耳鳴りのような羽ばたきが聞こえた。
  悪魔の彫像のように佇立していた岩肌がめりめりと押し開かれ、その中から肉色の塊が現れる。
  その色合いから、サンダウンは最初、それが肉の塊なのだと思った。異様に膨らんだ、皮を剥い
 で血抜きした後の、何かの塊。ざわざわと蠢く様子からも、内臓が鼓動しているのだと思った。
  だが、それが肉の塊ではなく、ぶよぶよとした羽毛であると分かったのは、そこから棘のように
 肉の色をした羽が飛び散ったからだ。
  ぶわり、と震えたかと思うと息を吸い込んだ肺のように膨らみ、一気に解ける。
  翼が、広がったのだ。
  広がった肉のような翼の中央に、鬱金色の煌めきが見えた。そこにある顔は、まだまだ若い。い
 っそ、少年の匂いの抜けきっていない顔立ちの中で、眼だけが異様に老人のように淀んでいた。ま
 るで、この世界の色のように。
  もしかしたら、この世界は少年の淀んだ眼をそのまま透かして見ているから、こんなふうにくす
 んでいるのかもしれない。 
  有り得ない考えであったが、非常識な概念ばかりに囚われた世界では、有り得る事のように思え
 た。
  そして非常識な世界の非常識な国で、非常識な伝承に縛られた青年は、唯一この国でも許された、
 勇者の存在を此処に出せと喚いた。




  悠久の約定





  肉色の翼の中央で、少年の老人めいた眼差しが瞬く。何もを悟ったような少年は、暗い声でけれ
 ども厳かに言う。

 「待っていたぞ……。勝者であるお前は私を斃しにきたのだろう。お前は敗者である者達を一度と
  して顧みぬ英雄だ。そして、私も敗者の一人として、顧みる事のない塵芥と同列でしかないと刻
  み込むために、此処にやって来たのだな。」

  だが、と開かれた口の中は真っ赤だった。真っ赤な中、白い牙が夜叉のように剥き出しになる。
 笑ったのだ。

 「だが、そうはいかぬ。お前達の思い通りには、もう、いかぬ。」

  これまで、この国は勇者を魔王として処理してきた。勝者を敗者として挿げ替えてきた。それが
 今またなされようとしている。ならば、英雄であるサンダウンも敗者の座に引き摺り下ろされる事
 も、この国ではいとも容易く行われるはず。
  しかし、そんな少年の理論に、サンダウンは顔を顰めた。
  ルクレチアという国が、勇者を祭り上げて、しかし最終的には魔王に乗っ取られた彼らを捨てて
 新たな勇者にそれを殺させてきたのは、サンダウンも重々理解した。だが、それはあくまで氷の心
 臓を端にした、勇者と魔王の世代交代でしかない。
  その枠組みの中にサンダウンは入らぬし、そもそも目の前にいる少年は、氷の心臓を持った魔王
 ではない。 
  すると、少年はますます笑みを深めた。それに伴い、顔つきは更におぞましくなる。

 「言っているだろう。これからの魔王の伝承は、私が作る、と。」

  勇者が魔王を殺して目出度し目出度し。
  そんな話は、既に灰と化した。いや、ルクレチアではそんなありふれた物語でさえ、元々紡ぐ事
 が出来なかった。
  魔王の心臓を食した勇者が、再び魔王となる。これがルクレチアの物語だ。
  だが、その物語でさえ、覆すと目の前の少年は言い放っている。氷の心臓がなくとも魔王になっ
 てのけた少年は、故に魔王が勇者を殺す物語を紡ぎ上げると声を大にして叫んでいる。

 「………勇者が引き摺り下ろされ、魔王と化したのは、結局はこの国の物語と同じなのに、か?」 

  サンダウンは、低く問いかけた。
  氷の心臓がないというだけで、結局は少年の末路はルクレチアの物語と同じだ。それに、少年は
 サンダウンを勇者だと言っているが、それは大きな間違いだ。

 「私は、勇者ではない。」

  魔王と対峙するのは勇者でなくてはならない。
  それは、いつの時代でも変わらない。そして少年が新たに紡ぐ物語にも、勇者は必要だという。
 だが、サンダウンは生憎と、勇者ではない。
  むしろ―――
  過去に見た氷の心臓が、荒野で斃れた獣の心臓が脳裏の隅にちらつくのを見ながら、サンダウン
 は、もう一度、言った。

 「私は勇者ではない。お前が探している勇者は、とうの昔にこの山を訪れ、そしてこの山を閉ざし
  て去った。」
 「……ハッシュの事か?」

  少年が、一瞬怪訝そうな色を灯し、転瞬、嘲るような声を出した。心底、相手を軽蔑している声
 だった。

 「あの、魔王を殺しておきながら、けれども勇者にならなかった男の事か?皆は勇者だと言ってい
  たが、だが、そうではなかった。あの男は、勇者となる事で魔王化する事を恐れ、そのくせ私が
  勇者になる事を止めようともしなかった男だ。」

  いや、確かに最初は魔王山に行く事を渋っていたが、と、少年はちらりと遠くを見る。しかしそ
 れも保身でしかなかった、と。魔王山にあるであろう、自分が殺した魔王の心臓を見られるのが恐
 ろしかったのだ。もしも放置された魔王の心臓が見つかれば、皆に、己が勇者ではない事がばれて
 しまう。それを恐れて、人目をはばかるようにして生きてきたのに。

 「愚かだったな、あの男。そんな事しなくても、国王だとか、王女だとかには、勇者でない事は分
  かっていたのに。まあ、国王にしてみれば、自分の代に勇者なんぞ現れたら、自分の座を奪われ
  るから、ハッシュが勇者にならないに越した事はなかったんだろう。」

  ならば、そこで悪しき慣習を絶てなかったのか、と思う。勇者が現れる事を恐れるならば、己の
 座を危うくする男が現れる事を恐れるならば、魔王と勇者の世代交代など、そこで止めてしまえば
 良かったのだ。
  実際、武闘大会で勇者を決めるなど、途中まで上手くいっていたではないか。
  本当の――ルクレチアに縛られたおぞましい勇者などではなく――勇者がおらずとも、そのまま
 いけば、慣習など断ち切れたはず。
  魔王山の扉は閉じられていたのだから、何もしなければ、静かに氷の心臓も地面に埋没した事だ
 ろう。
  だが、実際はそうはならなかった。

 「私が言っている勇者は、その男ではない。」

  少年が嘲る男は、きっと、あの騎士だ。亡者となって暗い道を彷徨っていた男。勇者に断罪され、
 眼の前で黒の剣による山の封印をみた男。

 「お前に対峙すべきだった勇者は、この黒の剣の持ち主だ。」

  今は何も移さぬ黒の刀身を掲げる。

 「やはり、ハッシュだ。その剣はブライオン。ハッシュが魔王山の封印を解くのに使った。」

  サンダウンはその言葉に眉を顰めた。封じられた山を解きはなったのは、あの男だったのだ。断
 罪されても、この国を縛る慣習からは、あの男もまた、逃れられなかったのだ。つくづく、不幸な
 国だ。

 「お前の前に、何人もの男が王女の夫となるべく、この国に来たはずだ。」
 「だが、誰も使命を果たせなかった。」
 「中には、敢えて使命を果たさなかった男もいた。」

  そうか、ブライオンというのか、お前の名は。
  黒の煌めきを見ながら、光の名を与えられた、しかしその名に反して光へと誰も導けぬ剣を見た。
 凶暴にぎらつく光でも、この国の不幸は止められなかったのか。

 「その男の振るうこの剣で、お前は弑されるべきだ。」
 「お前がそうしろ。」

  少年が、勇者ではないサンダウンに、夜叉の牙を見せて命じる。
  だが、サンダウンにはそれが出来ない。しないのではなく、出来ないのだ。勇者ではないから。
 魔王を殺すのは勇者ではなくてはならない。その約定を、サンダウンは果たせない。

 「お前は、氷の心臓の慣習が途絶えていない事を知らないのか。」

  サンダウンが殺した獣。あれは今頃城の渡り廊下で斃れている。あの心臓は、少なくともサンダ
 ウンのいた世界まで、流れてきた。どういう道を辿ったのかは分からない。だが、西部の荒野で、
 同じような獣が、確かにいた。
  魔王と勇者の世代交代は、未だに続いている。
  サンダウンは、あの心臓を、検死後、燃やしたが。
  あの獣の霜の張った氷の心臓。
  あそこから飛び散った血は、サンダウンにも降りかかった。
  英雄の座から引き摺り降ろされた犯罪者の心臓は、今、ひやりと凍り付いている。

 「魔王が魔王を殺す物語が、お前の望みか。」