昔、荒野で一人の獣を撃ち抜いた。
  人を喰らう、かつては人間だった獣だ。
  何故、人が獣になったのか、その時は分からなかった。ただ、この世界にはあまりにも色々な事
 がありすぎて、人が道を踏み外す事でさえ些細な出来事の一つでしかない。だから、様々な出来事
 の一つとして、人が獣となる事がないとは言い切れない。
  サンダウンがその時にしったのは、獣になった人間の心臓は、霜を張って氷となるという事だっ
 た。
  そして、今になってようやく、その心臓が何処から来たものなのかが、分かった。
  このルクレチアという国で、延々脈々と続いてきた伝承が、巡り巡って西部の荒野にまで到達し
 たのだ。
  小さな絵本の中にあった、一番最初の魔王であるとされる龍は、勇者によって殺された。だが、
 心臓は勇者の心臓を乗っ取り、今も生き続けている。
  サンダウンの、中で。




  水晶の命





  青い眼で見つめるサンダウンに、少年は一瞬嘲りの表情を顰め、呆けた顔をした。サンダウンの
 言葉の意味が分からなかったのか。サンダウンこそが、ルクレチアの魔王の伝承を受け継いでいる
 という事実が、咄嗟に理解できなかったのか。
  年相応の顔に戻った肉色の羽持つ魔王に、サンダウンは逆にいつもの無表情だった。
  あの日、氷の心臓を持った獣を撃ち抜いた時、その心臓は、銃弾で出来た小さな穴からもはっき
 りと見えるほど、白い煌めきを放っていた。氷が明かりの前に曝しだされた時、あんなふうに光る
 事だろう。
  その鋭い煌めきは、誰もを魅了する光だった。
  宝石のような光物を好む者ならば、一瞬で心を捉えられただろう。金銀に興味のないサンダウン
 でも、それに僅かなりとも気を取られた。
  その時に、既に龍の企みは始まっていたのかもしれない。人の心臓を渡り歩く事でこの世を生き
 る事に適した龍は、己の心臓を如何に魅力的に見せる事で、人に食指を動かすように仄めかしてい
 たのだ。
  サンダウンは、それでも手を伸ばさなかった。伸ばしたつもりはなかった。けれども、死体を動
 かした時、その血はサンダウンに降りかかった。
  心臓を口に運んだわけではない。そんなおぞましい事はしなかった。だが、降りかかった血は、
 じわりじわりとサンダウンの皮膚を侵食していった。
  この塔に閉じ込められた化け物のように肉を喰らったわけでもないのだが、しかしちょうど心臓
 の奥底に深い闇を抱えたサンダウンは、龍の血に馴染みやすかったのかもしれない。日がな増え続
 けるならず者の数に、そしてそれらのほとんどがサンダウンの銃の腕を知ったが故にやって来るの
 だから、腹の底に蟠りが生まれてもおかしくはない。
  サンダウンの本分は、保安官としての本分は、町を人を守る事だ。にも拘らず、意に反して己が
 人々を危険に曝している。守っている人々の視線も、徐々に冷たいものへと変貌していく。いやそ
 れよりも、己が本分と事実との乖離のほうが、サンダウンの心臓に隙間を与える事に一役買った。
  ならず者が集まれば集まるほど、人々は危機に曝される。人々が危機に曝されれば曝されるほど、
 サンダウンの銃の腕は上がっていく。
  もともと、銃の腕は西部随一とまで謳われた事がある。
  けれども、いつしか神がかりめいた――いや、化け物じみていると言われ始めたのは、いつだっ
 たか。思えば、あの獣を撃ち殺してからではないだろうか。あの心臓から流れ出る血に、皮膚を浸
 した時からでは。

 「私の世界の伝承に、」

  西部にもともと住んでいた、先住民族インディオ。仕事柄、彼らと接する機会も多々あった。白
 人は嫌いだが、インディオに無体を働こうとするならず者を撃ち落すサンダウンに対しては、彼ら
 は少しばかり好意的であった。
  人々が化け物じみた、と囁く傍らで、インディオ達はサンダウンの事を驚嘆したような声でこう
 称した。
  何処かで龍の心臓でも手に入れたのではないか。
  奇しくも、それは事実であったようだ。

 「水晶の心臓というものがある。」

  とある龍が持っている心臓。闇に煌めく、美しい心臓。それを手に入れた者は、万能の力を得る
 という。
  何処にでもある、龍の力を語る話だ。

 「先住民族達は、私がその心臓を手に入れたのだろうと、言っていた。」

  冗談交じりではあったが、確かに賞賛を込めて。

 「それで良い気になったか。」

  少年の顔に嘲りが戻る。
  龍の力を手に入れて天にでも舞い昇る心地にでもなったか。ルクレチアの勇者は、皆がそうであ
 った。勇者となり、国王となり、そして一時の栄華を誇る。尤も、最後は魔王となってこの塔に閉
 じ込められるのだが。

 「氷の心臓を水晶とは、つくづく人間とは、めでたいものだ。いや、愚かと言っても過言ではない。
  それを口にして、力を得て喜ぶ。所詮それは自分の力ではない。」

  私のように、と少年は胸に手を当てて、己を誇示する。

 「私の用に、自らの力で魔王になったわけでもない。それにも拘わらず、力を得たと喜び、最後は
  化け物に成り下がるのだ。そんな奴らが魔王などであるわけがない。」

  魔王とは、自らの意志で、なるものだ。
  少年は、言い切った。
  龍の心臓などに頼ったが末の路になるものではない。絶望と憤怒と悲憤の淵にあった者のみが、
 苦い水を飲み続けた者だけがなる路だ。

 「どうやら、私は選択を間違えたようだ。お前のような龍の力で英雄となったものを呼ぶなど。ま
  して、この醜い土地の伝承を受け継いでいるなど。まあ良い。これ以上この地の醜悪が出ぬよう、
  此処で私の手によって朽ち果てるが良い。」

  今にも血が滴りそうな肉色の羽が、大きく羽ばたいた。その中心で、鬱金の髪が揺れて少年が剣
 を抜く。白銀の、この場にあるのが不思議なほど、眩い剣だった。
  サンダウンは少年を見据えた。吐き捨てる声が、冷えている。

 「だから、お前を斃すのは私ではないと最初から言っているだろう。」

  まるで少年の剣と対をなすかのように黒い剣。その剣の持ち主こそが、その首級を上げるはずだ
 った。だが、この地の、己で己の不幸を呼ぶ人々の生き様に、彼は背を向けて何処かに行ってしま
 った。黒の剣だけを置いて。
  人々の生き様が変わらぬ限り、勇者がいても無駄と判断したのかもしれない。或いは、それさえ
 なければ、黒の剣の封印だけで浄化が出来る程度の魔王であったのか。

   「そして、私を斃すのも、お前ではない。」
 「龍の心臓がなければ、愚かな人間の一人でしかないお前を、私が斃せないと?」
 「ああ、無理だ。」

  氷のような声で、言い切る。

 「お前は、私がまだ化け物になっていない事を、疑問に思わないのか?」

  息が、白い。
  心臓の裏側が冷え込んでいる。
  心臓が、氷に置き換わる瞬間。

 「先住民族の伝承では、水晶の心臓を手に入れたのは二人の英雄だった。しかし彼らは万能の力に
  飽いて、心臓を手放す。つまり、龍の心臓を手に入れた者の中には、狂わずに龍の心臓を手放す
  事が出来る者もいるのだ、と。」

  それは、心臓が龍のものに奪われるのではなく、龍の心臓が元の心臓に張り付くようなもの。龍
 が牙を剥き出しにしながらも、服従している。だから、いらぬと言えば、消え去るだろう。
  元々、サンダウンの中にはサンダウンを飲み込もうとする魔王が口をぽっかりと開いて待ってい
 る。氷の獣を撃ち抜く前から、人々の眼差しが冷え込んだ時から、培われてきた魔王だ。その魔王
 は、乗り込んできた龍の力を逆に飲み込んでしまった。
  そして、逆に必要な時だけ元の心臓に対して龍の心臓を置き換えて、龍の力を引き摺り出す。
  サンダウンの中に元々いた魔王が、龍を引き摺りながら大口を開ける瞬間。

 「もう一度問う。お前は、魔王が魔王を斃す物語を望んでいるのか。」