青灰色の暗い通路を奥へ奥へと進み、ふと立ち止まった時、追いかけてくる亡者は何処にもいな
 かった。
  相変わらず白い影は、黒々とした通路の行く先々にぼんやりと灯っていたが、こちらを追いかけ
 てくるような顔色をした者はいない。ただ、先程唐突に血色に変貌した亡者達と同じく、やたらと
 はっきりと輪郭を伴った者が、この辺りには多かったが。
  サンダウンが立ち止まると、背後でぱたぱたと足音を響かせていた子供達も止まる。かわりに、
 息を肩でするような音が聞こえてきた。といっても、随分と落ち着いた呼吸をする者もいるような
 ので、どうやら体力のある者とない者の差が激しいようだ。
  子供達の息が落ち着くのを待つつもりはないのだが、サンダウンは結果的にそれまでの間を、周
 囲の様子を窺う事に費やす。
  サンダウン達が現れた所為だろうか、この場所にいる幽鬼達もまた、漂う影から実体に近づき、
 そして生者に気づいているようだった。
  ただ、こちらを襲わず、こちらの話が聞こえているかのような色が、虚ろな目に浮かんでは消え
 ている。




  暗澹の波





  幽鬼達はサンダウンに気づきながらも、しかし己の事で薄い気配の中がいっぱいなのか、サンダ
 ウンをちらりと見る事はあっても、それ以上関わってこようとはしない。
  けれども、先程の幽鬼よりも濃い色をしているからだろうか、呟く言葉もはっきりと聞こえる。

 『やはり、勇者の選定が間違っていたのだ………。』

  湿気を帯びた暗い空気の中にいるには不自然なほど、煌びやかな赤の地に金の縁飾りのついたマ
 ントを羽織った男が、呻くように言った。白髪の混じる髪の上には、小さいながらも金の王冠が乗
 っている。
  この、くすんだ灰色の世界の王なのかもしれない。
  髪と同じく白い物の混じった髭には、微かに赤いものも混ざっており、彼もまた、凶刃にかかっ
 たのだろう。
  そして、『勇者』の言葉。

 「勇者というのは、オルステッドという者の事か?」

  実体に近い身体をしていると言っても、本当に意志疎通まで出来るかは疑問だった。こちらを見
 たと言っても、アキラという少年の言葉通り、この場所にこびり付いているだけの存在ならば、受
 け答えまで出来るかは怪しい。
  それでも語りかけたのは、それ以外に方法がなかったからだ。
  保安官時代の尋問口調で問えば、予想に反して答えが返ってきた。

 『そうではない………。今思えば、そうではなかったのだ。あんな武闘大会などで勇者を決めるべ
  きではなかった。魔王山に住まう魔王を一人で斃した者こそ勇者となり、この国の王となるべき
  だったのだ。』

  ルクレチアの国の王は、オルステッドに勇者の資格などなかったと呟く。
  しかし、当の国王本人も、勇者として生きたようには見えないのだが。
  サンダウンがその疑問を口にすると、王は口を閉ざした。そして再び、勇者の選定が間違ってい
 たのだ、と繰り返す。
  なるほど、確かにこちらの質問には答えるが、しかしそれは、この場所で死んだ者が強く残した
 思いに関係する事だけのようだ。
  ならば、聞き方を変えなくてはならない。

 「………オルステッドは、何をした?」 

  勇者と言われつつ、勇者としての資格がないと言われた、彼は。

 『ルクレチアを亡ぼした。』

  死人である王の口からは、己の継いできたものが此処で途絶えたという嘆きが零れだした。
  勇者として、間違った選ばれ方をしたオルステッド。彼は、本来ならば勇者として、国王の一人
 娘であるアリシアと結婚し、ルクレチア国王となるはずだった。
  けれども。

 『王女が魔王に攫われた。』

  不意に、別の場所からしわがれた声が上がった。
  サンダウンが視線を走らせれば、昏い通路に蹲った老人がいる。頭は禿げ上がり、長い髭は真っ
 白だった。
  一見すれば、お伽噺に出てくる古い知恵を持った魔法使いのようだった。

 『オルステッドが友人と共に、そう言って儂の前に現れた。目の前で、魔王山からやって来た魔王
  に王女を攫われた、と。王に連なる婦女子が魔王に攫われるのは、これで二度目。』

  老人は、酷く疲れたような、皺の深く刻まれた顔に、ますますの色濃い隈を浮かべた。何が、途
 方もない間違いが起きてしまったかと言わんばかりに、何度も首を横に振って。

 『あの愚か者は、』

  王女を救う為に魔王山に向かったのだ。
  本来ならば、勇者を名乗る為には先に魔王を斃しておかなくてはならない。この国では、そうい
 う約定がある。そして魔王を斃した勇者にこそ、王女を娶り、国を治める権限が与えられる。
  その考えでいくならば、その時オルステッドはまだ勇者ではなかった。

 『あの時、奴を、まだ勇者に祭り上げるべきではなかったのだ。武闘大会などで優勝しただけの若
  者を、勇者などと。だが、儂も、ただ順番が逆になっただけだと、思っておった。魔王を斃しさ
  えすれば、変わらぬ、と。』
 『だが、オルステッドに魔王は斃せなかった。』 

  低い、掠れた声がまた別方向から響く。
  今度は、冷たい壁にもたれるようにして、武骨な鎧で全身を固めた壮年の男が立っていた。俯き
 加減の顔からは、その表情までは読み取れない。ただ、老人と同じく、とかく疲れたような雰囲気
 を漂わせていた。
  蹲る老人は、既に何の反応もしない。
  他の亡者と同じ、ぶつぶつと同じ事を繰り返すだけの存在に戻ったようだ。

    『二十年前、王女を身籠っていた王妃を我々が助け出した。その時と同じように、再び魔王を斃し
  て見せた。そのつもりだった。』

  だが、魔王だと思っていたのは魔王ではない、ただの小物の魔物だった。
     その言葉に、違和感を感じないはずがない。
  一度魔王を斃したというのなら、魔王の姿形は知っているはずだろう。対峙したその時に、何故
 分からなかった。 
  そして何故、斃した時に、魔王ではないと分かった。
  サンダウンの疑問は、男の今際の際に残した思いと、完全に合致はしなかったのだろう。サンダ
 ウンの問いに対して、完璧な回答はなされなかった。しかし、サンダウンの問いかけの何かが、男
 の最期の瞬間を掠めたようだった。
  王や老人のように、疑問に対して同じ言葉を繰り返すのではなく、ただ、奇妙な言葉を返してき
 た。

 『あの魔王は………心臓が、温かだった。』

     今にも苦しげな、白い溜め息が聞こえてきそうな声だった。
  そして、それ以上の言葉を紡ぐのは、もはや限界であったのか、後は何を言っても返事せず、そ
 れどころか同じ言葉さえも繰り返そうとしなかった。

 「あーあれだな。あんまり碌な事は分からなかったな。」 
 「そうかい?結局は、こんな状況を引き起こしたのは、オルステッドって奴だって事は、わかった
  じゃないか。」

  子供達が、亡者達の言葉から分かった事を声にたして逐一挙げている。
  オルステッドという若者が、王女と結婚する栄誉を与えられた事。
  しかし王女は魔王に攫われた事。
  王女の母親もまた、王女を身籠っている時に魔王に攫われた事。
  そして、オルステッドが斃した魔王は、魔王ではなく、むしろオルステッドが魔王となり、この
 国を滅ぼした事。
  何よりもそもそも、オルステッドには勇者としての資格がなかった事。
  そして、魔王の見極め方は、その心臓の温かさにあるという事。
  これだけだと、オルステッドが何故魔王になったのかが、全く分からない。そこに大きな意味が
 あるのかもしれないが、だが、それよりもサンダウンには最後に一つ零された言葉のほうが気にな
 っている。
  心臓。
  森の中をうろついていた、あの獣の氷のような吐息と、それが静かに結びついているように思え
 たのは、サンダウンが過去に見た事のある獣の心臓が、凄まじく冷たかったからだろうか。
  薄暗い通路は、徐々に明るさを取り戻し、あの白濁したくすんだ世界に戻ろうとしている。語る
 べき事を語り終えたからか、それともこの場を維持するだけの力がなくなったのか。
  恐らく後者であろうと分かったのは、灰色に戻っていく世界の最中でも、まだ何かを語ろうとし
 ている幽鬼がいたからだ。 
  鈍色の髪を振り乱し、ねっとりと叫ぶ亡者が、一人。

 『そうだともオルステッドがああなったのは俺の所為だ。だがオルステッドは勇者じゃなかった事
  を俺は知ってる。勇者としての資格がなかった事も。皆知ってるはずじゃないか。あいつは魔王
  山にいる龍の心臓を手に入れてなかった。なのに皆、あいつを勇者に祭り上げた。それが失敗し
  たから、あいつは魔王になったんだ。俺が裏切った所為だけじゃない。全員が、言い伝えを無視
  してあいつを勇者にしたから…………』

     俺の所為だ。
  でも、俺だけの所為じゃない俺だけの所為じゃない。

  間際の間際まで、灰色に解ける瞬間まで、その声が聞こえた。