刀身の中に浮かんだ、昏い青年の眼差しと、視線が合った。そう思った瞬間、青年の姿は消えう
 せている。代わりに、刀越しに見た赤子の姿をした化け物に、微かに鬱金の煌めきが再び宿ったよ
 うな気がした。それも、すぐに肉色の羽ばたきに掻き消されてしまったけれども。
  だが、ほんの一瞬とはいえ、サンダウンの視界に映り込んだ姿が、もしや目の前で怪鳥の如き翼
 を見せつけている魔王の、真の姿だったのでは、と考えさせるには十分であった。
  若く、幼さの残る顔立ちであったが、しかし剣士としての表情のあった顔。ただ、酷く昏い眼を
 していたが。亡者の残滓でさえ、あんな昏い眼をしてはいなかった。虚ろではあったが、あんな絶
 望を刳り貫いて、そのまま眼に押し込んだというふうではなかった。
  それは、青年が未だ生きているという意味だ。絶望を感じるほどに生きているという事だ。
  全てを吐き出し終えたのか、サンダウンを此処まで導いた黒の剣は、それっきり、輝きを急速に
 失っていった。後に残ったのは、ただ黒いだけの、それ以外は何の変哲もない剣だった。





  銀の槍





  名前も知らない勇者が残していった剣は、おそらく一番最後にその刀身に映したものを浮かび上
 がらせ終えると、もはや何もサンダウンに告げようとしない。
  白濁した、今や何も成す事のない不毛のルクレチアで、それでも足掻いた痕だけでも成す事は出
 来たかつてを見せたのは、やはりこの剣の持ち主が、僅かでもこの国の行く先を思いやっていたか
 らだろうか。
  思えば、あの亡者達の思念が浮き上がったのも、勇者の残した剣の力によるところが大きかった
 のかもしれない。
  いつか、ルクレチアが破綻する事を、薄々と感じながら。もしかしたらそこで惑う者がいるかも
 しれないと思い、黒の剣を残したのか。
  むろん、元々はルクレチアの不愉快な因習を断ち切るのが目的だったのだろうが、これほどまで
 に強い力を残していったのは、やはり自らでも龍の血脈を断ち切る事が困難であると分かっていた
 からか。断ち切るには、龍に毒されたルクレチアごと、破滅させるしかないと感じていたのか。
  しかしそれでも龍は逃げおおせ、サンダウンの中で息を潜めている。
  今から起こる出来事は、龍に止めを刺す事ではなく、龍の血に翻弄され続けた国が、何も知らな
 い青年の命を最後に潰える瞬間だ。
  そこまで、剣の持ち主は予想していただろうか。
  もしかしたら、とサンダウンは銃を掲げながら思う。もしかしたら、この場で死ぬのは自分であ
 るべきなのかもしれない、と。黒の剣は本当は、サンダウンの心臓で息を殺している龍を殺す為に
 存在しているのではないか。
  目の前の魔王――いや青年、いやオルステッドというのだったか――が言ったように、新たな魔
 王の力を以てして、人間を凍り付かせる龍の心臓を滅ぼそうというのが、目的なのではないか。
  だとしたら、サンダウンを此処に呼び寄せたのも、実は目の前の青年ではなく、偉大なる力を持
 った勇者であると分かるのだが。そしてそうだとしたら、自分以外の人間もまた、やはり氷の心臓
 を延々と持ち続けてきた者達だという事になる。サンダウンの心臓が、また誰か別の者の心臓に噛
 みついたのだ、と。
  サンダウンは、不意に腹の底が完全に冷え込んだ気がした。
  氷の心臓が脈打った所為ではない。自分の心臓が、この先もずっと誰かの心臓へと移行している
 という事実に、受け入れ難いものを感じたのだ。
  それはつまり、サンダウンの心臓に誰も止めを刺さなかったというのと同義だ。
  サンダウンの前に、氷の心臓を撃ち抜く勇者が現れなかったと。
  もしもそうだとしたら、だからこの魔王の目の前にサンダウンが呼ばれたのだとしたら、サンダ
 ウンはそれを悉く跳ね除けなくてはならない。例えそれが、龍の呪縛を引き延ばす事になろうとも、
 サンダウンには関係のない話だ。
  サンダウンは、こんな魔王に心臓をくれてやるわけにはいかない。
  魔王を斃すのは、いつの時代であろうとも勇者でなくてはならない。オルステッドがかつて勇者
 を名乗っていたのだとしても、勇者としての素質があるのだとしても、サンダウンの為の勇者では、
 決して、ない。
  サンダウンの心臓を撃ち抜く勇者は、こんな白濁したくすんだ不毛の世界にはいない。
  肩越しに満天と乾いた砂塵を背負う、あの世界で今も笑っているはずだ。
  サンダウンは、銃のシリンダを回した。カチャリ、と聞きなれた乾いた音がした。真鍮色の銃口
 が、鉛の弾を吐き出す準備が出来たのだ。保安官であった頃からサンダウンと共にいたピースメー
 カーは、もうその名を示す仕事はしなくなって久しい。だが、少なくとも今は、サンダウンの心臓
 が勇者以外の何者かに行き渡るという、最大の過ちを正そうとしている。

 「オルステッド。」

  サンダウンは、最後に一言、もはや誰も呼ばなくなった名前を呼ぶ。亡者達は吐き捨てていたが、
 それは黒の剣が引き摺りだした過去の残影だ。今現在、彼の名を呼ぶ者はいない。そして、オルス
 テッドもまた、己の名に反応しなかった。
  浮き出た血管を走らせる肉色の翼は、彼の名前を遥か彼方に吹き飛ばしてしまったのだろうか。
 それとも、赤子の姿である彼は、名前を付けられる前に還ってしまったのか。
  いずれにせよ、オルステッドが既にオルステッドという名前を聞き届ける事はないのだ。
  哀れな赤ん坊に、けれどもサンダウンはやはり、心臓をくれてやるつもりはなかった。赤ん坊が
 どれだけ泣き喚こうが、サンダウンは心臓を与えるつもりはない。例え、サンダウンが護るべきで
 あった人々であったとしても。 
  サンダウンを殺すのは、たった一人で魔王に挑んでくる、勇者だけだ。
  だから、オルステッドがサンダウンを殺すという、新しい伝説が始まる事はない。
  勇者と魔王を生み出したルクレチアは、魔王が、伝承から外れたところで生み出された魔王を撃
 ち殺すという物語で、終幕を迎える。
  魔を祓うのは、銀であるべきなのだが。
  ピースメーカーの引き金を、躊躇いなく引いたサンダウンは、ふつ、と鉛玉が魔王の額を躊躇う
 事無く貫いたのを見た。
  銀の槍でも炎の剣でもなく、ただの鉛に撃ち落された魔王は、どれほど無念であっただろうか。
 いや、オルステッドの様子を見るに、むしろ無念も何も感じなかったのではないだろうか。そんな、
 恐怖も何も知らぬ赤子として、彼は最期を迎えたのだ。絶望も、もはや遠い彼方に忘れていったの
 かもしれない。
  あまりにも呆気なく崩れ落ちた赤ん坊に、サンダウンは近づかなかった。ごろりと転がったその
 身体は、やはり醜い肉色の羽を周りに飛び散らせていて、死臭がしない事が不思議なほどだった。
 むしろ、ハゲワシか何かに啄ばまれたほうが、おぞましさも薄れたかもしれない。
  ぴくりとも動かぬ身体は、静寂そのものだった。その身体から、元の世界に帰れる導が浮かび上
 がる様子もなく、世界もただ白いままだった。
  サンダウンは、ぼんやりとそれはそうかもしれない、と思う。魔王が魔王を斃したのだから、世
 界が元に戻るわけもない。醜いものが醜いものを打ち砕いても世界は醜く、弱いものが弱いものを
 斃しても、強さが得られるわけでもない。所詮、これは底辺での罵り合いでしかないのだ。
  は、と白い息を吐く。
  龍の嘲りが、今になって聞こえてきそうだ。それとも、これは龍の心臓を持つ人間を、この不毛
 の地に閉じ込める算段だったのか。
  なす術なく立ち尽くすサンダウンに、ひっそりと答えたのは無数の足音だった。置き去りにした
 子供達のものではない。足音はサンダウンのすぐ近く、地面に倒れた黒い剣から聞こえる。
  はっとして黒の刃を覗き込めば、そこには幾つもの足音が駆け巡っていた。激しく罵る人の声と
 遥か昔の、何処かの山の中が。

 『龍を探せ!龍を殺して、この地を我らの地とするのだ!』

  それは、一番最初の魔王の時代。龍を探せと叫ぶのは、その時代の勇者か。いや、発言から考え
 るに、一番最初のルクレチア国王か。
  ならばこの国は、龍を殺して造られた国だと。
  人々の怒声に、如何なる獣でも発し得ない、鋭く低い地鳴りのような唸り声が湧き上がる。剣の
 中を、激しい黒の翼が通り過ぎる。一番最初の、魔王。龍。
  恨みと呪いの籠った声で、人々を薙ぎ払う。ただし、声は血に塗れていた。
  それらの戦火にも似た声高さが通り過ぎると、再びの静寂が戻った。いや、剣の中からは、長靴
 の鋲を踏み締める硬い音が響いている。それは、サンダウンの知っている者の足音に良く似ていて。

 『ああ、こんなところにまで逃げてたのか、あんたは。』

  その声に、背中が粟立った。
  黒の剣の、きっと一番最初の持ち主だろう。だが、その声は。姿は、刀身の中が暗すぎて、良く
 見えない。何処かで揺れる松明で、背の高い影が不思議な陰影を纏って立っている。
  答えたのは憎しみの籠った唸り声だったが、対する声は小さく笑っただけだった。

 『この俺様が、そんなのにびびるとでも思ってんのか。あんたが蹴散らした奴らは、今頃ちりぢり
  になって小便垂れながら隠れてるだろうが。あんたを殺すって息巻いてた、あの将軍は、心臓が
  凍り付いちまったみたいだし。』

  実際にな、と声が少し困ったような色を出す。
  あんたの命がけの呪いは、あの将軍の心臓を凍り付かせちまった。

 『この国の人間全員を、どうしようもない化け物に変える呪いだ。一時の人間離れした力と引き換
  えに。おかげであんたも、そう長くは生きられねぇんだろう。心臓から流れる血で、相手の心臓
  を染め上げるんだから。』

  最初の魔王は、心臓を奪われたのではなかった。
  ただ、サンダウンに対してそうしたように、心臓の血を、そこらじゅうにばら撒いた。ただし、
 それは呪いをかけた本人の命を削り、しかも本人でも解く事が出来ない。例え、後悔したとしても。
  刀身の中で、するりと人影が身体をずらした。その向こう側から、爛々と煌めく双眸がサンダウ
 ンを睨み付ける。痛めつけられた獣の、激しいほどの怒りを伴う眼差しだった。その眼差しが、次
 の瞬間、緩んだ。

 『さあ、どっかに行っちまえ。』

  野良犬を放り出すような口調だった。

 『龍とやり合えるっていうから来てみたけど、手負いの相手を打ち取るのは趣味じゃねぇ。さっさ
  と行っちまいな。』

    狼狽えたような咆哮が聞こえた。
  それに対して、もう素っ気なさすぎる声が聞こえた。

 『死にたがりを相手にするのも趣味じゃねぇんだ。どうしても俺に相手になってほしけりゃ、精々
  他の誰かに打ち取られない事だな。そしたら、また打ち取りに行ってやるさ。』

  羽ばたき。龍が嘶き、煌めく眼が一つ瞬いた。その瞬きの間に、龍は一気に飛び込み距離を詰め、
 巨大な鏡のような眼で剣の中は一杯になる。
  ぶつかる。
  思うと同時に、黒の剣は粉々に砕け散った。硝子が砕け散るような、細く繊細な、長く尾を引く
 音が鳴り響く。遠くまで届く鐘のような響きの中、鋭い誰何があった。

 『そこで別の窓から見てんのは誰だ。誰だか知らねぇが、てめぇもさっさと自分の位置に戻れ。』

  砕け散る刃の中、振り返りこちらを睨み付ける人影があった。顔は暗くて分からない。ただ、そ
 の眼が。
  思わず、叫びそうになった。いや、叫んだ。



 「なんだよ。」



  叫んだ声に返答があって、眼を見開く。
  見開いた眼に、満天の青空と乾いた砂塵を肩越しに背負った、真っ黒な銃口がぎらりと光り、突
 きつけられていた。