『この手紙に触れた者に告ぐ。ルクレチアが代々隠し通してきた、魔王殺しの罪を。』

  過去を示す茶色の淀みは晴れ、またしても白の濁りが視界を覆った。
  だが、亡者達の住処が完全に消えうせた時のように、過去の色合いは今度ばかりは完全に掻き消
 えはしない。
  黒の剣を帯びた立ち姿は、亡者の白い煙の形よりもはっきりと輪郭を保っており、その周囲だけ
 は相変わらずに濁流の色合いが残っている。
  間違いなく、サンダウンがいる位置とは別の場所に居るのだろうが、こちらが声をかければ、普
 通に返事が返ってきそうだ。実際は、亡者達が一方的な言葉しか言わないように、『彼』もまた、
 与えられた言葉しか言えないのだろうが。
  サンダウンが来た、塔と城とを繋ぐ渡り廊下を、人影は引き返していく。
  その横に、黄土色に近い緑の森の中、そそり立つ岩肌荒い塔が見えた。
  いや、塔ではない。
  あれこそが、魔王山なのだ。
  サンダウンに背を向けて遠ざかる影は、ふと、城への入口で姿を消した。




  鐫録の道





  サンダウンが慌てて追いかけ、閉ざされたままの扉を開けば、ぎゃっという声と共に、子供達の
 顔が広がった。
  そういえば、いたな。
  獣に襲われている時に悲鳴を聞いたきりで、その存在を確認する術がなかったので放っておいて
 忘れていたのだが。
  特に怪我らしい怪我も見当たらず、ぴんぴんしている様子なので、サンダウンが何かを考える必
 要はなさそうだ。
  ちらりと視線を子供達から外して上向ければ、濁流の跡が遠くに見えた。淀みなく歩く姿は、も
 しかしなくても、あの岩肌剥き出しの山に向かうのか。
  氷の心臓を持つという、魔王に。
  だが、とサンダウンは、たった今、自分が撃ち殺したばかりの獣を思う。
  あの獣の心臓も、氷のようであった。そして亡者の一人が、魔王であるかないかを証明するのは、
 やはり心臓であると言っていた。つまり、オルステッドが殺したものの心臓は、温かであったが故
 に、魔王ではないと判じられたのだ。 
  実際の魔王は、あの、獣だったのだ。
  そしてそれはサンダウンが殺した。
  しかしそれはそれで妙な部分がある。サンダウンが撃ち殺したばかりの獣は、一方で魔王を殺す
 為の勇者でもあったはず。ただ、魔王殺しに失敗しただけで。しかしなのに何故、氷の獣になった
 のか。それにあの獣が人間だった時分に斃そうとしていた魔王は、どうなったのか。

 『俺の他にも、魔王を斃そうとした奴はいるのかい?』

  子供達の前を素通りし、濁流の跡を追いかけると、過去の残像は再び色を深めた。切り取ったよ
 うに淀む世界の中、背の高い人影の横に、やや尊大に胸を張った男がいる。王ではない。ただ、と
 にかく尊大で傲慢めいていた。

 『うむ。皆、哀れにも魔王の餌食になったのだ。』
 『で、あんたらは、それを助けようともしなかったってわけだ。』

  皮肉めいた声がする間、黒い剣も嘲るように光を零す。
  むっとした男に、気づいていないような態で、言い募った。

 『魔王の餌食になるって、どうなるんだ、実際。食われるのか。』
 『知らん。我々は何の力もない善良な人間に過ぎない。魔王の傍になど近寄りたくもない。とにか
  く、貴方は魔王を斃して、その心臓を持ってきてくれれば良いのだ。そうすれば、王女様と結婚
  し、行く行くはこの国の王となる。』
 『王となるには、』

  声が、一際大きくなった。
  そっくり返っている男になど見向きもせず、ぐっと前だけを見ている。サンダウンに背を向けて
 いるが、それだけは分かる。黒い剣が、抜き放たれる時を待っているかのように、ぎらついている。
  その様が、この場にはいない黒い賞金稼ぎを思い起こさせた。

 『魔王の心臓を此処に持ってくるだけで良いのか?』

  問いかけを最後に、再び淀みが消えた。点々と、跡はあるが、これ以上はこの場に記憶は残って
 いないという事だろうか。
  記憶の凝りのあった場所に近寄り、地面や壁を見てみるが、何一つとして残っていない。跡を追
 いかけて次の場所に来いという事だろう。

 「おい、おっさん!俺らを無視すんじゃねぇよ!」

  忘れていた子供達の声が背後から聞こえた。忘れていた以前に、今回は彼らの声など微塵も聞こ
 えなかった。そもそも、彼らはあの淀みを、過去の残滓を見なかったのか。
  振り返って彼らの顔色を見る間でもなく、彼らには見えていなかったのだろう事が、その声の質
 から分かる。あの残影は、手紙に触れた者にしか見えないのだ。

    『ルクレチアに現れた最初の魔王は、竜の姿をしていたという。』

  竜殺し。
  それは何処にでもある、良くある伝承だ。
  ヨーロッパなら、セント・ジョージが有名だし、インディオの中でも竜を殺す伝承はある。今な
 らば、ニーベルンゲンのファフニール殺しが流行りだろうか。
  セント・ジョージの竜殺しはキリスト教を布教する意味合いで作られたのだろうが、インディオ
 とニーベルンゲンの物語は英雄譚だ。そしてこの二つは、両方とも、竜を殺す事で英雄が神がかり
 的な力を手に入れている。

 『竜を殺す事で、力を得る。これもまた、良くある話の一つだ。』

  遠ざかる過去の残影の跡は、サンダウンが追いつくたびに小さく呟く。サンダウンの考えを補強
 するかのように。
  竜殺しの英雄を、力ある勇者として迎え入れる事も、珍しい話ではない。ルクレチアという小国
 が、箔を付ける為に、そういった若者を婿として選んでも、なんら不思議ではなかった。
  けれども、実際のところは、どうなのだろう。
  初代の魔王である竜を殺した英雄は、

 『もしかしたら、本当に神がかり的な力を得たのでは?』

  はたり、と歩みが止まる。
  過去の濁流が、城の門の前で立ち止まっているのだ。何かを考えているかのように、或いは感慨
 深げに、城下に広がる小さな村越しに、岩肌が剥き出しの塔を眺めている。村と城の間を繋ぐ小さ
 な小道では、子供達が影だけでちらちらと笑いながら駆けまわっていた。何やら、追いかけっこの
 ようではあるが。
  よくよく見てみると、一人の子供が、もう一人の子供を棒切れを持って追い掛け回している。

 『さあ、魔王め!この勇者様が退治してやるぞ!』
 『簡単に負けるものか!僕は魔王の中でも一番強い、竜の魔王なんだぞ!』

  子供のくぐもった声に、サンダウンは王女の部屋から抜き取った本を思い出した。字は読めぬが
 挿絵があるから、なんとなく内容は分かる。
  過去の濁流は、まだ動こうとしない。
  サンダウンは流れがないのをいい事に、何度も読み耽ったのだろうと思われる本を捲った。
  本の内容は、想像していた通り、英雄譚だった。英雄が竜を斃し、平和を齎す話。王女は、この
 話をなんと思いながら、何度も読み直したのだろう。自分の夫はこのような勇敢なものなのだと思
 っていたのか。それとも鼻先で嗤っていたのか。もしも嗤っていたのなら、何故。
  顛末を知っているからか、魔王殺しの。
  ぱらりと捲った、本の最後には、胸を切り開かれた竜が転がっている。そしてその脇では、剣に
 突き刺された心臓が、火で炙られていた。

 『そういう事なのかもしれない。』

  皮肉めいた口調と共に、濁流が流れていく。立ち止まっていた人影も、子供の影も何処にもない。
 ぽつぽつと、更なる濁流の跡だけが残っている。
  後は、皮肉めいた声の後に続けられるべきだった声の、残響が。

  魔王の心臓を、魔王殺しの本人に、食わせていたのかもしれない。