鬱蒼と茂る木々を見上げれば、梢の隙間から空が見える。その空はやはり変わることなく灰色で、
 動かない雲に覆われているかのようだ。
  僅かにも動かない梢と葉を見る限り、もしかしたらこの世界では時が止まっているのではないか、
 そんな考えが生まれてくる。事実、この世界には風一つ吹かないし、本来あるはずの太陽も、勿論
 星の光なども見えはしない。故に、地に落ちる陰も同じ場所に留まり続けている。
  時を告げるはずの存在が、悉く無視されている世界では、一体いつから此処にいたのかを考える
 のも困難だ。
  懐中時計でも持ってきていたなら、とサンダウンはとある賞金稼ぎが銀の懐中時計を懐から取り
 出して、繊細な細工の彫ってある蓋を同じくらい繊細な指先でなぞっていた事を思い出す。
  しかし、いつも当然のように自分の前に現れてくる賞金稼ぎは、流石にこの世界にまではやって
 来れないし、また仮に彼の懐中時計があったとしても、その針が動いているかどうかは甚だ疑問だ
 った。
  生命がいるかどうかも怪しい木々からは、やはり微かな揺らぎも見いだせないからだ。
  けれども、確かに生き物がいるのだという事を主張するように、何処か遠くから、何かの鳴き声
 が響き渡った。




  迷いの森





 「アーー、ァー―ル、ァルティー――」     奇妙な、声だ。   長く尾を引くように続く声は、金属が擦り合わされる時に響く音よりも高く、それと同じくらい
 に不快な色を耳奥に残す。 
  甲高い、鳥とも獣ともつかぬ鳴き声を聞きながら、サンダウンは森の中へと分け入った。
  アーアー、と続く鳴き声に、警戒心が起きないはずがないのだが、そもそも濁った世界そのもも
 が警戒色そのものであるのだから、これ以上警戒を抱きようがなかった。それに、逃げ出す為には
 如何に危険な音が鳴り響いた場所であろうとも、行かねばならない場所もあるのだ。
  微かに勾配のある森の中をうろつきながら、これは森と言うよりも山と言うべきだと、どうでも
 良い事を思いついた。
  見渡す限り木と背の低い草ばかりのそこは、ただ、山と言うには少しばかり小さい。ふらりと歩
 き回れば、ものの数十分で一周できてしまいそうな規模だ。遠目に見れば、山だと思うのかもしれ
 ないが、それほどは高くないだろうと思う。
  アメリカ西部の荒野から眺めた、シエラネバダ山脈のような、切り立った鋭さはない。この山を
 越える事には、本来ならば人食いをせねばらならぬほどの労力はないはずだ。
  ただ、遠く近くで響く声が。
  まるでこちらを窺うかのように、つかず離れずに追いかけてくる。近づいたと思ったら、遠ざか
 る。偶然ではない。遠くでも近くでも、それはサンダウンの周りで鳴り響いている。
  気配がないのでいないと思っていたが、確かにこの世界にも、自分以外の生命がいるのだ。先程
 見た子供達以外にも。
  ただし、今サンダウンの周りにいる生命は、子供達のように人間の姿さえもしていないのかもし
 れない。
  ガサガサと、この世界に辿り着いてようやく自分が立てる音以外の音を聞いた。そして、動かな
 いはずの梢が揺れる様も。
  だが、この鳴き声と木々の揺れは、どう考えても人間ではない。
  鳥か獣。
  そう思いたいところだが、普通の鳥や獣が、人間相手にこんなふうに窺いながら近づいてくるだ
 ろうか。大概の鳥獣は人間を見れば逃げ出す。勿論、狼などは群れて人間を襲う事もあるだろうが、
 狼は木々に登ったりはしない。
  サンダウンはアメリカ西部の荒野から少し離れた場所にある、深い森を思い出した。そこにはジ
 ャガーが住み着いており、それは梢の陰に潜み、獲物に襲い掛かるのだ。時には人間さえも犠牲に
 なった事があり、皆で撃ち落しに行った事がある。
  それに類する物か、と思った。
  だが、それならば。
  徐々に近づいてくる、甲高い声。
  もしも獲物を狙うジャガーならば、こんな声を立てながら近づいて来たりはしない。彼らは、木
 陰に潜んで獲物を襲うのだから、声など上げるはずもない。息をひそめてじっとしているのが普通
 だ。
  では、この音は。
  サンダウンの知り得る限りの動物ではないという事だ。
  少なくとも、アメリカにはこんなふうに近づいてくる生物はない。
  そろり、と腰の革のベルトにある古びたホルスターに手を伸ばす。そこではいつもと同じように、
 皮膚に馴染んだ愛銃の冷たい真鍮の手触りがある。耳だけで相手の距離を測りながら、いつでも銃
 を引き抜けるような形で、その場に立ち止まった。
  サンダウンが警戒した事に相手も気づいたのだろうか。梢を揺らして近づく音が途絶えた。甲高
 い声も。
  ただ、気配だけが。
  ないと思っていたけれども、僅かにだが気配が伝わってくる。気配と言うか、相手の呼吸と言う
 か。
  それは今にも、首筋に呼気がかかりそうなほど。
  転瞬、サンダウンは振り返り、同時に顔の前に銃を掲げる。
  その刹那、引き金を引こうとしていた指先が止まった。

 「アー―、アール、ティィィー―ァァア――!」

  顔に冷たい、本当に木枯らしかと思うほどに冷たい呼気がかかる。凍えそうな吐息は大きく、そ
 れと共に吐き出された声も耳鳴りするほどに巨大だった。
  振り返ったそこには、眼前今にも迫ろうとする顔があった。
  それだけならば、サンダウンの動きが一瞬と雖も鈍ったりはしない。ただ、眼前に迫りくるその
 顔が。
  人間の皮膚と肉を削り落とした、所謂骸骨めいた顔をしており、にも拘らず前身は毛むくじゃら
 という奇怪な姿だったのだ。あからさまに人間離れした姿に、サンダウンはけれども眼を少し見開
 いたが、その瞬間が過ぎ去った直後には、引き金を引いている。
  こちらの喉笛に食いつこうとでも言うのか、唇もなにもない、ただ牙だけが並んだ口を外れんば
 かりに広げた顔に、サンダウンは躊躇なく引き金を引いた。
  それは、サンダウンがあっという間に驚愕やらを飲み込んだ事に気が付いたのか、今にも噛みつ
 こうと迫らせていた顔を、銃声よりも僅かに早く逸らせた。避け切る事は出来なかったのか、毛の
 生えた頤辺りから、赤い血を線引かせていたが。
  また、サンダウンが簡単には食い千切れない相手だと悟ったのか、銃声に驚いたのか、やせ細っ
 た毛むくじゃらの身を翻し、素早く跳ねるように木々の深まる奥へと駆け去っていく。

 「アー、ァール、アァァーー!」

  叫ぶ声は、あちこちに木霊した。
  今までざわつきもしなかった空気が、それによって流れを生み出したかのようだ。微かな風が、
 それが駆け去って行った方向に向けて、流れ込んでいくような感覚を生み出す。
  サンダウンは銃を片手に、そちらへと駆けていく。
  別に流れが生まれたからではない。ただ、それを出来る限り今のうちに仕留めた方が良いという
 考えからだ。
  しかし、逃げていくそれの足は速い。
  地面を跳ね、時には木の枝にまで飛び上がり、梢を揺らしながら木と木の間を飛び移る。まるで
 猿だ。けれども猿というには大きい上に、猿よりも遥かに二足歩行をしている。両の脚で歩く様は、
 人間なのだ。
  では、一体あれはなんなのか。
  けれどもそれを考える必要は、サンダウンにはない。サンダウンは、自分に危害を加えようとし
 たものを、撃ち落すだけだ。逃げていくそれは、確かにサンダウンに対して悪意とも敵意ともつか
 ぬ、非好意的な気配を孕んでいた。
  と、不意に流れが止まる。
  あの、耳障りな鳴き声も何処かに消えてしまった。
  そしてサンダウンは、はっとして立ち止まる。
  あの猿とも人ともつかない化け物を追いかけるうちに、森を抜けてしまった。どうやら、小さな
 山の頂上にまで辿り着いてしまったようである。
  そこだけぽっかりと木の植わっていない場所には、もはや誰の気配も漂っていなかった。ざわめ
 く音も何処かに通り過ぎ去ってしまっており、何処に行ったのかも分からない。耳を澄ませばあの
 不快な鳴き声が、また聞こえてくるかもしれないが。
  けれども、何にせよ遠く遠くから聞こえてくるに違いなかった。あれは、サンダウンを恐れてい
 る。すぐには襲い掛かってこないだろう。
  ふっと短く息を吐いて、サンダウンは手にしていた真鍮色に煌めく銃をホルスターに仕舞う。た
 だし、すぐに取り出せるように、留め金は外されたままだが。
  銃を手から離したところで、ようやく周囲を見渡す余裕ができた。
  ぽっかりと開いた広場。
  その中央に、深く突き立てられたものがある。
  光がないにも拘らず、冷ややかに黒光りして、地面を穿っている。それだけは、白い視界にも濁
 っていない。
  一振りの剣だった。