ひくりとも動かなくなった獣は、腐りもしないかのように、ごとりとその場に転がるだけだ。そ
 の身体からは冷気が湧き上がっているのか、いつの間にか霜が張り始めたようだ。骨ばった身体は
 白々とした毛が立ちあがっている。
  サンダウンがかつて殺した獣もそうだった。
  彼らは、その内々から冷たさを零し続けているのだ。故に、その呼気は白く、一度心の臓が途絶
 えれば、こうして氷の塊となる。
  捻じ曲がった、醜い鉤爪をそのままの姿で凍り付かせた身体に、一体何を掴もうとしていたのか、
 と思う。手紙を奪おうとしていたように見えたが、けれども何故。
  ふと見下ろしたその爪先は、既に血まで凍りついたか、真っ白に変貌していた。醜い形の中で、
 そこだけが真珠のようにつるりとしている。
  その爪が、不意に何かを叩くように動いた。
  生きているのか。
  はっとして少し身を退いた瞬間に、下を向いていた視界が少しずれて広がる。
  同時に、真珠色の爪が大きく薙いで、サンダウンの腕を引っ掻こうとした。もしも咄嗟に身を退
 いていなければ、引き裂かれていたに違いない。幸いにして爪は獲物を捕らえる事はなかったが。
  否。
  氷の爪は、サンダウンが手にしていた手紙を引き裂いた。爪に抉られた瞬間に、まだ縁が黄ばん
 でいるだけで丈夫そうであった紙の束は、一瞬で真っ白になった。
  まるで灰になったかのようであったが、そうではない。
  凍り付き霜が張り、そしてその冷たさに耐えきれずに一息に砕け散ったのだ。
  砕けた手紙が白く濁った渡り廊下の石畳に落ちる前に、その破片は霧散した。思った瞬間に、世
 界は再び様変わりした。




  彼の残像





  白く濁った世界は、それだけでも空気が淀んでいるように見えた。
  だが、手紙が氷の断片として砕け散った瞬間の様変わりの後に比べれば、それはまだましなほう
 だったのだ。
  広がった世界に清涼な青の欠片は一片もなく、逆に手紙の黄ばみのような気配が濃くなった。靄
 がかかったというよりも、圧倒的な濁流で視界が覆われているというほうが正しい気がする。
  眼を瞬かせても変化がないところを見ると、やはり世界が問題なのだろう。或いはサンダウンの
 眼そのものが。
  土砂降りの雨の後の川のような色合いとなった視界の奥に、ふと黒い影が蠢いているのが見える。
  誰か。
  目を細めて、あの子供達だろうかと思う。
  だが、影は一つきりだ。しかも腰に長い剣を帯びている。子供達の中に、刃物を持っている者は
 確かにいたが、けれどもあそこまで長く鈍重な剣ではなかった。間違いなく叩き斬る為の剣は、サ
 ンダウンの知る限り、アメリカ西部でもお目にはかかれない。
  あれは、もっと古い時代のものだ。
  強いていうなれば、このルクレチアという国の古風さに見合った。
  重厚な剣を持つ人影は、亡者のような曖昧さはない。濁流の中でかき消されないほどの黒々とし
 た影を持っている。しかし、掠れのようなものがあるところを見れば、やはりそれもまた、この世
 のものではないのだ。
  手紙が氷の爪によって凍てついた事で現れた幻想は、もしや獣が人間であった頃のものだろうか。
 だとしたら、手紙は獣から送られてきたものだったのか。
  あくまで、想像だ。
  サンダウンの想像であって、サンダウン自身この想像は少し飛躍しすぎているような気もしてい
 る。
  揺れ動く目の前の影が、例え獣が人間であった頃のものでったとしても、手紙までもが獣の手に
 よって書かれ、王女に手渡されたものであるというのは、出来過ぎている。
  
 『では、魔王山にいる魔王を斃せば良いのですね。』

  濁流の向こう側から、くぐもった若い男の声が聞こえた。人影のものだ。咄嗟にそう感じた。
  何処となく訛りのある声――何処の訛りなのかサンダウンには分からない、そもそもサンダウン
 の分かる言語で聞こえているだけで実際は異なる言葉かもしれない――で、声から判断するに若い 
 男の影は、誰かと話している。

 『しかし、魔王というのはどのような姿をしているのですか?さぞ醜い姿をしているのだろうとは
  思いますが。』
 『姿は、誰も知りません。』

  答えた声は、女のものだった。まだ若く、傲慢そうな響きがある。

 『魔王の姿は刻一刻と変わるもの――我が母を拐した時は、硬い甲冑に身を包んだ黒い騎士の姿を
  していたのだとか。しかし、今は既にその姿ではないでしょう。』

  王女だ。
  傲慢な声音は、望みが何一つとして叶わなかった事がなかったから、吐き出されるのだ。唯一、
 己を娶る婿が来なかった事だけが、彼女の誤算だったのだろう。
  王女の姿は、人影よりも遠くに見えて、その顔色を窺う事は出来なかったが、婿になるはずだっ
 た、だが婿にはならなかった影をどのような眼で見ているのだろう。
  その、今から勇者になろうとして、けれども結末だけを見れば獣に成り下がったのであろう人影
 は、当然の疑問を王女に投げかけていた。

 『では、どうやって魔王を斃したと証明すれば宜しいですか?』
 『心臓を、』

  魔王の心臓を持ってこい、と王女は素っ気なく、それ以外に勇者の証明はないのだと言わんばか
 りの口調で告げた。
  斃した魔王の胸を切り開いて、その心臓を。

 『心臓を見れば、それが魔王であるかないかが、分かります。』
 『何故?』
 『魔王の心臓は、凍り付いているから。』

  あっさりと王女は言い放った。
  言葉を失っているサンダウンの前で、幻影達は頷き合っている。そういうものなのかと、結末を
 知らぬが故に納得している。そして、サンダウンの中にあるものとは全く違う、全く別の疑問を呈
 している。

 『ところで、私以外にも山に向かった者は?』
 『何人かいます、が。誰も戻ってきませんでした。』

  やはり、妙にあっさりとした王女の声だった。長く勇者を待ちすぎて、何もかもを諦めてしまっ
 ているのだろうか。
  それとも。
  これから魔王山に向かい、獣となる人影を、濁流越しに見る。
  何人もの男を魔王討伐に向かわせたが故に、その結末を知っているのだろうか。帰ってこなかっ
 た男達が、悉く、冷たい氷の獣となっているのだろうと。  
  氷の獣の心臓が、凍り付いている事も。
  つまり、魔王と言うのは、

 『結局、魔王って言うのは何のことなんだ?』

  ふっと濁流が治まった。
  淀みは相変わらずだが、ぼやけた視界は少しばかり明瞭になっている。それだけではなく、こち
 らに背を向ける人影も、立ち位置と、その人物が変わったようだ。
  場面が変換したのだ。
  薄茶色の流れの向こうで、サンダウンに背を向ける姿は細い。だが、その腰に帯びている剣は、
 禍々しいほどに硬質で、黒い。
  貫くような黒い煌めきに、はっとした。
  あれは、今は自分の手元にある、黒の剣だ。

 『何度斃しても、また何年かすれば現れる。しかもその度に姿が変わっている。あの、』

  若い声が、指し示した方向にある、森の中に貫くように聳え立つ、剥き出しの岩肌の塔。

 『魔王山だっけか。あの場所にそういう奴が集まりやすいのか?』
 『私には分りません。ただ、初代の魔王は竜の形をしていたそうです。』
 『でもあんたの母親を攫ったのは、騎士の恰好だったんだな?竜から、随分とちっさくなったもん
  だな、おい。』

  不躾なほど、馬鹿にしたような口調だ。
  それでも王女が何も言わないのは、この男もまた、獣になる運命だと思っているからか。それと
 も、王女が口を挟めぬほど、男のほうが上の立場にある者なのか。

 『まあ、見れば分かるだろ。魔王山の意味も、魔王の意味も。』

    ひやりとした口調で。

 『この手紙に触れたあんたも、知りたきゃ、俺の跡を探せ。』

  幻影であるにも関わらず、まるでサンダウンが見えているかのように、事も無げに言った。手紙
 にそういう仕掛けを仕込んでいたのだと。