息をするたびに、呼気は白く、視界に放たれる。身体は内々から冷え込んで、指先には既に熱の
 感覚がない。けれども銃の金属的な滑らかさはしっかりと分かるし、指が動かないという事もない
 のだから、不思議な事だ。
  眼を見開く鬱金色の少年の前で、サンダウンはただ白い息を吐く。
  少年は背中に負う肉色の翼を、何度か羽ばたかせてこちらを威嚇しているようだが、サンダウン
 はと言えば、手の中にある銃を掲げただけで、それ以外に特に変化はない。魔王となったからと言
 って、姿形を変える必要はサンダウンにない。
  心臓を凍てつかせ、呼気を白くするサンダウンの前で、自らの力で魔王となったのだと自負して
 いた少年は、更にその姿を変貌させようとしている。肉色の翼が徐々に大きくなっているように見
 えたが、それは違う。翼が大きくなっているのではなく、少年の姿が縮んでいっているのだ。
  幼い顔に大人が身に着ける甲冑をつけた身体は、甲冑が脱げ落ちるほどに縮み、顔立ちも少年か
 ら幼児に、そして遂には赤ん坊へと変化していく。
  ただし、顔は酷く凶悪だ。
  生まれたばかりの、何も知らぬ赤ん坊の顔ではなく、ひたすらに敵意を漲らせている、悪魔のよ
 うな顔をしている。





  氷の心臓





 「……わざわざ、姿を変えたのは、何故だ?」

  内臓をぶちまけたような翼を背負う赤子に、サンダウンは白い息を吐きながら問うた。
  翼を背負う赤子とだけ言えば天使のようだが、サンダウンの前にいるそれは、天使というにはあ
 まりにもおぞましい。悪魔だ、と言い切ってしまったほうが、いっそ楽になれるような、そんな凶
 悪な代物と化している。
  わざわざ、おぞましい形を選んだのは、何故か。
  自分こそが新たな魔王であると言い放った少年は、何故その姿のままで魔王である事を良しとし
 なかったのか。
  そう言えば、サンダウンのいた世界でも、わざわざ元の姿を捨てて人間となった馬がいた。それ
 は力をなくすと同時に、元の馬に戻ったが。
  もしや、その変貌は、己が力を誇示する為か。
  サンダウンは眉を顰めて、果たしてこちらの言葉が分かっているのかも怪しい容貌の魔王を見る。
 たった今までサンダウンと会話していたのだから、サンダウンの言葉は勿論分かっているだろうと
 思う。けれども、それ以上に見た目が醜悪すぎて、よもや増幅しすぎた力の所為で、こちらの言葉
 が理解できぬほどに暴走しているのではないか、とも思う。

 「まさか、その姿にならねば魔王として戦えんという事もないだろう。」

  戦いやすい骨格に、体型に変貌したのだと言うのなら、分かる。
  けれども赤子の姿に巨大な羽を背負っただけの姿が、戦いに有利であるとは、とてもではないが
 思えない。
  では、何故姿を変えたのか。
  やはり、己の力を誇示する為か。延々と、自分こそが魔王だと、サンダウンのように龍の心臓を
 を宿しただけの魔王になど負けるはずがないと言っていた。それを証明しようという意気込みが、
 この姿なのか。
  それとも自負していた力に飲み込まれて、そのような奇妙な姿形になっただけなのか。
  或いは。

 「自分の姿が、どのようなものなのか、分からなくなったか。」

  ひやりとしたものを腹の底に抱えながら、サンダウンは聞こえているかどうかも分からぬ赤子に
 問いかけた。
  返事はない。
  だが、それが真実であるような気がしてきた。

 「既に、この国にはお前を知る者は誰一人としていないからな。」

  少年が、全員殺してしまったから。写真などがある時代ではない。絵にその姿が残せるのは、名
 のある貴族だけだ。無名の、ようよう勇者に成り上がったばかりの少年の姿が、歴史に残されてい
 るわけがない。
  少年の姿を知る者は、誰もいないのだ。
  そもそも、サンダウンとて、少年の姿を見てはいるが、それさえも実は違う姿なのだと言われて
 しまえば、もう元の姿は知らないのだ。名前は、亡者の残した思いが口々に呟いていたので、分か
 るが。

 「なるほど、お前を見てもお前であると判別できる者はいないわけだ。お前の姿を見て、お前の名
  を呼ぶ者はいない。だから、」

  いや、それとも。だから。
  サンダウンは赤子の心臓を指差す。
  サンダウンも、少年を見てから、少年の名を呼んでいない。少年は、己の名を与えられる姿形を
 探して、変貌し続けているのだろうか。
  思えば、これまでの魔王もそうだったのかもしれない。元々あった名前は、魔王殺しの時に勇者
 という言葉に置き換えられてしまい、その後はルクレチア国王と変貌し、遂には魔王と呼ばれる。
 魔王山に閉じ込められた後は、誰一人として声もかけなかっただろう。
  氷の心臓。サンダウンの中で今も凍える鼓動を打つそれだけが、魔王の条件ではなかったのかも
 しれない。例え魔王の力を宿したとしても、化け物には成り下がらない理由は、サンダウンの中に
 元々いた魔王の所為でもないのかもしれない。

 「お前は、もう、自分の姿などどうでも良いのか。」

  赤子の身体から、再び人間の姿に戻ろうとしない少年に、サンダウンは言った。
  元の姿など、結局は誰も知らず誰も呼ばず、そもそも誰からも恨まれ憎まれたものだから、もう
 いらない、と。
  力の誇示でもなく、力に飲み込まれたのではなく、己の元の姿が分からないのではなく。
  いや、それら全てでもあるのだろうが、それ以上に、勇者に持ち上げられ、魔王と罵られた身体
 を捨てたいのか。それが出来るなら、こんな醜悪な姿でも良い、と。
  歴代の魔王達は、己の名を失い、故に魔王に乗っ取られて化け物と呼ばれる姿に成り下がった。
  けれども、この少年は、自ら化け物に成り下がったのだ。

 「哀れだな。」

  真鍮の銃口を少年の胸にひたりと合わせる。
  彼は、勇者と呼ばれたあと魔王と罵られ、そして歴代の魔王を蔑んだ。しかし歴代の魔王と同じ
 ように、結局は名もない化け物に、自ら望んで成り下がった。
  魔王という名前は、名前のないその化け物を、都合の良い名前で呼んだだけの代物だ。正体は化
 け物でも何でもない。名前と姿を失った人間だ。ただ、化け物じみた姿故、人間に討伐されるとい
 うだけだ。
  サンダウンは白い溜め息を吐く。
  だが、魔王であるならば、勇者に打ち取られなくてはならない。それは、有史からの取り決めの
 ようなものだ。勇者ではない者が魔王を殺す事はあってはならない。ただ単純に、人間に討伐され
 るのでは駄目だ。
  ルクレチアでは、それが誤ったやり方で続けられていた。
  自らの憎しみで魔王と化した少年は、勇者を別の世界から呼び出した。
  そしてサンダウンは。

 「私は、そのような自分以外の姿になるつもりはない。」

  例え氷の心臓が身体の中で脈打っていたとしても、化け物に成り下がるつもりない。魔王である
 事に間違いはなくとも、この殻を捨て去るつもりはない。
  腹の中にある魔王が龍の心臓を打ち負かしたのではなく、その思いのほうが強かったから、サン
 ダウンはまだ、魔王が皮膚に現れていないのか。魔王には乗っ取られず、化け物にはなっていない
 のか。

    「私の姿を、知っている者は、まだ、いるからな。」

    サンダウンの姿を知っていて、その名前を呼ぶ者は、まだいるのだ。
  名前を呼ぶ声が、いつかこの氷の心臓を撃ち抜く時を、待っている。それは勇者の血筋でもなく、
 神に選ばれた人間でもなく、ただただ貪欲な人間でなくてはならない。
  彼が、サンダウンの姿を見間違えるという事はないだろう。けれども、確かに彼がサンダウンを
 撃ち抜く為に、サンダウンはサンダウンの姿のままでいなくては。彼が何よりもサンダウンである
 と思っている姿でいて、その時こそ氷の心臓に終を迎えさせる。サンダウンは彼の知るサンダウン
 のままで、白い呼気を止めるのだ。
  その為には、このくすんだ世界を叩き割らなくては。
 
 「その為にも、元の世界に、戻りたいだけだ。」

  抜身の黒刃が、声に呼応するように煌めいた。そこに一瞬、ちらりと鬱金色の髪をした青年が、
 昏い眼をして映り込んだ。