黒光りする剣の肩越しに、鬱蒼と生い茂る森が見える。
  本来ならば緑の毛糸を紡いだような色合いをしているのだろうが、それも今は白濁して沈鬱に静
 まり返っているだけだ。
  いや、もしかしたら、あの金属音の声を持つ存在が、何処かしこに蹲っているのかもしれない。
  ただ、サンダウンの知る限りの、生命の鳴き声は何処からも聞こえなかった。だから、特に声に
 耳を澄まそうとは思わない。どうせ聞こえたとしても、あの凍えるような息を吐き出す、あの獣の
 声しか聞こえないだろうから。
  それとも。
  この国全体を見渡せる小高い山の上から、サンダウンは広がるこの森だけが、この国の領地なの
 だと気づく。あまりにも小さく、周囲を山に囲まれているからあまりにも辺境だ。それでも、国家
 としての矜持だろうか、小さいながらも白亜の城がある。
  アメリカ大陸には、こんな城はない。アメリカという国は城というものとは無縁の、未だ新しい
 国だ。
  それとは違い、古風にも城というものを造り上げているという事は、此処はやはりアメリカでは
 なく、海を隔てた、サンダウンも良く知らぬヨーロッパ本土なのかもしれない。
  あの城の中には、まだ、人が、そうでなくともサンダウンの見知った生命の形が残っているのだ
 ろうか。




  石の回廊





  サンダウンは黒光りする剣を緩やかに引き抜く。
  むろん、サンダウンには剣などは使えない。もしかしたら出来なくはないかもしれないが、けれ
 ども自分にはそれよりも銃があるし、それに銃ではなく刃物に縁があったとしても、自分が持つの
 は剣ではなく斧などの武骨な部類だろう。
  それでもその剣を手に取ったのは、黒く艶めいた様が、良く知った賞金稼ぎが手にしてた銃の煌
 めきによく似ていたからに他ならない。
  まさか、この剣がサンダウンの心象を描いたものだとも思えないから、サンダウンを此処に呼び
 寄せた何者かの罠が潜んでいるわけではないだろう――もしもサンダウンの心象に近づけるのなら、
 いっそ銃の形をしているはずだ。
  鞘のない剣を手に、サンダウンはぽっかりと開けた山の頂上を後にする。
  山を下る最中、またあの奇妙な声を上げる獣に逢うのではないかとも思った。別にそれを恐れて
 いるわけではない。初めて対峙した時は驚愕で一瞬動きが止まってしまったが、次に逢う時は紛う
 事無く眉間を撃ち落している事だろう。
  ただ、一つだけあの獣について確認したい事があるのだ。
  あの氷のような息と、姿について。
  サンダウンが過去の記憶を掘り起こそうと少し俯いた時、視界の端に色鮮やかな何かが映った。
 世界という世界が白く濁っているから、鮮やかに翻るものは嫌でも目に付く。
  金と、赤と、桃と。
  咄嗟に見えた色は、先程山小屋で見かけた子供達の色合いだった。彼らもまた、この山を登って
 来たのだ。それともまさか、サンダウンの後を付けたのか。
  少し眼を細めて、木々の向こう側に見える小さな影を見る。
  木陰の所為か、向こうはサンダウンに気が付いていない。或いはサンダウンの色合いもまた、こ
 の山に同化するようにくすんでいるから気づかれにくいのか。
  子供達と、あの獣の事が同時に脳裏に浮かぶ。
  彼らが鉢合わせをしようものなら、と。
  あらゆる敵意と悪意とが凝ったようなあの獣は、子供相手であろうときっとその咢を開くだろう。
 凍えた息を吹き付けながら。
  注意を促すべきだ。
  サンダウンの一番真ん中にいるサンダウンが、そう叫ぶ。未だ本分を忘れる事が出来ない、古い
 サンダウンだ。
  けれども他のサンダウン達は、放っておけと言っている。本分を守ろうとして、結果己を守れな
 かったサンダウンを守るべく作られた彼らは、誰かと関わっても碌な事がないと叫んでいる。関わ
 って喜びを得られる事など、ほんの一握りであって、それは決して続く事ではない、と。
  耳を澄ましてみる。
  あの金属音の声は、聞こえない。
  いや、遠く遠くで聞こえている。近くにはいない。
  おそらく、このまま山頂に向かう子供達とは逢わないだろう。逆に、今から山を下るサンダウン
 と鉢合わせになる可能性のほうが高い。
  だから、きっと大丈夫だろう。
  サンダウンは、自分の中心で銀の星を掲げている自分に言い聞かせる。一番外側にいる、一番卑
 怯で傷つきたくないサンダウンは、結局自分が責められない最善の場所を進む。
  鮮やかな子供達の気配を素通りし、金属の鳴き声が聞こえる方向へと――白亜の城が佇んでいる
 であろう方向へと、昏い森を下っていく。
  子供と大人となら、あの獣はおそらく子供を選んで狙うだろうが、サンダウンは一人だし、子供
 達は複数だ。子供は狩りやすいけれども人数が多ければ警戒して、獣は近づかない。一度は撃退さ
 れているものの、一人逸れたサンダウンを狙うだろう。
  あの獣は、そういう性質を持っている。
  サンダウンと同じで、大勢に向けて吠える事は出来ない。
  その事を、サンダウンは知っている。
  氷の吐息。
  あれを、一度、身近に感じた事がある。
  この地ではない。サンダウンが元いた世界、アメリカ西部の荒野で、凍える息を吐く、見た目あ
 の獣に似た者を見た事がある。人里離れた岩が柱のように突っ立っている乾いた大地に、サンダウ
 ンはそれを追い詰めた。
  ずっと昔の事だ。
  サンダウンがまだ、胸に銀の星を付けていた頃、人間が食い散らかされるという事件が、サンダ
 ウンが赴任している町の近くで起きた事があった。当初は人肉を覚えた狼やジャガーかと思った。
 だが、医者に死体を見分させたところ、どうも荒野に住まうどの獣とも違うと言われた。
  当時、少しずつだが白人の生活に慣れ始めていたインディオ達が、これは悪霊の仕業だと騒いで
 いた事を、覚えている。
  悪霊など、と馬鹿にする白人は大勢いたが、彼らもまた一様に十字を切っていたから、結局は皆
 が人知を超える事態が起きたと思っていたのだろう。
  年老いたインディオが、悪霊の名を一度きりだが告げた事があったが、何という名だっただろう。
  忘れてしまったが、サンダウンはその時も一人で悪霊を誘き出すべく荒野に入ったのだ。サンダ
 ウンはそれが悪霊だなんて、これっぽっちも思っていなかったが。だからこそ、呪術道具も何も持
 たず、愛銃だけを手に荒野に向かったのだ。
  それは、今と同じ。
  人気のない打ち捨てられた田舎の村の中を通り過ぎ。   そして、石の柱の間に立ち尽くす、悪霊を、獣を見つけた。
  顔を上げると、白亜の城の城門の前に、獣が相変わらずの骸骨のような顔と、毛に覆われた身体
 を曝して立ち尽くしていた。
  サンダウンはそれを見てももはや驚きもしなかった。
  何故そんな獣に成り下がってしまったのかは気になるところではあったが、しかしそれはサンダ
 ウンには与り知らぬところだ。この地にサンダウンが呼ばれた理由が、そして元の世界に戻る方法
 が、その身体には刻み込まれているのかもしれないが。
  だが、それを本人の口から聞くのは不可能だろう。
  サンダウンが覚えている限りでは、これは、人間の言葉を解そうとはしない。
  サンダウンを見て、先程軽くいなされた事を思い出したのか、少しばかし動きが鈍かったが、獣
 は、がぱりと唇のない口を開いて飛び掛かって来た。

 「アーアーーー!」

  文字通り、金切り声を上げながら、背後に城を背負って飛び掛かってくる。それに対してサンダ
 ウンは躊躇わない。銃を掲げ、その眉間に。
  銃声。
  だが、すんでのところで獣は地面に伏せて、そのまま這うように、しかし凄まじい速さでサンダ
 ウンの脇を通り過ぎて村の中に駆けていく。その背に二度ほど銃声を撃ちつけたが、見えているの
 か全てを躱して消えていく。
  やがて、何か扉が閉じるような音が聞こえた。
  もしや、この村の住人のなれの果てだろうか。
  白亜の城を背にして、置き去りにされたような村を見る。霧でも漂っているかのように白い村は、
 しかしやはり人の気配はない。
  いや、例え人がいたとしても、もしかしたらもう人間ではないかもしれない。
  先程の獣と同じように。
  そう。
  サンダウンは、あの獣が、人間のなれの果てだという事を、覚えている。