い。
  氷の吐息を持つ、あの獣だった。
  奇妙な声を上げながら、こちらに向かってくる。かぱりと開かれた唇のない口は白い歯だけが並
 び、そして骸骨のような身体であるのに口腔内は真っ赤だった。
  村の何処かの家に隠れるような音を立てていたのに、もう出てきたのか。それとも、逃げたと見
 せかけて、こちらを油断させるつもりだったのか。
  もしも後者だとしたら、随分と見縊られたものだ、と思う。
  サンダウンは、端から油断などしていない。
  あの化け物は、いつだって何処からともなく現れて、人の生き血を啜ってきたのだ。人でありな
 がら人ではなく、人でありながら人を喰らうしかない化け物は、隠れて物陰から躍り出て、そうや
 って獲物を捕らえてきたから、姿を見た者もほとんどおらず、捕まえる事が困難だった。

  だからサンダウンは、

  その時の事を思い出して、少し顔を顰めた。
  氷の化け物を荒野で撃ち落した時、サンダウンもまた、少し人間から遠ざかったのだ。それを、
 今、思い出した。なるほど、もしかしたらこの地は、過去を回想させる何かが強く残っているのか
 もしれない。
  もしも、サンダウンの過去を求める力が強ければ、今なお城の中を這いずりまわる亡者達のよう
 に何らかの形で視界に映るのかもしれなかった。
  けれども、獣は、亡者とは違い、確かに質量を持って迫っている。
  隠れる場所が何処にもない、塔と城を繋ぐ渡り廊下を、飛ぶように駆けてくる獣を見る。自らを
 曝け出してサンダウンに向かってくる獣は、何もない不毛の荒野で獲物に飛び掛かろうとしたあの
 時と、同じ姿をしている。
  違うのは、これがサンダウンの仕掛けた罠であるか、ないか。
  枯草しかない、身を隠す物のない荒野に、奴を誘き出す必要があったか、なかったか。
  昔は、あった。
  用心深く、しかし血に飢えた獣を、その姿をあけすけに出来る場所に誘き出す必要が。
  今回は、人間から遠ざかる必要がなかったか。
  迫りくる獣に粗点を合わせて、サンダウンは思った。
  昔、あの時、サンダウンは獣を捕える為に、罠を仕掛けた。罠と言っても、そんな大層な物では
 ない。獣を呼び寄せる為の獲物を置いただけだ。
  獣の舌は肥えている。
  もはや普通の牛や豚の肉では満足しない。鳥や魚も然り。
  人を喰らいつづけた獣は、その胃袋を人で見たす以外の事は、考えていない。
  しかも、獣は生きた人間でなければ、見向きもしない。墓漁りなど一度もしなかったし、放置さ
 れた浮浪者の死骸など、玩具にもしなかった。
  だから、サンダウンは。
  あの時、まだ息のある、とあるならず者を、その両手足を撃ち抜いて、炎天下の荒野に転がして
 おいたのだ。
  言う人は言うだろう。
  ならず者など、どうなっても良いだろう、と。そんな事よりも、悪人一人の命のおかげで、他の
 人間の命が助かったのだから、と。
  大体、サンダウンは既に数えきれないほどの人間を殺している。ならず者の命は、本来ならば検
 事に任せるのが適当なのだが、そうはいかぬ場合も多い。無法者が抵抗すればするほど、サンダウ
 ンが撃ち落す数は多くなる。
  サンダウンが一度銃を抜けば、粗点を合わせられた者の命は、サンダウンの手中にあると言って
 も過言ではない。
  だから、あの時のならず者が、サンダウンの目的を達する為の獲物となっても、それは至極当然
 の事ではあった。
  それでも、銃で一息に殺すのではなく、生きたまま人間に喰らわれるというのは、冷静に考えれ
 ば、あまりにも残酷な罰だった。いくら、小金欲しさに一つの家族を殺した強盗とはいえ、そこま
 でされる必要はあったのだろうか。
  サンダウンは、保安官時代の最期、いつも己の裁量は的外れなのではないかと思ってきた。
  銃の粗点は、決して外さぬのに。
  きっと、今回も外さないだろう。けれども、あの獣を撃ち落す事は、今は決して的外れではない
 はずだ。子供達が近くにいて危険である上、人間であった獣はもはや人間に戻る事は叶わない。そ
 れに、今回の獲物はサンダウン自身だ。
  この裁量は、間違ってはいないはず。
  黒い、賞金稼ぎのように。

 「アーアーーー!」

  獣が、甲高いが激しく地の底を這うような咆哮を上げ、大理石の床を蹴る。その一蹴りは最後の
 一蹴りで、サンダウンとの距離はそれで詰まる。
  枯れ枝と見間違うほどに細く茶色い、骨しかない腕がサンダウンに伸ばされた。
  ふと、そうではない、と思った。
  あの鉤爪は、サンダウンを狙っているのではない。爪先が伸びる方向にあるのは、サンダウンの
 手の中にある、手紙の束だ。
  サンダウンの腕ごと、もぎ取ろうとしている。
  この手紙が獣にとってなんなのか、という疑問は当然のように頭を擡げた。この国の王女と、何
 か関わりがあるのか、と。
  けれども鉤爪から迸るのは、はっきりとした暴力で、サンダウンは獣に腕をくれてやるつもりは
 ない。
  響いた銃声は、一発だった。
  獣をおびき寄せる獲物はサンダウンではなく、手紙だった。
  獣は、獲物を見つけると、それに一直線に向かってくる。ましてサンダウンの手の中にあるのだ。
 真鍮の銃口からは、決して逃れられぬし、逃れようとも思っていなかっただろう。  
  ふつ、と。
  銃声の中、肉を貫く軽い音がやけに響いた。聞こえるわけがないのに。そして血が滴る音が。そ
 の骨しかないような身体の、何処に血が流れていたのか。

 「アー、アル………ティ……。」

  ごぼり、と粟立つ声が獣から放たれた。断末魔というには、あまりにもか細い。
  誰かの名前を、呼んだかのように。