「俺なんかを信じなけりゃ良かったんだ。」



 朱に染まった床を背後に、同じく全身に赤を飛び散らせた男が、苦痛の向こう側で囁く。

 見下ろす黒い身体は、ぐっしょりと濡れて普段以上にその色を深めていた。

 しかしそれは些かの艶めきも見られず、そこから立ち昇る血臭が寧ろどす黒さを醸し出している。

 引き抜ぬかれた男の手。

 白く繊細で、自分のものと同じとは思えない指先は、ぬらりと赤く、僅かな光を浴びて光っていた。






 two faces








 
 脇腹から流れ出る血は、ようやく固まる気配を見せ始めた。

 しかし、傷口を弄るマッドの手は休まらない。

 サンダウンの苦痛が分からぬでもないだろうに、傷口に指を差し入れ、探っている。

 その手は二の腕まで赤く染まって、シャツもジャケットも、本来の色が分からぬくらいだ。

 頬にまで飛び散ったそれは、傷一つないにもかかわらず、サンダウン以上に血の気の失せたマッド
 
 の白い顔に良く映える。

 苦痛を耐える為にマッドの肩に抱きつくように爪を立てたサンダウンは、己の危機を忘れてそんな
 
 事を思った。

 そんなサンダウンの様子に気付いたわけでもないだろうが、マッドは低く呟いた。



「馬鹿じゃねぇのか、てめぇは。」



 傷口を慎重に探るマッドの眼は見えない。

 ただ、その声が、まるで自分が傷つけられたかのように苦悶に満ちている。



「あんたは、あの、保安官の言う事を信じてりゃ良かったんだ。」



 マッドが呟くのは、人望に溢れて温和な表情を見せていた、とある町の保安官の事。

 彼はサンダウンが何者であるのかに気付き、そして己が守るべき町で起きている殺人事件の事を、
 
 眉根を寄せて語ってきた。

 罪もない子供が次々に銃殺されていると。

 そして、それに手を染めているのは、ある賞金稼ぎであると。



「あんたは、俺が子供を殺したっていうあの保安官の言葉を信じてりゃ、良かったのさ。」



 保安官が指し示す証拠品の数々は、犯人がマッドであると示すような物ばかりで。

 けれど、サンダウンには、それがマッドの物ではないと直感で分かった。

 葉巻の吸い殻一つにしても、それがマッドが好む銘柄の物であっても、マッドはどれだけ苛立って
 
 いても葉巻を噛み締めたりしない事をサンダウンは知っている。

 それは全て、マッドを陥れる為の工作。

 

 その保安官が、温和な顔の裏で実は悪どい賞金首と繋がっており、その賞金首を狙うマッドを
 
 疎ましく思っていた事。
 
 けれども自分達の手では、西部一の賞金稼ぎの座に座るマッドを仕留める事は出来ない為、マッド
 
 が未だ仕留められずにいるサンダウンに近付いた事。

 そしてあわよくば、サンダウンも陥れてその首に掛けられた賞金を奪おうとしていた事。



 それらが全て分かったのは、一向に靡かないサンダウンに焦れた保安官と賞金首が、数でマッドを
 
 攻め込もうとした時だった。

 大量のカウボーイを投入してマッドを襲う二人から、マッドを見つけ出し、銃弾が混沌とする中を
 
 馬で逃げ出した。

 嵐のような銃弾の中、たった一発の銃を受けただけで済んだのは、奇跡に近い。

 焼けつくような痛みを抱えて、それでも連中を振り払い、埃塗れの廃屋に転がり込んだ。



 床に崩れ落ちた瞬間、同じように床にぶちまけられた血の量は、サンダウンの予想を遥かに超えて
 
 いた。

 尤も、サンダウンにはそれを驚く余裕などなかった。

 吐き気を伴う痛みは、とてもではないが意識を逸らしただけでなんとかなるようなものではない。

 それでも倒れ伏さなかったサンダウンに駆け寄ったマッドは、自分が打ち抜かれたかのような表情
 
 をしていた。

 苦しげにサンダウンの脇腹のシャツを裂き、止まらない血に布を次々と被せていく。

 歪んだ顔で、けれども慣れた手つきでサンダウンの臓腑へと近付く。



「………せめて、知らない顔で、どっかに行っちまえば良かったんだ。」 

 

 時折訪れる激痛にサンダウンがその指を肩に食い込ませる事には何も言わず、そしてサンダウンが
 
 何も言えない状況である事を知りつつ、マッドはそう囁く。

 死よりもより深い声で、しかしはっきりと激しさを込めて。

 痛みを堪える事でサンダウンの手がいっぱいだと、マッドの声を聞く余裕もないと思って、そんな
 
 事を本心から言う。

 

「あいつらが、あんたの事も、どうこうしようと思ってたって、あんた一人だったなら、どうにでも

 なっただろ。」



 銃で撃ち抜かれるなんて間抜けた事もなかったはずだ。

 そうかもしれないが、それでも。

 マッドがサンダウンを一人世界の外に置いてきぼりにしないように、サンダウンもマッドをあの嵐
 
 の中に置いていく事はできなかった。

 マッドが、他の誰かに持って行かれないようにと、こうしてサンダウンの命を繋ごうとするように、
 
 サンダウンもマッドを他の誰かに渡す事など出来ない。

 一度として自分を裏切った事のないマッドを、手放せるわけがない。

 

 不意に、マッドが口の端だけで笑った。



「あんた、悪運強すぎ。弾、動脈にぶつかるぎりぎりの所で止まってやがる。」


 
 血の海から這い上がるような眼差しで、マッドがサンダウンを見上げる。

 もう、彼の顔の下は黒と赤しかない。

 

「引っこ抜くぜ。」



 瞳に鋭い色を浮かべながらも、手は次に溢れ出るであろう出血を予想して、布を手繰り寄せている。



「舌、噛むんじゃねぇぞ。」

「ああ………。」

「へ……っ、あんた、こんな時でも腹が立つくらい冷静だな。」

「…………お前が。」



 お前が、命を繋ごうとしているのに、何をうろたえる必要があるのか。

 流れ出た血の事を考えれば、身体は冷え込んでいてもおかしくない。

 けれど、しがみついた身体が心臓そのもののように熱く、まだ死ぬには早いと叫んでいる。

 その熱が、サンダウンの命の糸を何よりもしっかりと掴み取っているのに、不安などあるわけがな
 
 い。



「いくぜ。」



 その言葉の一拍後、刃物を抉り込まれるような痛みが脇腹から全身に広がった。

 喉元まで熱い塊がせり上がる。

 眼の裏まで視界が狭くなり、頭が霞んだ。

 眼の前にある身体を握り潰す勢いで抱き寄せ、その肩口に顔を埋める。

 耳の奥ががんがんと響いて、それが自分の心臓の音だと気付く事さえできない。

 息をすれば、悲鳴が上がりそうだ。

 それでも、マッドの指の熱だけはしっかりと伝わる。

 マッドもそれに気付いているのか、片手で血を受け止めながら、もう一本の腕をサンダウンの身体
 
 に回してくる。
 
 互いで互いの身体に指を突き立てながら、必死になって相手の脈の在り処を探り合って。 







 どれだけ時間が過ぎただろうか。







 伝い落ちた汗も、荒い吐息も、どちらのものか分からない。
 
 どちらがしがみついていたのかも分からないくらい、血の中で抱き合って。

 

 のろのろとマッドが顔を上げた。

 拭き零れた血を受け止めた身体は、もう髪から何まで血が滴り落ちている。

 それは先程の激痛がどれほど苛烈だったかを十分に物語っている。

 その中で、変わらぬ黒い眼が瞬いた。



「取れたぜ。」


 
 もうもとの色が分からぬほど赤に染まった彼の手の中で、やはり真っ赤な塊が光一つ弾かずに転が
 
 っていた。

 見せびらかすように、それを摘まんで見せる。

 荒い息を零す口の端に、笑み一つ。

 

「あんた、よくやるぜ。弾を摘出する時に悲鳴一つ上げねぇとはな。」


  
 荒療治を、しかし恐ろしいまでの的確さで完了させた男は、ようやくその頬に赤味を取り戻し始め
 
 た。 

 だが、億劫そうなその動きは、彼もまた酷く消耗している事を知らしめる。

 そのマッドの頬を、サンダウンはマッドよりも更に力ない動きでなぞる。

 血を流したサンダウンの手は、血を流していないマッドよりも遥かに赤の色が少なく、汚れていな
 
 い部分でどうにかしてマッドの顔についた血を拭い去る。

 たったそれだけの動きが、酷く重い。

 それでも、



「自分で、出来る。」



 マッドが振り払った。

 それでも、とサンダウンは力の入らない指先を叱咤してマッドの腕を掴む。

 

「キッド、」



 咎めるようなマッドの声。

 その声に覆い被せるように、呼吸以外の運動を拒む気管を全力で動かす。



「信じるな、だと…………?」



 激痛の向こう側で、延々と続いていたマッドの言葉。
 
 まるでマッドがマッド自身を否定するような言葉。

 出来る事ならばこのまま塞いでしまいたい眼を、無理やり開いて、霞んだ視界にマッドを映し出す。

 もっと鮮明に見る為に、顔を近づけて。



「お前以外の、誰を、信じろ、と………。」



 途端にびくりと震えたマッドの身体。

 その隙を見逃さずに、のろまな腕の中に囲い込む。

 血みどろで掠れた声で、呪いに近い、けれど彼以外に捧げられるべき相手がいない言葉を紡ぐ。



 誰がどれだけ変わってしまっても、誰が豹変して醜く歪んでしまっても、裏切ったとしても、この
 
 男だけは一陣の揺らぎもない。

 サンダウンに笑いながら銃を突きつけて、その一身にサンダウンを受け止めて。



「お前ほど、信じるに値する姿勢を見せた者は、いないのに。」



 この世の誰が、彼を信じるなと言っても、そんな言葉は聞こえない。

 言葉よりも、彼の熱は雄弁だ。

 

「あ…………。」



 一つ息を零して僅かに身を捩ろうとしたマッドを、腕はほとんど使い物にならないため、全体重を
 
 掛けて押し止める。

 サンダウンが凭れかかっているため、動くに動けなくなったマッドは、亀のようにゆっくりと這い
 
 上ってくる手に震えた。

 サンダウンの手が行きつく先は、顔を汚した赤が一筋流れ落ちた頬。

 血とは別の液で濡れたその場所からは、マッド本来の頬が覗いている。





 滑り落ちた滴が僅かに残るその場所は、溜め息が出るほど温かかった。 














TitleはB'z『信じるくらいいいだろう』より引用