背を向けた男が地面に刺した剣が、ギラリと黒い照り返しを見せた。
  かと思った瞬間、濁流の色をした過去の残像は、一瞬にして霧散する。淀みが一気に押し流され
 てしまったかのように、後に残ったのはぽっかりと口を開けた山の入口と、相変わらず白い膜を張
 ったようなくすんだ世界だった。
  これで終わりか。
  サンダウンは、剥き出しの岩肌を切り裂いて、山の入口を開いた剣を見下ろす。黒い剣は、見る
 も冷たそうな地面に転がり落ちて、けれども未だに何か獲物を探し求めているかのように、爛々と
 輝いている。
  獣の眼をした光は、この剣の役目はまだ終わっていないと告げていた。過去を垣間見せる事は終
 わっても、脈々と続けられてきた悲劇は、終わりを迎えていない、と。
  ぽっかりと開いた山の入口。
  黒々としたその中身が、未だ、この国が全てに連なるおぞましさを吐き出していないのだと、叫
 んでいた。




  7人の娘





  腐臭がしないのが、不思議だった。
  サンダウンは開かれた魔王山の先に踏み出し、空気が土と埃の湿っぽい匂いしかしない事に気づ
 く。
  姥捨て山のように、気に入らぬ者を閉じ込めていたと、過去の残滓は告げた。幾度も魔王の死体
 を転がしたとも言っていた。
  にも拘らず、腐臭がしない。それほどまでに早く、土に還ったのか。一見すると、どう考えても
 無機質で、死体を土に還す虫などいないように思えるのだが。それとも、やはり背を向けた男が言
 ったように、閉じ込められた者達が、飢えに任せて、死んだ身体は食い散らかしていったのか。だ
 から、土に還るのも早いのか。
  ざりざりと、岩肌の間に詰まった砂を踏み締めながら、暗いけれどもしかし妙にくっきりと物事
 の輪郭が見える洞穴の中に視線を巡らせる。
  いつ何時、何が飛び掛かってくるか分からない。
  この中には、確かに人が閉じ込められていたのだから。その人々が、今も生きているかは分から
 ないが。或いは、既に人々ではなくなっているか。
  氷の獣を思い出す。
  過去、この世界の時代からそう遠くない過去、この山に入り、そして獣に成り下がった貴族。い
 や、あの獣は氷の心臓を持っていた。魔王の条件である氷の心臓を。ただの獣に成り下がったわけ
 ではない。魔王に成り上がったのか。
  けれども、何故。何故、貴族は魔王になったのか。
  答えは明確ではない。眼を逸らし続ければ、永遠に分からないままに出来るだろう。
  だが、一方で明白に想像する事が出来る。過去の残像が、黒いし煌めきを放ちながら告げた言葉
 の節々に、嫌でも想像できる言葉があったではないか。
  サンダウンは、昏く明確な輪郭に従って、洞穴の中を歩きながら思考を整理する。こうする事が
 元の世界に戻る事に繋がるかは分からない。ただ、背中しか見せなかった男の仕草が、自分の世界
 にいる賞金稼ぎを思い出させたから、なんとなくそれに従うのが正しいような気がしたのだ。
  魔王の心臓には、常人を凌ぐ力を与える効果がある。故に、それを食した事で勇者と呼ばれ、ル
 クレチア王族の血が流れていなくとも、王女を娶りルクレチア国王を名乗る権利が与えられるのだ。
 権威がない者に与えられる、魔王殺しという権威。
  しかし一方で、過去の残像は語る。二十年前、魔王の死体は心臓を抜かれぬままに放置された。
 王妃を助けた騎士が、勇者となる事から逃げ出し、心臓は死体諸共置き去りにされた。それを喰い
 散らかした所為か、魔王山の中は異形で満ち満ちている。これについては、元々から山の中に異形
 がいたという可能性もあるので、何とも言えない。 
  ただ、もう一つ分かっている事がある。魔王は、決して必ずいるわけではないという事だ。魔王
 の条件は氷の心臓を持っている事。それは魔王を殺して心臓を取り出すまでは、相対した相手が魔
 王であるとは言い切れない。だから、運悪く魔王と対峙しないという可能性もあるわけだが、しか
 し過去の残滓を見る限り、そういう意味とはまた別で、確実に魔王がいない場合もあるのだ。
  それは、一体、どういう場合か。
  魔王を殺した瞬間。それは当然だ。
  では、次に魔王が現れるのはいつだろうか。
  氷の心臓を持つ魔王が現れるのは。
  だから、肝要なのは、あの貴族が、どうして氷の心臓を持ったのかという事。魔王に負けたから、
 ではないだろう。そうなると魔王が二人立つ事になってしまう。
  ならば。
  それはやはり、サンダウンが意図的に眼を逸らしている部分だろうか。
  かつて、自がいた元の世界で、同じような氷の獣に出会ったその瞬間を思い出し、撃ち抜いた胸
 の穴から覗いた心臓が、凍り付いていると気が付いた時、自分は何を思っただろうか。
  湯気のように立つ、冷気。真昼の荒野は、茹るような暑さであるにも拘わらず、そこだけは霜が
 降りていた。その奥底で、ちらりと瞬いた閃きは冷たい氷であって、故に一瞬日の光を浴びて、宝
 石のように煌めいた。
  脳裏にあの時の煌めきが蘇り、立ち止まったその時、凍り付いたようだった鼓膜に足音が響いた。
 背後から聞こえてくる足音に、子供達が追いついたのかと思ったが、身体は本能的に腰に帯びてい
 る銃へと手を伸ばしている。
  氷の煌めきから意識を現実に戻し、背後から響く足音に向き直る。足音は一つ。だが、そう、そ
 れ以外の場所からも足音が近づいてきている。先程までは何処にもなかったはずの気配が、土から
 湧いて出たように、沸き上がっている。
  もしもサンダウンがもっと信心深い性質ならば、幽霊か何かと、土に還った人々の無念が蘇った
 のだと思ったかもしれない。
  ただ、サンダウンは過去の残滓を見てしまっている。確かにある意味、それは閉じ込められた人
 々の無念であるかもしれないが、一方で決して幽霊ではない。妄執の果てに、人間を止めた獣達だ。
  あは、あは、という高い笑い声が、狭い洞穴の中で反響する。その所為で、笑い声の数がよく分
 からない。分かるのは、どうやら声が女であるらしいという事。きっと、まだ、若い。
  姥捨て山の犠牲者かも知れない。
  すっと、白い顔が闇の中にくっきりと浮かんだ。その数、七つ。
  ぬっと、闇を割るようにして現れたそれは、暗いけれども輪郭の分かる世界ではそれまで姿も見
 えなかったから、やはり闇か土の中から抜け出したのかもしれない。
  顔は、女だった。声も、女だ。身体つきも、扇情的な曲線は女の物で間違いがない。ただ、人間
 の、とは言い難かった。彼女――と言うべきかは分からないが――達は、悉くが女を示す曲線をし
 ていたが、それ以上に化け物としての様相を持っていた。
  羽虫のような翅を背に追い飛び交う者、下半身が蛇のようにねじくれた者、腕の数が四本の者、
 ねっとりとした液をだらだらと垂れ流し続けて這いよる者。
  かつては人間であった可能性はある。どういう理由で此処に放置されたのかは分からない。魔女
 狩りだとかそういうものに捕えられ、無辜のうちにこの山に送り込まれたのかもしれない。そう思
 えば、哀れだ。
  だが、今は化け物だ。
  あは、あは、と気の抜けた笑い声を繰り返す女達は、やがて、笑い声の代わりに言葉を繰り返し
 始めた。

 「た、べる?たぁっべる?」

  幼児のようにたどたどしく、しかし嗤い含みの女の高い声は、不気味以外の何物でもない。それ
 にしても食べる、とは一体何の事か。閉じ込められ、飢えた彼女達が食さざるを得なかった物――
 魔王や、それに類する物の身体だろうか。
  それとも。
  ずるりと、ねっとりと体液を垂らし続ける女が、べとべとの手を差しだしてきた。やはり体液塗
 れのその手は、だが何かが握られている。どす黒いそれは、まるで肉塊。
  いや、それはきっと別の何かだろう。だが、握り拳大のそれは、心臓のように見えた。そして、
 もしも女達もそれが心臓のようであると認識しているとすれば。
  ぎちぎちと、黒い剣が今までにない音を立てていた。
  はっとして黒の刀身を見れば、その身に奇妙な光景が映し出されていた。女達を薙ぎ払い、その
 まま行く後姿。あの男の後ろ姿に間違いなかった。

 『心臓を喰えって?お前達で、心臓の取り合いでもしたか?それとも、心臓の押し付け合いでもし
  たか?だから、そうやって来る人間来る人間に、心臓を押し付けてきたか?』

  おぞましい異形を喰らうしかなく、しかし伝承に残る心臓だけは喰らうまいと、だがそれでも飢
 えは止まず、遂には誰かが食べたら自分もという考えで、押し付け合い、そうしているうちに自ら
 もまた、異形になったのか。
  そして、刀身に映った男は、サンダウンが眼を逸らしていた事実をひっそりと告げた。

   『あの貴族にも、そうやって心臓を無理やり押し付けたのか?』

    魔王の心臓を。