無害となった白い影が蠢く冷たい城の中は、やはり何処を見ても血を舐めとった後が残っている。
 血の匂いは実際にはしないが、薄く残る唾液と血の混ざった線を見ていると、此処で如何ほどの惨
 劇が行われたかが分かるだろう。
  けれども、これは血の始末をつける事に慣れた者でなければ、分からない事実。
  サンダウンの背後で、薄気味悪そうに周囲を眺めている子供達に、果たしてかつて香った血臭を
 感じ取る事が出来るかどうかは、甚だ疑問だった。
  心が読めるなどと嘯いていたが、例え心が読めたとしても、そこに血の色を見て取れるかどうか
 は、結局は経験に基づくものだろう。或いは声から血の痛みを想像できるかの感性による。
  別に、サンダウンは背後にいる少年達を貶めるつもりは全くないが、それでも子供に血の色や声
 が分かるとは思えなかったし、思いたくもなかった。子供は、そんな物はまだ知るべきではない。
  だが、この国では死に至る寸前が、溢れんばかりの朱と痛みで彩られていた子供が、確かにいた
 のだ。




  夜来の王





  やはりと言うべきか、この城には書庫らしき部屋がなかった。
  城というものをサンダウンは、本の中でしか見た事がないのだが、しかしアメリカ西部にある成
 金の屋敷には、本当に使用しているかどうかは怪しいが、知識があるように見せる為の書庫が必ず
 あったものだ。つまり、書庫とは主人の、国ならば王の知識を示す。そして知識を残す事は歴史を
 作る上でも重要な事だった。
  歴史は勝者によって語られる。南北戦争でもそうだった。故に、勝者は敗者の歴史と己の歴史を
 縒り合わせ、自分達に都合の良い物語を紡ぐ為に、双方の歴史を知識として残しておくのだ――む
 ろん、残された歴史は捻じ曲げられたものも多いが。
  こうした常識を照らし合わせれば、ルクレチアの城にも、ルクレチアの歴史を残している場所が
 あるはずだった。
  だが、巧妙に隠されているのか、それとも端から残す気がなかったのか、書庫らしき部屋は皆無
 である。ちょっとした本棚とかはあるのだが、使用人の部屋にあるもので、歴史は全く関係ない本
 ばかりが並べられていたり、城の祭壇近くの本棚は聖書ばかりだったりと、この地に纏わる本は、
 どうもなさそうだった。
  しかし、此処までないというのは、逆におかしい。
  歴史を残さぬ国など、普通はない。よほど隠したい事実でもない限り。

 「なあ、おっさん。本なんか探して意味があんのかよ。いや、確かにあれだぜ。RPGの王道って言っ
  たら、本や酒場で情報を得る事だ。でもは、現実はゲームとは違うだろ。本に答えがズバリ書い
  てあるわけがねぇって。」

  思考に割り込む少年の声は、分別を知らぬほどに幼い。
  サンダウンとて別に、本に答えそのものが描かれているなどとは思ってはいない。書かれていた
 としても、隠されて書かれているだろう。
  しかしそこから読み取れるものは確かにあるはずだ。民話や伝承が、時として事実を訴えている
 ように。アメリカ西部の荒野では、インディアンの伝説が全く嘘ではない事を、サンダウンはあの
 化け物を見たが故に分かっている。
  それと、同じだ。
  この国と、魔王と、勇者と、そして化け物と。
  それらを繋ぐ何かが、必ずこの国の歴史の中に埋没している。少なくとも、魔王を斃した勇者を
 この国の王女と結婚させて支配層においたという事実がある以上、それを語る物語が何処かにある
 はずだ。
  本ではなくて、例えば。
  亡者達の言葉の中で引っ掛かりを覚えたものを一つずつ反芻しながら考えていたサンダウンは、
 ふと足を止めた。
  歩みを止めたサンダウンの背後で、同じように狼狽えながらも子供達が歩くのを止める。と同時
 にサンダウンは踵を返した。返し様に手にある黒の剣で空を薙ぐのではないかという勢いで振り返
 ったサンダウンは、顎をぐっとポンチョに埋もれるほどに引いて、大股で子供達の間を割るように
 横切っていく。
  唐突なサンダウンの転身に、子供達は呆気に取られているようだった。
  ぽかんとした彼らを置き去りに、サンダウンはむっつりとした表情で、しかし歩く勢いを止める 
 つもりはなく、硬質なブーツで大理石の床をどんどんと叩いていく。
  そのまま玉座の間に到達したサンダウンは、勿論そこで拝するつもりはない。
  サンダウンは玉座の間の奥にあるであろう部屋に辿り着きたかったのだ。玉座には興味はない。
  城の一番奥の部屋と言えば――後宮である。
  後宮とは、所謂、貴人の婦人が寝泊まりする場所だ。王妃や王女が、此処に住まう。ルクレチア
 の王妃がどうなったのか、サンダウンは知らないが、けれども亡者達の口からは王妃の事が語られ
 なかった事を見るに、王妃はこの件には関係がないほど、遥か遠い昔の出来事となっているように
 思う。
  ただ、この王妃も一度は魔王に攫われている。二十年前、王女を身籠っていた時に。
  しかし、王妃を魔王の手から救い出したのは、ルクレチア国王ではなかった。魔王が王妃を攫う
 よりも前に、あの王は王となっていた。かつて魔王を斃したのかもしれないが、あの様子を見るに
 魔王とは対峙した事もなさそうだ。
  ならば何故、ルクレチア王はルクレチア王と成りえたのか。魔王を斃していないのに王女と婚姻
 したから、このような悲劇が起こったのだと叩かれるオルステッドとの差は何か。
  考えればすぐに分かる。
  ルクレチア国王は、前王の嫡男だった。だから勇者を迎える必要はなかった。けれども今のルク
 レチアには王女しかいなかった。だから勇者である男を、婿として迎える必要があったのだ。
  ルクレチアの現国王は、魔王殺しなどした事がない。
  いや、この見た目田舎の国。魔王どころか、如何なる化け物も殺した事がなかったのかもしれな
 い。そんな、絨毯上の王だったのだ。
  疑問は、何故、王女しかおらず、婿を取らねばならぬ場合、それが勇者である必要があったのか。
  魔王を斃せるほどの勇猛な戦士でなくてはならなかったのは何故なのか。この地を守りたいから、
 だけではあるまい。勇猛である男を迎えるという事は、同時にその男の故郷に国が征服されるとい
 う恐れがある。
  それでも、この山と森しかない国をどうにかして豊かにしたかったのだと言うのなら、しかしや
 はり勇猛でなくとも、強国と繋がりのある男を婿にすれば良いだけの事。なのに、外部から男を得
 る場合は、魔王を斃した勇者に拘った。その理由は何か。
  何よりも、そこに拘りすぎたから、王女は二十歳になっても婚姻を結べずにいたのではないか。
  魔王を斃せる勇者がいなかったから。
  何人かは、婚約関係に至った、何処かの貴族の子息がいたのかもしれない。けれども、その何れ
 もが魔王を斃せなかったのではないか。勇者としての資格に足る男がいないが故に、このままでは
 血が絶えると焦り、武闘大会なんてもので選ばれた何処の馬の骨とも知れぬ輩を勇者としたのでは
 ないか。
  そしてもう一つ。
  もしも、これまでに何人もの男が婚約者となり、魔王山に登ったのなら。その結末の代償は、ど
 のようなものだったのか。
  途中で怖気づいて逃げ出したのならばいい。
  けれども、帰って来なかった場合は。
  ぞっとしたが、これはただの仮説だ。真相として裏付けるには、王女に婚約者がきちんといた事
 を示す資料が必要だ。その資料は、別に本でなくともよい。
  婚約者からの手紙などで、もしくは王女の手紙の下書き程度で十分なのだ。
  日記ならば、なお良いが、そこまで筆まめである事を求めてはいない。
  サンダウンが向かったのは、後宮――王妃はいない、だから王女の部屋だ。
  普通ならば夫人の部屋に入る事は躊躇われるし、そもそもが後宮に入るなど不敬罪どころの話で
 はないのだが、保安官時代には不敬罪であろうがなんだろうが、事件があれば婦人の閨にも平然と
 踏み込んだものだ。
  今の非常識な世界の観点で考えれば、夫人の閨に入りクローゼットを掻き回す事も、全く以て問
 題ないだろう。
  後宮は、まるで一つの塔のようだった。
  王座の間の真後ろにある廊下から、一本渡り廊下が伸びて塔に突き刺さり、突き刺さった場所に
 ある木の扉の向こう側が王女の部屋だった。 
  赤い絨毯と、白いレースのカーテン。壁際にある一見すれば豪華な、しかし小さな調度品の類。
 奥にある薄紅色のレースの向こう側は、天蓋付きのベッドだろう。調度類に囲まれるように、小さ
 な本棚と小奇麗な机がある。机の上には、綺麗にインク瓶と銀製のペンが並べられている。そっと
 インク瓶の蓋を外せば、中は空だった。
  どうやら、王女の手紙や日記は期待できそうにない。
  机の引き出しを開いた所にあった日記も、ぱらぱらと捲れば白紙が目立つ。筆まめからは程遠い
 王女様だったようだ。ちらりと本棚に視線を転じれば、こちらにはまだ手を伸ばした形跡がある。
 幾つかの本の背表紙は、少しよれていたりするから、何度も読み直した本もあるのだろう。
  一番背表紙の汚い本を取り出して、中を捲ってみる。ただ、少し残念な事に書かれている文字は
 サンダウンには読めぬ文字だった。丸っきり見知らぬ文字と言うわけではないのだが、しかし英語
 ではない。イタリア、いや、ラテン語かもしれない。
  ただ、不幸中の幸いは、本には頻繁に挿絵があった事だ。一見すると、若者が竜を倒すという何
 の変哲もない英雄譚のように見えたが。
  サンダウンはひとまずそちらは置いておき、他に何かないか、机を再度調べる。必要以上に触れ
 られた形跡のない机だが、だからこそ余計に怪しいのだ。
  しばらくガタガタと机を漁っていたが、引き出しの高さが奇妙である事に気づく。妙に底が分厚
 いのだ。これは、と思い底を何度も叩くと、案の定、そこが外れて、ぽっかりとした空間が現れた。
 二重底である。
  何かを隠す時に、常套手段だった。
  そしてその常套手段の結果は、一束の手紙だった。