扉が閉ざされる音を聞いてから、サンダウンは色を失った村に背を向ける。
  本当はこの村についても調べておくべきなのかもしれないが、あれがそこに潜んだ以上、後回し
 にすべきだろう。あの獣が出て行って遠ざかるまで。
  閉ざされた扉の向こうから引きずり出して撃ち殺す事も出来たかもしれないが、けれども今のと
 ころ地の利はあちらにある。何処かに抜け道なりがあり、背後から襲い掛かられる可能性もある。
 無理に追いかけるのは、得策とも思えなかった。
  従って、サンダウンは銃を片手に、もう一方の手に黒光りする剣を下げ、城門を潜る。
  森の中にぬっと突き立った城は、本来はさほど大きくはないのだろうが、山と木以外に比較する
 建築物がなかったので、実際よりも大きく見えたのだが、間近で見るとやはり大きい。
  本の中でしか知らない、本当の城という物を間近で見たサンダウンは、けれどもそこから栄華や
 繁栄といったものが感じられないため、感動はせずにむしろ薄ら寒い気分になっていた。
  そもそも、こんな白濁したくすんだ世界にある城が、栄誉に満ち満ちたものであるはずがない。
  いっそ、イギリスなどで良くある幽霊城であるというほうが、しっくりくる。亡者が徘徊し、恨
 み辛みを呟いているのだと言われた方が。
  そしてそれこそが、真実であるかもしれない。
  あのような獣が生み出された、この国では、




  沈黙の声





  見上げた城は、濁っている事を覗けは、特に腐敗していないように見えた。
  朽ちた様子もなければ、城壁が崩れているようにも見えない。先程まで誰かが此処で生活してい
 たのだと言われても、頷けるほどに小奇麗であった。だが、見張りの兵などは何処にもおらず、巨
 大な両開きの扉の前にも兵士はいない。扉を開いても、だだっ広い石造りの床が寒々と広がるだけ
 で、兵士は勿論の事、女官らしき人物など見えもしない。
  ただ、彼らが使用していた槍やら剣やら、箒やら書簡やらは、無造作に床の上に散らばっている。
 まるで、その瞬間に人間だけが消えてしまったかのように。
  けれども、日常の色合いが色濃く残っているにも拘わらず、やはり人間がいたという空気は嗅ぎ
 取れなかった。人間が消えた事で、人間が持つ生々しさも消えてしまったのかとも思うが、普通は
 そんな事はない。
  サンダウンは、これまでに幾度となく廃墟を見てきた。ゴールド・ラッシュが過ぎ去り、人も立
 ち退いた後の町などは、保安官になってからも、保安官を辞めた後も幾度となく見てきた。誰もい
 なくなった町は、当時の人々が生活した時のままで家具が残っており、一緒に持って立ち去れば良
 かったのにと思うほど、衣類や食器が棚の中にあったりする。これらは移動に邪魔だったから持ち
 主が置いていったのだろうが。
  そして、そういった物からは、持ち主が使っていた時の香りというのだろうか、気配のようなも
 のが色濃く残っているのだ。確かに、誰かに使用されていたのだという形跡もあるし、故に、それ
 を使っていた時の様子というのが、僅かなりとも感じられる。
  だが、この城の中にはまるでそれがない。
  誰が使っていたのか分からないのは仕方がないとしても、本当に使用されていたのだろうかと疑
 いたくなるのだ。真新しいまま放置されていたというわけでもないのに。
  それとも、使いさしの道具を何処からか持ってきて、何者かが城の中に適当にぶちまけたのか。
 そんなふうに思うほど、人がいたという香りがない。
  散らばる道具を見下ろしながら、冷たい石の廊下を歩くうちに、サンダウンはふと気が付いた。
  なるほど、確かにこの城には――あの村にも――人はいたのだ。あの獣が元は人間であったと考
 えていた時から、此処に人間がいたであろう事は分かっていたが、しかしそれを強固なものとする
 事実を発見した。
  一見しただけでは分からなかったが、床に奇妙な線が薄らと、無数に残っている。
  石に亀裂が入っているのではない。薄い色合いが床に残されているのだ。ちょうど、濡れた物を
 拭いた後に、液体の軌跡が残ったような線が。
  問題は、軌跡の色が透明や、或いはそれに近い色でなかった事。微かな茶色、というかどす黒い
 色を薄めたような。
  水ではない。
  サンダウンは、その跡についても、何度も見た事がある。拘置所で、或いは酒場の床で、もしく
 は安宿の廊下で。いずれの場合も、そこでは刀傷、または銃創沙汰が起きていた。
  これは、血の跡だ。
  しかも、夥しい。
  城の床という床に、血の拭い去られた跡がある。
  凶行があった事は間違いがなさそうだが、しかし誰が起こしたのか。あの、獣だろうか。獣に成
 り下がるほどに追い詰められ、遂には獣になり、この地の人々を殺したのか。それとも殺した後に
 獣になったのか。
  尤も、奴が人を殺したという証拠は何処にもない。何せ、死体がないのだ。死体から死因を調べ
 る事も出来ない以上、誰が犯人か、という話にはならない。
  それに、奴が人を殺したとしても、その死体や血の跡を、こうも綺麗に片付けられるものか――。
  思って、サンダウンはそうではないと気づく。
  死体や血の片づけこそ、奴にとっては得意中の得意だ。少なくともサンダウンの知っている獣は、
 捉えた獲物を――人間を、それこそ骨までしゃぶりつくしていたではないか。故に、事件の発覚も
 遅くなったのだ。
  ならば、この血が拭い去られたと思っていた線は、拭い去ったのではなく、奴が血を舐めとった
 跡だ。
  薄ら寒い事実に気が付いた時、サンダウンの背中を伝い落ちたのは、確かに悪寒だった。
  だが、今更、人が人を喰らうなどという事に動揺する神経は持ち合わせていない。では、背中か
 ら這い寄ってくる寒気は一体何なのか。
  それに伴い、全く人の匂いのなかった城の中に、何か気配らしきものが薄く漂い始めている。
  唐突な雰囲気の転換に、サンダウンが眉を顰めていると、

 「ああ、いたいた。」

  薄らう気配の中、もっと濃い人の気配と声が足音と共にやって来た。声変わりして間もない少年
 の声に、幾つもの軽い足音が重なっている。
  振り返る必要もない。
  サンダウンが先程、山の中に置き去りにした子供達だ。
  声の高低から考えるに、サンダウンが思っていたよりも長じているのかもしれないが、サンダウ
 ンの眼から見ればまだ子供だ。
  肩越しに緩く振り返れば、色鮮やかな子供達が一団となってこちらにやって来るのが見えた。
  そして、子供達が近づくにつれて、漂う気配が濃くなっている事に気づく。耳元で、ほそぼそと
 呟く声さえ聞こえてきた。
  この空気の転調の原因は、彼らか。
  子供達それ自体は、特に化け物じみて見えないし、その気配もない。だが、雰囲気ががらりと変
 わり始めた様子を見れば、疑ってかかるのは当然だ。
  だから、サンダウンは無言で彼らに銃を掲げた。
  途端に、派手な金の髪の少年と、黒髪に赤のバンダナの青年は立ち止まり、両手を頭上高くに上
 げる。二人の様子を怪訝に見るのは、少女ともう一人、痩せ過ぎの小柄な少年だ。しかし怪訝に思
 いながらも、合わせて立ち止まったところを見ると、それなりに仲間意識があるのかもしれない。

 「おいおい、いきなり物騒だな。」

  先頭に立つ、金の髪の派手な少年が、笑い顔を引き攣らせながら呟く。けれども彼自身、周囲の
 空気が変わってしまっている事に気づいているのか、サンダウンが銃口を自分達に向けている理由
 を理解したらしい。

 「まあ?俺達が現れた途端に、こんなふうに城の中が妙な事になっちまったら、そりゃあ警戒する
  だろうけどよ、だけど銃を向けるってのはあんまりじゃねぇのか?」

  少年が口を開いている間にも、周囲は変貌し始めている。
  白濁していても、それなりに明るさを保っていた世界は薄暗さを増し、白くくすん場内は、微か
 に青みがかった昏い色合いへと変貌していく。まるで、何処かの地下迷宮のように。
  そして一番の変化は、あれほどまで不在であった人々の影が、そこかしこで蠢き始めた事だろう
 か。ただしそれらは、薄弱とした影であって、生きている人間ではなく、幽鬼のようにおぼろげな
 存在だった。

 「確かに、これは俺らの、っていうか多分俺の所為なんだろうけどな。」 

  微かに顔を白くさせながら、少年は己が原因であると白状した。悪びれた様子はなく、ただ、彼
 自身も何かに怯えているような告白だった。
  世界が完全に、また別の顔色になった時、再び少年は口を開く。それは俄かには信じがたい事実
 ではあったが。

 「俺には人の心を読める力があるんだけどよ。ただ、それもごく僅かなもんで、相手をちゃんと見
  なけりゃ、全然読めねぇっし、相手が俺の欲しい情報とは違う事考えてりゃ、欲しい情報は得ら
  れねぇっていう、意外と役に立たねぇもんなんだよな。」

  なのに、今のこれは全然違う。
  変貌した城の中は、この城に残っていた人々の心――所謂残留思念そのもの。

 「それを、俺が感知してこうやって俺以外の人間にも見えるようになってるらしい。言っとくけど、
  これは俺だけの力じゃねぇ。俺の力を何かが増幅させてんだ。でなけりゃ、こんな事、できねぇ
  さ。」

  なあ、サンダウン。
  そう言って、少年は名乗っていないサンダウンの名を言い当てた。