己の名を言い当てた少年を、サンダウンは一瞬、少年が怯えて逃げ出すような眼差しで見つめた。
  果たして、この少年も実は魑魅魍魎の一つではないかと思ったのだ。
  だが、サンダウンのその考えさえ読み取ったのか、怯えながらも、違う自分は人間だと喚いた少
 年の様が酷く滑稽であった事と、また結局は心を読めたところでそれ以上の人知を超えた力も、む
 しろ、人間としての基礎体力さえもサンダウンには遥かに劣ると見て取ったので、サンダウンはそ
 れ以上の追及はしなかった。
  それよりも、暗転してしまった視界の薄暗さのほうが問題であったし、その中を薄ぼんやりと白
 く漂う幽鬼のほうが、サンダウンの手を煩わせるような気がしたのだ。

 「で、あんたはあれは見た事ねぇの?」

  あの、獣みたいに。
  少年の言葉に、サンダウンは答えなかった。少年はサンダウンが、あの獣を自分の世界で見たと
 いう事を、わざとかどうかは知らないが、口にしたのだ。
  サンダウンには、けれどそれについて何らかの反応をしてやる義務はない。
  ただ、、もしも少年の質問に答えるならば、サンダウンは幽鬼のように夜な夜な徘徊する人間な
 らば見た事があるが、目の前にいるように霧のように漂う存在など、見た事はなかった。




  砂の亡者





  漂う白い人影は、足音も影もないところを見るに、実体そのものがないようだった。よくよく見
 れば半透明であり、焦点を定めなければすぐさま靄と化してしまうそれに、実体があるかどうかな
 ど、愚問ではあったが。
  霧の都ならば、その姿は幽霊だと呟かれ、そしてこの城の価値も上昇するのだろうが、幸いにし
 て良く噂で聞くような、幽霊が人間を傷つけるという事はなさそうだった。
  滑るように青灰色の冷たい通路を通り過ぎていく人影は、此処にいる生身の人間になど興味がな
 いかのようで、ただ害があるとすれば、あまり精神上宜しくないような恨みがましい声音で、ぶつ
 ぶつと呟いているのだった。
  こちらが手を差し伸ばしても素通りし、霧の灯る眼差しには何も映っていないから、おそらくサ
 ンダウン達の事など、見えもしていないのだろう。
  ひたすらに、自分達の思うがままに呟く彼らは、一様にして理不尽に奪われた己の命について嘆
 き、恨んでいた。

 「駄目だね、話しかけても何の反応をありゃしないよ。アキラ、あんたの力でなんとか話しかけら
  れないのかい?」

  数回人影に話しかけたものの、悉く無視された少女が、お手上げだと言わんばかりに首を竦めて
 見せた。
  少女に、アキラと呼ばれた派手な髪色の少年は、少女の要望に、無理無理と首を横に振る。

 「俺は相手の心を読めるだけだって。こんなふうにあちこちに、置いて行かれたみたいな感情が剥
  き出しになる事自体が変なんだって言っただろ。」

     亡者達――アキラという少年が言うには、現場に残された想いといやらであるらしいが――が影
 を伴う原因となった彼は、少し不貞腐れたような顔をしている。少女の顔に、使えない男め、とい
 う色を見て取ったからだろう。
  少年少女のやり取りを、サンダウンは背中でのみ感じ取りつつ、雲のように無言で湿気た空気を 
 残して過ぎ去っていく亡者を、視線で追いかける。
  鬱々とした声が、一体何を言っているのか。
  己の死を語るその声の中に、サンダウンがこの場所から戻る切っ掛けはあるのか。
  けれども、特に期待はしてはいなかったとはいえ、白い亡者が語るのは、己が理不尽に殺された
 という事だけだった。
  この城に残っていた夥しい血の持ち主であるのだろう彼らは、故にこの場所に、鮮烈な死の跡を
 残して逝った。己が如何に殺されたかを語る声は、もしもサンダウンが保安官であったなら、辛抱
 強く耳を傾けたかもしれない。殺人という、人間の犯す罪の中で最も重いとされる罪を犯した人間
 の、名前、そうでなくとも特徴を、その者の元へと至る為の切欠を得ようと、死者の声に耳を傾け
 ただろう。
  けれども、今のサンダウンには彼らの声音に耳を傾けるには、銀の星の下から既に遠ざかってし
 まった。
  亡者の恨み辛みを聞き続けていたならば、逆にサンダウン自身がその中に取り込まれてしまいそ
 うだった。
  だから、サンダウンは死者の声を、ほとんど聞き流すようにしていた。レイという少女のように、
 死んだ者に話しかけるなど、恐ろしくて出来なかった。話しかけて、返事が来る事もだが、その時
 の声が自分の声を模していたなら。
  それとも。
  まさかとは思うが、あの時自分が殺した、あの獣の姿を象ったりしたら。
  もしも、アキラの力の波長が、この地に合ったのだとして、故に残された想いが具現化したとい
 うのなら、生きているはずの自分の怯惰も具現化されないとも限らなかった。
  だから、サンダウンは少年達に背を向けて、耳元で囁かれる冷たい声を、聞き流す。
  ただ、聞き流していた声の中に、ふつふつと繰り返し出てくる言葉がある。

 『―――勇者が………。』
 『違………オルステッド………。』
 『王女様が―――魔王に――。』

  死に様を嘆く声がほとんどだが、けれども嘆く彼らの声が、必ず呟くのが、この四つの単語だっ
 た。
  勇者。オルステッド。王女。そして魔王。
  一聞すれば、遠い国の古臭いお伽噺に出てくるような単語だ。
  子供達もそう思ったのか――特にアキラは――怪訝な顔をしている。
  何も考えなければ、その単語だけを並べれば、魔王に攫われた王女を勇者が助け出したと思うと
 ころだが。

 『勇者オルステッドが―――。』
 『違う………あれは魔王オルステッド………。』

  転瞬、白い幽鬼達の中に、じわりと朱が滲み出す。
  なに、と思う間もなく、それは彼らの顔やら手を多い、来ている衣服にも赤が混ざる。血だ。こ
 ろりと腕を取り落とした影もいれば、散々逃げ回った末なのか、衣服と血の境界が分からぬほどに
 刻まれた身体に変貌した者もいる。
  突然の変貌は、オルステッドという名が、はっきりと響いた瞬間に起きた。
  赤い影が、凍えているのか白い息を気炎のように吐きながら、恨みの間にオルステッドという名
 を落とし込む。
  暗い石の通路に、わんわんと、彼らの声が響いては木霊する。ぼそぼそと呟いていたはずの声は、
 今や頭が割れるほどの巨大さとなっていた。
  割れ鐘のような声に顔を顰めたサンダウンと、その背後で呆気に取られたように立ち止まった子
 供達。子供達は、少し後退ったのか、石畳が擦れる音がした。その音に被せるように、誰かが呟く。

 「オルステッド………。」

  ただ、延々繰り返される名を、一言だけ繰り返しただけだったのだろう。
  だが、その言葉に、こちらを見向きもしなかった亡者達が、初めてはっきりと、一斉に顔を上げ
 て反応した。
  まるで、死んだ主人の声を聴いた犬のように。実際はそんなに可愛らしい仕草ではなかったが。
  そして、何かの空白が生まれたかのように、彼らが顔を上げた一瞬だけ、痛いくらいの沈黙が落
 ちた。
  あまりの一瞬に、子供達がたじろぐ気配がした。
  サンダウンはそれを振り払うように、一気に両側に赤い亡者が佇みこちらを見ている通路を駆け
 抜けようとした。
  ほぼ同時に、亡者達が血であろう赤い筋が何本も走った手を持ち上げ、先程まではこちらに興味
 を示さなかったくせに、こちらに取り縋ろうと言うのかやって来る。
  息を呑んだのは、誰だったか。
  サンダウンではない、後ろで立ち竦んだ子供の誰かだ。彼らの中にも俊敏にも動き出そうとする
 気配はあったが、しかし大半が動き出せていない。
  放置しても良かった。
  サンダウンには、誰かを護る責務は、もう何処にも落ちていない。
  なのに、ずっと黙りこくっている中心のサンダウンが、喚いた。
  腹の中を占めた苦い思いは、護るべき者を護れない事についてか、それとも未だに本分を捨て去
 れない事についてか。
  口の中に広がる苦味を噛み潰し、サンダウンは腰にあった銃を引き抜くと、引き抜きざまに一つ、
 轟音を虚空に放った。通路の奥の暗闇に吸い込まれた音は、けれども亡者を立ち止まらせ、立ち尽
 くした子供達を我に返らせるには十分だった。
  それ以上の音をサンダウンは立てず、声もかけず、一瞬動きの止まった亡者の合間を駆けた。背
 には子供の足音が聞こえる。