ルクレチアと聞けば、咄嗟に思いつくのは二人の女性の名前だ。
  一人は、歴史をそう遡らぬ時代に、イタリアで淫婦、もしくは悪女として名を馳せたルクレチア・
 ボルジアだ。
  ルネサンス期に後には教皇にまでなるボルジア家当主の、愛人の子として生まれた。教皇である
 にも関わらず愛人を侍らせていたという時点で、ボルジア家が如何に堕落しているかが窺い知れる
 ものだが、しかも同時に君主論においては冷酷であると断じられている始末である。そういった、
 一族の品性不良の業故に、彼女もまた、男を惑わす淫婦、気に入らぬ相手を毒殺する毒婦として、
 今日まで語り継がれる事となったのだ。
  もう一人のルクレチアといえば、今度は紀元前にまで遡らねばならない。
  こちらのルクレチアは、先だっての女性とは違い、貞淑な妻の鏡と言われている。彼女は美しく、
 しかし美しいが故に、夫以外の男を虜にし、その男に凌辱されてしまうのである。それを良としな
 かった彼女は、自らの胸を突いて自殺。夫には復讐を望む手紙だけを残した。
  幾多の芸術家達が、彼女の凌辱と自害を絵画に描き起こしている。
  全く以て異なる論評が下された二人のルクレチアだが、彼女達に共通する事はその身の美しさと
 そしてその名に相応しくなく漂う悲劇性である。
  ルクレチアという名は、イタリア語では富と成功を意味する。 
  だが、彼女達の人生と結末は、そういった言葉からは程遠い。もしかしたら富はあったのかもし
 れないが、成功からは程遠い。
  二人のルクレチアの悲劇性を考えれば、確かに、この国を覆う灰は決してその名に似つかわしい
 ものであった。




  灰の世界





  サンダウンは、白と言うには濁りすぎたもので覆われた壁に、静かに触れる。
  灰色の何かが膜のように張っている世界は、何処を見てもくすんでおり、空でさえ雲ではない鈍
 い白に覆われていた。
  単純に、何かに覆われているだけならば手で払えば何とかなりそうなものなのだが、けれども壁
 に触れた手には何もつかない。つまり、何か白い物が地面に降り積もっているわけでも、視界を変
 色させるほどに舞い散っているわけではないのだ。
  それこそ、ぴったりと物に張り付いているのか、それとも逆に、サンダウンの眼に白い膜が張り
 付いているのか。
  何れにせよ、この世界に引きずり込まれてから視界が白く鈍く濁っている。ただ事ではない。
  いや、そもそも唐突にこの不気味で人気のない世界に放り込まれた事が、すでにただ事ではない
 のだ。
  いつものように、一人乾いた荒野を馬で駆けていた時、何の予兆もなく世界が暗くなった。太陽
 が空から転がり落ちたのかと思うほどにいきなりの転調に、サンダウンが疑問を感じるよりも早く、
 耳の奥底で、夜の淵を蠢くような声が響き渡った。
  かと思うなり、この場所にいたのだ。
  砂色の大地と青い空は何処にもなく、今まで自分と共にいた愛馬の姿さえない。
  白く濁った背丈の短い草が所々に生い茂り、そこを幾つかの杭で打ち付けて何かの境界を示して
 いる。その中に、ぽつねんと立ち尽くす山小屋。扉の硬く閉ざされた粗末だが頑丈な作りの小屋は、
 サンダウンが遠い昔――保安官になるよりも前、故郷の森にあった家に似ていた。
  もしも、視界を覆う濁りが雪であったなら、故郷の冬を思い出させ、少しばかり懐かしい思いに
 浸らせたかもしれないが、しかし濁った世界は明らかに人間とは相容れぬ様相を示していたし、何
 よりも山小屋からは一切の人の気配も、誰かが住んでいたという空気もない事が、サンダウンの警
 戒心を呼び起こしていた。
  人がこの小屋に住んでいなかったわけではない。
  それは、放置された薪の山や斧を見る限り、明白だ。
  けれども、使用されていた形跡は確かの残っているのに、しかし人が生活していたという空気が
 ないのだ。まるで、今まで人がそこにいたかのように、無理やり装っているような、そんな気配だ
 けが残っている。
  異質だ。
  佇む山小屋を見上げて、サンダウンは心の中でそう評した。
  この山小屋に限った事ではない。白く濁ったこの世界そのものが、サンダウンの知る世界から見
 れば、異質なのだ。
  そしてこの世界に、自分は呼び出された。それは間違いなく、サンダウンの眼から見れば異質な
 存在であるに違いない。いや、誰にせよ、この世界で生きている者は異質であるはずだった。
  それとも、サンダウンも異質であるから、呼び出されたのだろうか。
  思って、腹の底が冷えたような気分になった。
  サンダウンも良く知っている、サンダウンの中にある諦観の念が、何か形作られているようだっ
 た。
  首を一振りして、碌でもない考えを振り落し、この場から抜け出す事を考える。
  まずは、此処が何なのかを調べねばなるまい。此処に来る事が出来るのならば、勿論帰る事も可
 能なはずだ。
  その為には、誰かを撃ち落さなくてはならないかもしれないが。
  耳の奥で聞こえた声の事を思い、サンダウンは腰に帯びた銃を指でなぞる。自分の馴染みである
 ものの一つである愛馬は、この世界にはやって来れなかったようだ。だが、もう一つの愛銃のほう
 だけはこの世界でも自分に付き合ってくれるようだ。
  その事に僅かばかりだが安堵を覚えた。
  何かを頼るつもりはないが、それでもいざという時に頼れる物があるというのは、喜ばしい事だ
 った。
  人気のない世界。だが、まるっきり無人というわけでもないだろう。いるのが、本当に人である
 かどうか疑わしいが。それに、こちらに敵意がないわけがない。
  声にはならないどよめきが、何処からともなく湧き起ってくるのを感じながら、サンダウンは人
 ならざる者がこちらを見ているだろうと視界を巡らせる。
  今は姿は見えないが、きっとこちらの喉笛を狙って現れる事だろう。
  この場所には、人気はないが、悪意はみっしりと敷き詰められている。
  何かが動く音を耳が捉えた。
  視線だけを振り返らせれば、サンダウンがいる場所から少し下ったところに、何かが蠢いてるの
 が見える。それは一見すると人間のように見えたが、けれども人間であると判じるには尚早だった。
 例え人間であったとしても、誰かとつるむのはサンダウンの得意とするところではない。
  相手がよほど、こちらと関わる事が得意であるというのなら、話は別だが。
  ちらりと見えた影が、どうも自分よりも一回りも二回りも年下に見える小ささであった事が、サ
 ンダウンにはつるむ相手ではないと判断させた。まだ子供に見えた相手を、この薄暗い場所に放置
 し続ける事には少しばかりの葛藤があったが、相手が人間かどうか分からぬ状況では、無暗に親切
 心を出すのも愚かな話だ。
  もしも、良く見知った人間の姿であったなら。
  思って、首を横に振る。
  もう一度こちらに向かう影を良く見ても、その身体つきは小さくてやせ細っていて、サンダウン
 の知る姿には似ても似つかない。それに、もしも自分を追いかける賞金稼ぎであったなら、もっと
 賑やかしくこちらに来ただろう。
  のろのろした歩みでやってきたりはしない。何も恥じる事がないのだと背筋を伸ばして、笑みを
 湛えてこちらに向かってくるはずだ。
  そうではないあの影は、だとすればやはりサンダウンの知る人物では有り得なかった。
  サンダウンは、子供達の影が山小屋に至る道に差し掛かる前に身を翻し、その場所に背を向けた。
 仮に彼らに手を差し伸べたとしても、サンダウンとて濁った世界の事など良くは知らない。だから、
 彼らを守り切れるわけがない。
  まして今のサンダウンには、彼らを守る本分がないのだ。
  言い聞かせて、サンダウンは寒々しい色をした、けれども凍っているわけでも雪が積もっている
 わけでもない小道を、子供達とは別方向に歩き始めた。
  サンダウンとてこの世界の事は何も知らない。
  だから、歩き、調べる事は、たくさんあった。行くべき場所も、たくさんあった。
  目の前に広がる未開の森のように。