悪魔の塔に閉じ込められた、最後の一人の娘の手から逃れようと、サンダウンはひた走る。
  ルクレチアという国によって作り出されてきた、哀れな土地は、しかしどう足掻いても清められ
 る気配はない。黒い刃の持ち主が、それを願って入口を閉ざしても、結局は勇者を望んだ者達の望
 みによって再び開かれてしまった。
  静かに身を潜めていた、魔王の肉体を喰らうしかなかった犠牲者達は、今一度心を掻き乱され、
 しかも勇者ではないのに勇者とされた青年は、国民を皆殺しするに至った。
  それもこれも、魔王の心臓を求めたルクレチア国民の所為だった。
  誰か一人でも、勇者とは魔王の心臓を喰らわずともなれるものであると、ルクレチアの王女の婿
 は魔王殺しであるひと用はないのだと、言う事が出来たなら。何処かで、魔王と勇者の輪廻を断ち
 切る事が出来たなら。
  それが、きっとこの黒の刃が封じられたその時なのだろう。だが、その意図は誰にも理解されず、
 魔王殺しの勇者の名を引き継ぐ事を疎んじた騎士でさえ、黒の刃を引き抜く事を止めなかった。い
 やむしろ、進んで引き抜いたのではないか。
  ルクレチアの伝統が己に降りかからぬ事を良い事に。
  だとしたら、やはり。
  男が刀身の中で言い放ったように、やはりこの山は、ルクレチア国民という悪魔が作り上げた塔
 なのだ。




  龍の伝承





  かなりの間、暗いけれども輪郭だけははっきりと見える洞穴の中を進んだ。山の中を歩いている
 のだから、それは坂になっていなくてはおかしいのだが、サンダウンは坂を駆けあがっているとい
 う感じはしない。
  延々と、同じところを巡っているような間違いを犯しているのではないかという疑いは持ってい
 るが。しかし、それならば入口にいつかは行き当たるはずだが、それらしい出口は一度も見えなか
 ったので、同じところを堂々巡りしているという事はないようだ。
  そして、飽きもせずにやはりサンダウンの後を追いかける、最後の娘。
  振り返るつもりはない。振り返らずとも、女の様子は嫌でもわかる。相変わらず、だらだらと体
 液をはしたなく零し、気の抜けた笑い声を上げて、けれども足取りだけはしっかりとこちらに向い
 ているのだ。
  この娘以外にも、何処からか息を潜めているような気配はする。だが、この娘がサンダウンを獲
 物としてい認識している所為だろうか。他の異業がサンダウンに向かってくる事はなかった。この
 娘は、この山の中でも、恐ろしい部類に入るのかもしれない。
  そんな化け物に延々と追いつづけられているサンダウンは、しかし遂に微かな光を見出した。比
 喩表現ではない。サンダウンの視界に、確かな光が映ったのだ。希望の色をしていなかっただけで。
  出口か、それとも長々と歩を進めてきて巡り巡った入口か。
  判断する前に、そこ以外に進むべき場所はなかった。立ち止まれば、空の銃を手にしたサンダウ
 ンに、もはや己が何者かも分からない女が飛び掛かってくる。出るしかない。
  飛び出して、サンダウンは一瞬立ち尽くしそうになった。
  白く淀んだ空が、酷く近くにあった。そして白い淀みに沈んだ森は、遥か下方に追いやられてい
 た。出口だったのだ。魔王山という不名誉な名で呼ばれた、悪魔の塔の頂上に、サンダウンは辿り
 着いていた。
  だが、それらはサンダウンが立ち尽くす原因にはならない。サンダウンが思わず踏鞴を踏んで歩
 む事を躊躇したのは、ぬっと巨大な影が視界を覆うように聳え立っていたからだ。
  人の姿にも見えるそれは、爛々と眼が煌めいている。
しかし、生者ではない。岩肌から突き出した、ただの自然の造形だった。そう、サンダウンは思
った。少なくとも、背後に迫る娘よりか、よほど自然な姿をしていた。
  と、背後から、ぎゃっという悲鳴が聞こえた。娘の声に間違いはなかったが、踏みつぶされた蛙
 でも、もっとまともな声を吐いただろう。魂が削り取られでもしたかのような声は、紛れもなく断
 末魔だった。
  何事かとサンダウンが振り返った時には、娘は大きく仰け反り、かと思うと体液を撒き散らしな
 がら、自らも体液と化して地面に溶け込むところだった。
    情交の後のような、ねっとりとした染みを地面に残しただけで、娘の姿は何処にもない。
  何が、とサンダウンが思うのを読み取ったのか、何処からともなく声が響いた。それは、サンダ
 ウンをこの世界に誘い込んだ、哀れな青年の声だった。そして声は、自然に近いとサンダウンが思
 っていた岩から、確かに響いた。

 「ようこそ、英雄殿。」

  若い朴訥とした、しかし一生の全てを絶望で満たしたのだと言わんばかりの老獪な声。はっきり
 と嘲笑を込めた若い声は、世界に鳴り響くかと思われたが、一方で妙に現実的にサンダウンの耳に
 届いた。
  明らかに、これまでの異形とは違う、まだ己を保っている人間の声だ。
  魔王の死体など、欠片も口にしていないに違いない。

 「君達を、君をこの世界に呼び出したのは他でもない、言うべきことがあるからだ。勝者として君
  臨する君達に、弱者の声が聞こえるのかとね。踏み躙られた者達の、おぞましく醜いと蔑まれた
  我等の事を、どれだけ記憶しているのか、と。」

  けれども、そうやって、まるで己も魔王山に閉じ込められたかのように呟く。
  実際に、魔王山に追い込まれたのかもしれないけれども。しかし、伝承にある魔王ではないだろ
 う。むろん、勇者でもない。

   「我が名は、魔王オディオ。」

  ただの、武闘大会で優勝しただけの青年が、魔王だと告げる様を、どういえばいいのか。

 「…………違うだろう。」

     岩肌の向こう側からの名乗りに、サンダウンはそっと銃に弾を込めながら、即座に否定した。魔
 王なら、さっきサンダウンが撃ち落した。氷の心臓を持つものが、このルクレチアの魔王の条件だ。
 その心臓は、今もルクレチアの城の渡り廊下に転がっているはずだ。
  だから、目の前の岩の中で騙る声が、魔王であるはずがない。
  そしてサンダウンは、きっと彼の名を言い当てる事が出来る。

    「オルステッド。それがお前の名前だな。」

  うわんうわんと辺りに響いていた魔王の声が、全ての余韻も残響も含めて、一斉に止まった。魔
 王を名乗る若者が、微かに身動ぎしたような気配が伝わった。
  亡者達が、口々に恨み辛みを込めて呻いていた名前。
  騎士が、あれは勇者ではないと言い切った若者の名前。
  亡者達のほとんどが、魔王だと喚いた名前。
  しかし、ルクレチア国民の亡者の言は、既に一切の証拠にはならない。魔王と勇者は同一で括ら
 れるものであるとサンダウンは、もう知ってしまっている。魔王を殺せなかったオルステッドは、
 勇者ではない。同時に魔王でもない。ルクレチア国民は、ただ単純に、己にとって都合の悪い物を
 魔王と呼んでいるだけなのだ。彼らの言い分には、信じるに足るものが、何処にもない。

 「お前は魔王を殺してない。魔王殺しでなくては魔王になる事は出来ない。これがお前の国の伝承
  のはず。ならば、お前は勇者にはなれないが、魔王でもない。お前はただ、それら伝承の罪を背
  負わされた、哀れな生贄の一人だ。」

  閉ざすはずだった扉を、再び開くという役割を背負わされた。

 「そしてそれは、お前も分かっていたはず。」

  ルクレチア国民であるならば、その伝承を、曲がりなりにも知っていたのではないか。それとも
 輝かしく彩られた、しかし背後に腐臭のする夢物語を、眼を輝かせて見ていた人間の一人なのか。

 「ああ、知っていたとも。私は知っている。魔王?そんなものは、前々からこの国にはいない事を!」

  岩の向こう側で、魔王を名乗る青年の眼がぎらついたのを感じた。爛々と輝くこの眼は、青年の
 ものなのか。
  魔王など、この国にはいないと叫ぶ青年の声は、血を吐くような色に塗りつぶされている。

 「竜殺しの輝かしい物語が、実は嘘でしかない事を、私は知ってしまったのだ。この国の連中が叫
  ぶ魔王など、昔からいるはずがなかった。魔王は、愚かな国民共が作り上げるのだから。」

  若者が叫んだ。
  魔王などいない、と。国民が魔王を作るのだ、と。一番最初の竜殺しでさえ、なかったのだと喚
 く若者の言葉は、サンダウンは本当の事なのかもしれないと思う。この国の人間は、己に都合の悪
 いものを、そうやって亡きものとしてきたのだ。竜殺しも、ただ一方的な虐殺であった可能性が、
 捨てきれない。
  しかし、一方で青年の言う言葉が、どうもサンダウンの言うとは一致していないような気がする。
  ルクレチア国民が、魔王を作り上げてきたのは事実だが、しかしその意味合いが、どうも異なる。

 「魔王殺しなど、魔王の理由にはなりはしない。私こそが、その伝承に終止符を打つ。」

  勇者と持ち上げられ、魔王山の封印を解いた末に、しかし魔王を殺す事も出来なかった。

 「国民に見捨てられ、友に裏切られ、王女にまで蔑まれた。魔王を作るのは、そういった惰弱者共
  だ。そして私が、その最初の魔王だ。」

  国民に、勇者と祭り上げられ、魔王に貶められた青年は、憎むべき国民の望むがままに生きる事
 を選んだのだ。
  代々受け継がれてきた龍の心臓がなくとも、ルクレチアの国民の恐るべきおぞましさは、もはや
 独りでに魔王を作り上げる事が出来るほどに、膨らんでいた。