過去の濁流は、倦まず弛まず、歩き続けては小さく過去の出来事を呟く。
  腰に黒の剣を帯びた人影は、残像でありながらも揺らぐことなく、濁流の中を歩き続ける。
  淀みのないその姿に思った事は、かの賞金稼ぎの事の他に、あの亡者達も結局のところ、あそこ
 まで明瞭に現れる事が出来たのは、この人影の力ではないのかという事だった。
  少年の中の一人が、自分には人の心が読めるのだと、その力が強まって亡霊が――殺されたルク
 レチア国民の最後の残滓が、具象化したのだと言っていたけれども。少年の心を読む事が出来る力
 というのは、亡霊を表す為の、ただの切欠の一つに過ぎないのではないか。
  むしろ、こういう事態が起こる事を想定していた、眼の前を行く人影が、様々な切欠で過去の残
 像が現れるように細工をしていたのではないだろうか。人々の残された感情が、眼に見えて分かる
 ように。サンダウンが手紙に触れた事で、人影自身の回想が具体化したように。
  彼が何者であるのか、サンダウンには窺い知る方法はない。
  辛うじて、彼が魔王山に向かおうとしているところを見る限り、ルクレチアから婿候補として招
 かれるだけの地位にいたのであろうという事が分かるだけだ。
  そして、ルクレチアが長くに渡って続けてきた、魔王殺しの英雄を国王にするという伝統に対し
 て、疑問を持っている事が。




  勇者の条件





  サンダウンは再び森の中を行く。
  かつて人間であった、そして氷の心臓を持った獣が住んでいた森は、獣が死んだ事で、微かに平
 穏を取り戻している。ただ、完全に音のない世界となっただけで、平穏とは言い難いものであるか
 もしれないが。
  前を行く過去の濁流は、相変わらず淀みのない足取りで、木々の間を通り抜ける。その当時は、
 まさかこんなふうに、何もかもに灰が降り積もったように白く濁っていたわけではないだろう。そ
 れとも、ルクレチア国民には普通に見えていても、彼の眼には今サンダウンが見ているように白く
 濁った世界が開けていたのだろうか。
  黒い外套を揺らしながら歩く人影は、確かに一つの方向目掛けて歩いている。
  むろん、あの、岩肌が剥き出しの魔王山へと向かっているのだ。その後を追うサンダウンも、ま
 た、魔王山に向かっている事となる。 
  恐らく、サンダウンがこの地を訪れるすべての元凶となった場所だ。
  何か分かるかもしれない。あわよくば元の世界に戻れるかもしれない。そう思ったからこそ、サ
 ンダウンは、得体の知れない人影の後を追いかけている。もしもその他に理由を上げるとすれば、
 彼の腰に帯びた黒い剣は、今はサンダウンの手の中にあり、その煌めきがやはりかの黒い賞金稼ぎ
 の愛銃に似ているからだろうか。
  不意に、木陰が動いた。
  サンダウンは、はっとして咄嗟に身構えたが、しかしそれは見間違いだと気づく。
  いや、正確には見間違いではない。確かに木陰は動いた。ただし、それはサンダウンのいる次元
 の話ではない。
  それは過去の濁流の中の、木陰が動いたのだ。サンダウンを先導するように流れていく人影のす
 ぐ脇にある、濁流の中の木陰が、激しく揺れ動いた。
  どさり、と音が響かなかった事が不思議なくらいだ。かつては響いたのだろうが、既に流れ去っ
 てしまった出来事なので、音までは再現できなかったのか。木陰から、豹が襲い掛かるように飛び
 降りてきたのは、服を身に纏った人間に見えた。
  服装は、過去の濁流の中で一番最初に現れた、貴族のものだった。王女と魔王を斃す事について
 話していた、あの若者のものだ。服の刺繍と、腰に帯びた剣の細工まで、間違いがない。
  けれども、その顔が。
  まるで数年間山籠もりしたかのように乱れに乱れた蓬髪に、洞のような眼。そして唇のない、歯
 が剥き出しの骸骨のような顔。
  サンダウンが殺した、あの獣だ。
  落ちかかってきた氷の獣を、しかし黒い剣を帯びた人影は、身体を少しずらす事だけで躱すと、
 なんの気負いもない動作で、鞘を付けたままの剣で強かに獣を打った。
  ぎゃっという悲鳴を上げて、獣は飛び退ると、そのまま逃げ去っていく。何処かで様子を窺って
 いるのかもしれないが、慎重なあの獣は、直ぐに再び襲い掛かろうとはしないだろう。

 『………あれが、魔王殺しに失敗した人間のなれの果て、か?』

  人影が、小さく呟いたのが聞こえた。

 『魔王殺しに失敗したら、魔物になる?何故?本当に、そうなのか?』

  あの獣が、獣になったのは別に理由があるのでは。
  そもそも、と人影は歩き出しながら呟く。呟く、というよりも、彼の考えがサンダウンに届いて
 いるだけなのか。

 『妙な事と言えば、王女の婿の条件だ。勇者となる事が婿の第一条件であるならば、二十年前に魔
  王を殺した男が真っ先に候補に来なければおかしい。』

  二十年前、身籠った王妃を攫ったという魔王。それを殺したのは、今や壮年となった男だった。
 亡者の中にその男がいるのを、サンダウンも見た。
  年齢的に無理があったのでは、とも考えたが、中世ヨーロッパで、女のほうはともかく男のほう
 に年齢的な制限があったとは思えない。
  ならば、何故、あの男は王女の婿の候補にはならなかったのか。
  男のほうが辞退したのか。ならば何故。
  婿としての候補には挙がらなかったのか。ならば何故。

 『魔王の心臓を持ち帰らなかった。だからか。』

  魔王の心臓を持ち帰る事が勇者の条件であったなら、そしてそれを食する事で魔王の力を得て、
 始めて、何の地位もない人間でもルクレチアの王として君臨する事が出来ると言うのなら。

 『もしかしたら、二十年前の男は、敢えて魔王の心臓を持ち帰らなかったのかもしれない。魔王の
  心臓を食う事を疎んじて。』

  すると、再び、ならば何故、という疑問が湧き出てくる。
  何故、魔王の心臓を食する事を、疎んじたのか。
  単純に、魔王という異形の心臓を口にする事に嫌悪を抱いただけなのだろうか。それとも、他に
 嫌悪を抱く理由が、ルクレチアの伝統の中にあったのだろうか。
  勇者の条件として、求められる事の中に。
  あの男は、二十年前に魔王を斃したという男は、ルクレチアの国民だ。だから、ルクレチアの伝
 統についても知っていただろう。伝統の中に宿る悪しき面についても。己が勇者になりかけた時、
 その悪しき面を見て、彼は遂に魔王の心臓を持って帰らなかったのだとしたら。

 『二十年前の魔王の心臓は、一体どうなったんだろうな?』

  ほろりと、前を行く人影が零した。
  サンダウンの先を歩くのと同じく、サンダウンの考えの、更に先を行くように。
  黒い剣が、何かを警告するようにちらりと光る。その柄を、彼がそっとなぞるのが見えた。サン
 ダウンが、その顔を咄嗟に覗きこもうかと考えたのも、無理はない。
  柄をなぞる仕草が、良く知る賞金稼ぎが、愛銃をなぞる仕草に良く似ていたのだ。
  お前は、誰だ。
  喉の奥で問いかける。
  勿論、分かっている。これは、過去の残像であって、サンダウンが本来いる世界の誰かではない。
  しかし、それにしたって。良く似ている。もしも微かに振り返って、その頬の輪郭が見えたなら、
 そしてそれさえも見知ったものに似ていたなら、駆け寄るかもしれない。
  けれども過去が未来を知らぬように、歩く人影もまた、サンダウンに対して、ただ己の思念を伝
 えるだけの相手としてしか認識していない。サンダウンが何者であるかは、知らないのだ。

 『まだ、殺された時のまま、その場に置いてあるのか。それとも、何かに食われてしまったか。こ
  の山に住む、獣や鳥や、虫に。』

  サンダウンの動揺を置き去りに、影は呟く。

 『では、もしも魔王の心臓を、この山に住む獣達が食い漁ったのだとしたら。獣達はどうなるんだ
  ろうな?』

  勇者の条件として、魔王の力を得る事が出来る心臓を、喰らったのなら。
  影が立ち止まる。
  サンダウンはそのすぐ後ろまで駆け寄るべきかと、一瞬迷う。
  そんな迷いなど嘲笑うかのように、影は何かを見上げる仕草をすると、再び歩き出し、何もない
 岩肌の中へと吸い込まれるようにして消えた。
  はっとしてサンダウンが、先程の影と同じように上を振り仰ぐと、そこには岩肌剥き出しの、塔
 のようなものがそそり立っている。
  それを見上げて、ようやくサンダウンは、いつの間にか自分が魔王山の麓に辿り着いた事を知っ
 た。
  サンダウンの手の中にある黒い剣が、彼の腰にあった時と同じように、ちらりと煌めいた。