黒い剣の持ち主は、今の時点で何処にいるかはようとして知れない。
  サンダウンが追いかけてきたのは、ただただ彼の残像に過ぎず、その残像は硬い岩肌に吸い込ま
 れてしまった。
  結果、サンダウンの目の前に立ちはだかるのは、冷たく拒絶の色しかない剥き出しの山の肌だけ
 だ。
  何の衒いもなく歩き去った過去の残像は、その当時はまだこの山が閉ざされてはいなかった事を
 告げているのか。そしてその後、どういうわけか、山は閉ざされた。
  サンダウンは、山というにはあまりにも貧相で、如何なる生命も弾き飛ばしてしまいそうな不毛
 な塊を見上げる。
  遠目に見た時も思ったのだが、姿形は山というよりも、塔に近い。焦げ茶の、硬い、生命である
 事を続けるには過酷すぎる崖が、もしも谷ではなく山になったとしたら、きっとこんな姿になるだ
 ろう。
  そう、山を見上げるというよりも、谷底から絶望を孕んだ眼で崖を見上げている心境に近い。
  果敢に立ち向かうには、人間にはあまりにも切り立ちすぎている。
  だが、それでも立ち向かおうとするかのように、サンダウンの手の中で、主人が不在の剣はギラ
 ギラと煌めいている。




  悪魔の塔





  吼えている。
  サンダウンは、光差さぬ白濁した世界の中で、しかし恐ろしいほどに煌々と何かを反射して光る
 黒の剣を見て、そう思った。
  剣は黒であるが故に、それ自体が光を放つ事はないだろう。この剣は、全てに見捨てられた世界
 の何処かに散らばり、気づかれぬままの光を拾い集め、その光でこうも猛々しくぎらついているの
 だ。
  その様は、野生の獣が獲物に視線を定めた時のよう。
  或いは、喰らいつく時の咆哮に。 
  決して、消え去った主人を求めるなどという、しおらしい様ではない。ひたすらに、獲物を求め
 る獣そのものだ。そして、食い千切る獲物は、この岩肌の向こうにいる。
  獲物がいるのに、人間に手綱を取られて動けないなど、それはただの飼い馴らされた猟犬でしか
 ない。しかも、黒の剣にとって、サンダウンは主人でさえない。主人でさえない人間のいう事を聞
 くような、しおらしい剣ではない事は、咆哮する煌めきからも一目瞭然だった。 
  犬が鎖を振り解くように、黒い刃はサンダウンの指を払い除けるや、矢のようにつるりと傷一つ
 ない岩肌に飛んでいった。サンダウンの眼には、黒い軌跡が線のように見えただけである。それほ
 どに、鋭い速さで飛んだ。
  だが、冷静に考えれば、ただの剣が岩肌に立ち向かって、ただで済むはずがない。折れるか、砕
 けるか。少なくとも、刃は零れるはずだ。
  けれども、その常識的な考えは、この世界においては通用しなかった。
  真っ直ぐに飛んでいった剣は、何の躊躇いもなく岩肌にぶつかった。かと思えばその投身は吸い
 込まれるように岩肌に突き刺さった。まるで、そこにあるのは岩などではなく、ただのパンか何か
 なのだと言わんばかりに。
  そして、突き刺さったそのままの姿で、一気に抉るように岩を縦に切り裂いた。
  ぱくり、と両開きの扉が開くように、岩が開き、過去の残像を吸い込んだ内面が明らかにされる。
  いや、その前に、開かれた岩戸の向こう側から、大量の土埃が流れ出してきた。
  それだけではない。
  土埃の所為で分からなかったが、圧倒的な過去の濁流が、サンダウンを飲み込んで通り過ぎ、再
 び岩戸の前に立ち尽くしたのだ。
  そこには、黒の剣を抜き放った男と、王妃を助け出したあの騎士が向かい合っていた。剣の持ち
 主である男は、やはりサンダウンに背を向けていて、顔も表情も分からない。ただ、抜き放たれた
 剣が、ひらすらに凶暴な色を持っていた。

 『魔王山、か。よく言ったもんだ。むしろ、悪魔が作り上げた塔だろう、これは。』

  冷ややかな男の声に、騎士は唇を噛み締めて、俯いている。

 『あんたはなんで此処に来た?王に、俺を見張るようにでも言われたか?あんな王でも、俺がこの
  国に疑いを持ってる事は分かったか。それとも、他人を生贄にし続けてきた国にとっては、もう
  それが本能になっちまってるのか。』 

  すらりと抜き放たれた剣は、今はぴくりとも動かない。けれども、今一度、男が騎士を殺そうと
 したなら、嬉々として騎士の首を跳ね飛ばした事だろう。
  黒の剣は、ただ獲物を切り裂く為だけにある、本当に剣の本質だけを刳り貫いた剣だ。魔剣だと
 かそういう類以前の剣だ。
  例え魔王殺しの勇者でも、敵わないだろう。

 『………魔王は、いたのか?』

  騎士の問いかけに、男は鼻で嗤う。

 『ああ、あんたはやっぱり魔王が何なのか、知ってるんだな。魔王がいたかどうかを聞くかなんて、
  魔王がいない可能性だってあったわけだ。魔王の心臓に、もしも誰も手を付けていなければ。』

  男が、一瞬だが、肩越しにこちらを見た。サンダウンを見たわけではなく、そそり立つ魔王山を
 振り返ったのだ。長い睫が、頬に影を落としたのが、サンダウンには見えただけだった。

 『この中は、もう異形で満ち溢れてる。あんたが二十年前に置き去りにした魔王の心臓の所為で。
  やっぱり、あれを喰った獣やら何やらがいたんだろうな。後は。』 

  声が、酷く低くなった。
  何かを問い質すというよりも、そのまま全てを雷で断罪してしまいそうな、鋭さのある声だった。

 『あんたらが、捨てた罪人やら何やらが。』

  この山は、所謂そういう為の山だったのだ。岩肌も剥き出しの、不毛の塔。この中で生きていく
 事は、困難を極めるだろう。だから、所謂、姥捨て山のような形で機能していたのだ。
  ルクレチアという小さな国の中でも、犯罪は発生するだろう。或いは、政敵を葬る為の処刑は行
 われていたはずだ。小さな国であっても、いや、小さいからこそ、そうしたドロドロとした部分は
 深く根ざしていたのではないか。
  これらの政敵を、この山に閉じ込めて、それらを魔物だと言い張ってきたのか。
  そしてそんな人々が、飢えて喰うに困って、放置された魔王の死体を食べたのだというのなら。
 それによって、本当に魔物が生み出されてしまったというのか。

 『それと、あんたらが延々と作り続けてきた、魔王を。』

     断罪の声が、サンダウンの耳には、かの賞金稼ぎの声に重なって聞こえた。罪を糾弾する、裁き
 の炎を手にした全てを明けにする者の声は、どうしてこうも似通っているのか。
  それを前にした人間は、騎士のように項垂れるしかない。
  それでも何か釈明をしようとするかのように、王に言われて此処に来たのではないと呟いている。
  自分はもう、この国には関係がないのだ、と。
  恐らく、己が勇者になりかかって、そのおぞましさに触れて、国から逃げ出したのだろう。
  だが、それが、黒の剣の何か琴線に触れたのか、男の声に厳しさが増した。

 『じゃあ、なんで此処に来た?俺が魔王山に入るのを止めようって言うわけじゃねぇだろう。だっ
  たら、俺が山に入る時に来るべきなんだからな。それに俺の前に山に入って、ものの見事に魔王
  に成り下がった奴がいる。あんたはそうなるのを止めもしなかった。なのに、なんで此処にきた
  んだ。自分の罪が、明るみに出るのが怖かったんじゃねぇのか。』

     男は厳しい口調で、しかしさらりと重大な事を告げた。
  時分より前に魔王山に向かった貴族が――先程の過去の残像の中で、男に飛び掛かった、そして
 サンダウンに撃ち殺された氷の獣の事だ――魔王に成り下がった、と。
  けれども勇者となりかけた騎士にとって、それは既に周知の事実だったのか、唇を白くなるほど
 に噛み締めて、ただ俯くばかりだ。
  騎士は、自分が投げ出した魔王の心臓が、こんな事態を起こしているとは思わなかったのだろう。
 いや、思っていたかもしれないが、それが明るみに出るとは考えなかった。  

 『これまで、この山から異形共が這い出なかったのが不思議なくらいだ。てめぇらの悪運も大概だ
  な。でも、それも今日までだ。』

  魔王は、既に山を降りて、森の中を駆け巡っている。
  はっとして顔を上げた騎士の顔にあるのは、先も見えぬほどの絶望だった。神でさえ助け得ぬほ
 どの事態が、近づきつつあるのだ。
  どうすれば良い、と男に向けて呟いたのは、騎士の眼から見ても男が救いの一手に見えたからだ
 ろうか。
  だが、男の言葉は、知るか、と短かった。

 『てめぇらが作り上げたんだろうが、この山は。てめぇらが長々と続けてきた伝統が、元々無理の
  ある伝承が、破綻するだけの事だ。』
 『だが、この山から異形が降りたら、この国はどうなる。』

  ようやく、古びた勇者は芯の通った声を出した。既に国から逃げた騎士は、しかしそれでも勇者
 としての本分を果たそうとしているのか。

 『てめぇらの作った魔王山だ――俺にしてみりゃ、てめぇら悪魔が作った塔にしか見えねぇが――
  だったら、てめぇらで崩せるはずだろうが。』

  刃の切っ先のような声で、男は騎士を貫いた。
  ただし、断罪者の奥底にある優しさそのものの手つきで、抜き放ったままの黒の刀身を、ゆっく
 りと地面に突き刺す。
  何も知らない子供の為に、一抹の酌量を与えると言って。
 
 『この伝承を食い止める人間が来るまで、この剣で異形共の動きを少しばかり閉じ込めてやろう。
  お前らが言う勇者が本当にやってきて、この山の入口を開ける時まで。』

  それは希望であったはず。
  だが、この国の人々は、それを投げ捨てたのだ。