黒の刀身に映る姿が消えるよりも先に、サンダウンは身を翻した。
  眼を背けていた事実は、直視すればやはり吐き気がするほどのおぞましさに満ちていた。しかし
 それが分かったところで、今現在の状況が変わるわけではない。
  羽音を零し、体液を垂らしながら近づく七人の女達は、依然としてサンダウンを取り囲むように
 して居る。ゆらりゆらりと身体を揺らしながら、手に何かの肉塊を握り締めて、あはあはと笑って
 いる。
  撃ち落すのは、勿論最終的にはそうするつもりだが、如何せん今は状況が悪い。こちらは一人に
 対してあちらは七人。
  一度の銃声で六人を斃す事は出来るだろう。サンダウンの腰で無言を貫いている真鍮の銃口は、
 六つの鉛玉を咥えているのだ。けれども再装填している間に、最後の一人が飛び掛かってくる。
  何とかして、最後の一人に隙を取られぬようにしなくては。
  それには、この狭い洞穴の入口は不適だった。もっと広い、せめて七人の化け物ともっと距離が
 取れる場所に行かなくては。再装填している間に、最後の一人の爪が届かぬほどに。




  血の脈





  かつて魔女という無辜の罪をつけられた女達は、当時の面影は何処にもなく、あはあはと気の抜
 けた笑い声を上げながら、しかしその足音は早くサンダウンを追いかける。或いは耳には不愉快な
 羽音を鳴らしながら、羽虫のように小刻みな動きで飛ぶ。
  サンダウンは岩の突き出た洞穴を足早に駆けながら、彼女達に最後のひと時を与えられる場所を
 捜す。むろん、サンダウンには彼女達を憐れむ気持ちなど、これっぽっちもない。サンダウンにあ
 るのは、既に化け物と化した彼女達を撃ち殺し、元の世界に戻る事だけだった。
  だから、撃ち殺すその瞬間があるのなら、即座にそうするだろう。
  サンダウンの右手では真鍮色のピースメーカーが無言で銀色の口を閉ざし、左手では黒の刀身が
 未だ獣の眼のようにぎらついていた。
  一匹の、羽虫と化した女が曲線を描きながら、サンダウンの首筋を狙って滑空してきた。
  銃声。
  鉛玉を一つ使い、己の延髄を狙った女を、撃ち落す。背後でぼたりと重く湿気た音がした。女が
 地面に堕ちたのだ。振り返る余裕はない。追いかける女は、あと六人いる。やはり、まだ心臓と思
 い込んだ肉塊を握り締めているのだろうか。
  もしも、他にもこんな女達がいたら。
  サンダウンはひやりと思う。
  一方で、黒い剣を思い、この剣の持ち主は、彼女達を殺さなかったのか、と疑問にも思う。先程
 刀身に映った残滓は、女達を圧倒しながら、けれども女達に剣を振り下ろさなかった。それは、剣
 の持ち主の優しさだったのだろうか。
  ふと、そんな気がした。
  入口の前で見せた残像の最後が、断罪でありながら、一滴、希望を齎すものであったように。せ
 めてこの城の獣達が、外に出ぬようにと剣を置き去りにしたように。
  脈々と受け継がれる魔王の伝承が絶たれれば、そんなおぞましい伝承がなくなれば、少しずつで
 もこの山に蟠る獣達も、徐々に落ち着きを取り戻すのではないか、と。彼はそう考え、追い詰めら
 れて化け物に成り下がった女達を、またはこの山に巣食う全ての獣を、斬り殺さずにいたのではな
 いのか。
  そう考えると、手の中にある剣の役割が緩やかに逆転して見えてくる。
  冷たい岩肌を断ち切り、魔王山の入口を開いたこの剣。逆に言えば、この剣がなくては魔王山の
 入口は開かないのだ。
  つまり。
  むしろこの剣は、魔王山の入口を閉ざす為のものだったのではないか。魔王山の獣達が出て来ぬ
 ように、ではなく、魔王山に誰かが踏み入り、再び魔王と勇者の伝承を繰り返す事がないように。
  サンダウンは、もう一度背後に向けて銃を撃つ。残りの羽虫三匹が、ぼたりぼたりと音を立てて
 落ちる音がした。サンダウンは振り返らない。銃弾はあと二発。
  体液が滴る音と、腕のぶつかり合う音と、羽ばたく音と。
  それらを消し去る音は、もう、その息の根を絶つ以外にない。この剣の持ち主が望む終わりはも
 う望むべくもない。魔王山の入口は再び開かれ、彼女達の心根は再び掻き回された。彼女達が平穏
 を得るために魔王山が閉ざされる事は、二度とない。
  せっかく、魔王そのものを、魔王山から放逐したというのに。 
  サンダウンは、氷の心臓を持った、あの獣――貴族を思い出して顔を顰める。
  サンダウンの背後に迫る女達に捕えられでもしたのか、恐らく無理やりに魔王の心臓を喰わされ
 た。凍れる魔王の心臓は、二十年もの間、腐りもせずに次なる後継者を待っていたのだ。そして、
 魔王の心臓を喰わされた貴族は、次は己の心臓が凍り付く事となった。
  これこそが、ルクレチアが延々と隠し続けていた魔王と勇者の事実だ。
  魔王を殺した勇者は、魔王の心臓を持ち帰り、それを食する事で人知を超える力を持ち、それを
 以て、ルクレチアの国王として君臨する事が許される。
  だが、魔王から得た力は、既に人間のものではない。
  魔王の、それだ。
  魔王の力は、勇者の身体に漲る。だがそれは、同時に人間ではなくなるという事だ。遅かれ早か
 れ、身も心も、悉くが人間から離れていく。あの貴族は、きっとそれが凄まじく早く行われたのだ
 ろう。勇者と魔王の交代が、早く行われたのだ。もしかしたらそれは、貴族が魔王を殺したわけで
 はない事に起因しているのかもしれないが、真実のほどは分からない。
  とにかく、勇者は魔王になるのだ。それが、代々受け継げられてきた、ルクレチアの物語だ。
    いっそう強い羽ばたきが耳朶を打った。サンダウンは振り向かないままに、再び銃を肩越しに撃
 つ。飛翔能力のある最後の一人が地面に堕ちる。次々に仲間――既に仲間であるという意識などな
 いのかもしれないが――が斃れてなお、残る二つの足音は止まらない。怯む気配さえない。気の抜
 けた笑い声を、相変わらず上げ続けている。
  おそらく、力ない魔女であった彼女達。
  そして、ルクレチア国王にまで上り詰めても、最終的には魔王に乗っ取られる勇者。 
  行き着く先は、同じだろう。魔王化した勇者は、この魔王山に、再び捨てられるのだ。だから、
 黒の剣の持ち主は、魔王化した貴族を、魔王山に閉じ込める事はなかった。森で出会った貴族が、
 恐らく魔王となった事に、彼は気づいたのだろう。魔王山から抜け出した魔王を、彼は見逃した。
  いや、見逃したのではない。ただ、魔王が魔王山からいなくなってしまえば、単純にルクレチア
 の伝統が終わりを告げると考えて、そうしたのだ。事実、結局、王女は魔王殺しの勇者を夫にする
 事は出来なかった。
  ただし、魔王がいなくてもこの国は滅んでしまい、魔王山は再び開け放たれてしまった。
  最後の一撃。
  サンダウンは銃身に残る最後の鉛玉を、もう一度、背後に向けて投げつける。声もなく、一つの
 足音が立ち止まった。かと思うと、固く崩れ落ちる音がする。ピースメーカーの真鍮の身体の中に
 は、もう一発の弾も残っていない。
  背後からは、ずる、ずる、と体液を引き摺る音がする。仲間はもう誰もいないのに、彼女は歩く
 事を止めない。魔王がいなくなっても、刻み込まれた毒は、簡単には消えないのだ。

 『ここは、魔王山なんかじゃねぇ。』

  黒の剣が小さく震えた。
  鳴りやまぬ足音を割り割くように、黒の刀身から、声が零れる。今、もしも立ち止まって掲げ見
 る事が出来たなら、そこには彼の姿が映っていた事だろう。

 『間違いなく、悪魔の塔さ。』

  ルクレチアという国が、脈々とその血筋で作り続けてきた。
  魔王と勇者の伝説という、茶番。
  その、舞台。