マッドは脇腹に火鏝を押し付けられたかのような灼熱を抱えながら、しかしひくりとも粗点を逸ら
さなかった。
 痛みに呻き声を上げた事もあったが、今は既にその時期を通り過ぎている。頬にもひりつくささく
れが作られて、脚は動く事も億劫なほどに重く、服の下を生温い体液が伝い続けている。銃を掲げる
手などは、夜目で良く見えないが、真っ赤になっている事だろう。指の一つも千切れていない事が、
奇妙なほどだった。
 満身創痍。
 マッドは己の状況をそう判じ、しかし心の底から鼻歌でも歌いたいほどに、にやけていた。気分は
完全に天国さえも通り越し、宇宙の果てまで飛び越えている。
 血の匂いに酔っているのか、銃声に心奪われたのか、どうにも愉快で堪らない。
 ただ、心だけは冬の夜空ほどに澄み渡っている。吹き荒ぶ寒波以上に研ぎ澄まされている。
 脈打つ己の心音でさえ聞こえぬほどに、夜の闇に紛れる、それよりも、なお一層に暗い影の気配を
探る。
 汗でバントラインが滑る事さえ気にならない。銃は己の手に、まるでもともと身体の一部であった
かのように貼り付いている。黒い咢を掲げ、次に吼えるのは今かと硝煙を涎のように垂らす。
 それは、バントラインの向こう側で動かぬ影も同じ事。
 果たして、流れてきた硝煙は、マッドのものだったのか、それとも粗点を合わせている男のものか。
 どちらでも構いはしない。
 マッドは、浮かれた気分のまま、子供のように小さく色んな歌を口ずさんでいた。

 星々がその槍を投げ捨て
 その涙で天を潤した時
 造り主は己が所産を見て微笑んだか
 仔羊を造ったものがお前を造ったのか




 Tyger! Tyger!





 どうしてこんな血みどろの、凄惨極まる状態になったのか、マッドにはさっぱり分からない。
 いつものように、決闘を始めた。そこまではいい。
 だが、決闘とは本来一瞬で決着が着くものだ。
 剣ならばともかく、このご時世、まして此処は未だ中世の香りが漂うヨーロッパ大陸ではなく、法
も文化も未発達なアメリカ西部の荒野だ。無頼者が流れゆくこの土地では、決闘もルールこそあれど
格式はない。
 ただ、銃で一撃。
 そのもとに相手を仕留める。
 尤も、わざわざ決闘を――格式も何もないが、けれども名誉のある死を、ならず者や賞金首に授け
てやる必要はない。
 マッドは賞金稼ぎだ。賞金首に、わざわざ名誉ある死を与える事は、全くないわけではないが、余
程のことがない限りはしない。
 しかし、今回の獲物は、その余程の事をするだけの価値がある得物だった。
 これまでも何度も決闘には持ち込んだ事はあるが、一度として勝ち得たことがない――そして、言
い換えればマッドが未だ死んでいない事から、獲物のほうはマッドに名誉なんてものを与えようとし
ていないのだ。
 どうにも腹立たしかったが、獲物はマッドをひるませるとすぐさまに駆け去っていくのだから、こ
れまた腹立たしい。
 どれだけ悪態を吐いても、その手入れもしない金の毛を風にそよがせて、青い眼は何一つとして見
ようとしない。 
 その様相は、人間よりも野生の獣に近い。人間になど興味を示さず、しかし必要であるならば人里
に降り、人目を避けるようにひっそりと去っていく。
 オオカミ、コヨーテ、ジャッカル。
 いや、ああいう群れる獣じゃない。
 ピューマ、ヤマネコ、ジャガー。
 あの辺りの、一人で狩りをする、肉食獣だ。
 でもあのおっさん、図体だけはでかいから、もっとでかい獣だな、うん。
 マッドは全身の痛みも忘れ、一人で納得して頷く。
 しかし、その人目を避けるようにして狩りをして、獲物を無言で咥えて立ち去っていくような賞金
首が、決闘なんていう人間にしか理解できない――いや獣ならば、縄張り争いだとか、雌の取り合い
とかがあるか、しかしそれも興味がなさそうだ――事に、今日は何を思って乗ってきたのか。
 いや、一応は作法としていつも相手はする。
 ただ、一撃。致命傷どころか、掠り傷にもならない銃声を浴びせかけ、その咆哮が途切れぬうちに、
ひらりと後脚で砂を蹴り上げて何処かに行くのだ。
 今日もそうなるはずだった。
 マッドとしては、そんな予想は外れるべきなのだが、大抵がその予想であっている。
 しかし、その当たるべくして当たる予想が、今日は外れたのだ。
 外れて、今はマッドは血みどろだ。いや、マッドだけではなく、闇に金の毛並みを埋め、青い眼で
此方を見る獣も、やはり多少の手負いにはなっているだろう。
 それでも、その動きは野生の獣もかくやというほどに、疲れを見せないしなやかな動きをしている。
凄まじい、しかし静寂そのものの警戒を以てして、マッドを見つめている。その真鍮の咢は、マッド
の黒い咢よりも確実に、血に濡れているだろう。
 はてさて、この獣は、こんなに獰猛だっただろうか。常日頃、人を恐れているかのように、町には
近寄らず、餌のない荒野で生きる事を良としているのに。マッドが吠え立てても、一声吼えて追い払
うだけなのに。
 何が、この巨大な獣の琴線を掻き立て、マッドをこうして今にも噛み殺そうとしているのか。
 マッドの唸り声が、バントラインから吐き出された一つの鉛玉が、初めてその鬣を掠めた事が、切
欠だったのか。それとも何の気紛れか、いつもならばマッドの牙を弾くだけの銃弾が、マッドの肩の
肉を引き千切った事で、血に酔ったのか。
 発端は、既に夕日が連れ去っていってしまい、一撃で終わらなかった決闘は、一撃で終わらないま
ま、血を流し続けている。
 しかし、それはマッドにとっては好機以外の何物でもない。いや、どんな状態になろうとも追い詰
められているのはマッドだ。流す血の量は、マッドの周りが噎せ返るほどの匂いでいっぱいになって
いる事からも、明らかにマッドのほうが多い。
 だが、この男と此処まで延々と銃を向け合ったのは初めてだった。
 おそらく、今宵、初めて、そして最後の、決着が着くだろう。
 長引く応酬は、マッドの体力を削り、それ故に、マッドにも勝機を見せている。一瞬で定まる決闘
ならば、こうはいくまい。どちらかが、その心音を断ち切って終わりだ。
 これは、正に獣同士の戦いだ。
 マッドは、バントラインの中の銃弾を確認し、そこに最後、一つしか弾が残っていない事に顔を顰
る。勝機は見えたが、そこに行くまでをどうやって持っていくか。
 獣の応酬だけでは、どうにもできない現実を、マッドは目の当たりにする。
 その間、闇の中で青の眼が爆ぜるように煌めいている。常時は、そんなふうに煌めきもしないだろ
うに、一体何がそこまでに酔わせているのか。
 その心の琴線も、蠢きも揺らぎも、マッドには到底理解できない。
 もしかしたら、心の片隅で、そう思っていたのかもしれない。この男は、果たして人間なのだろう
かと、マッドは心の何処かで、その疑問を投げかけていたのかもしれない。いつも人の事など興味な
さげに、まるで獣のように生きる男が、自分と種を同じくする存在なのか、と。
 そして、実は気が付いていた。
 何よりも、眼の前の男そのものが、自分自身の事を人間以外の何かではないかと思っている事に。
 その、互いの思いが行き違って、だから決闘が一撃で終わらずに、まるで獣の狩りのように、逃げ
と強襲と追撃が繰り返される、凄惨極まりない、天地開闢からこれまでに幾度も行われてきた自然の
節理が、行われているのかもしれない。
 そう、決闘なんてものは、実は不自然極まりない事なのだ。
 獣は、決闘などしない。
 名誉を求めるのは、人間だけだ。
 獣は、ひたすらに実利を求める。
 故に、だからこそ、マッドは眼の前で、撃鉄の唸り声を上げている青い眼の獣に、幾度も決闘を、
白の手袋を投げつけていたのだろう。
 今にも獣に転落するであろう男が、微かに縋るような素振りで、己の業でもある銃を掲げるから。
 一体、どれほどの業が、その腕に降ろされたのか、マッドには分からない。マッドの咢を零れ落ち
るほどの強靭さがあったが故に、そこに負わされた業は重い。
 強靭であるが故に同じ人とは思えず、それ故の業故に己も人と同じとは思わない。
 それらを、マッドの疑念と己の疑念を悟ったから、こんな獣じみた所業に踏み切ったのか。青い眼
を、見る者が見れば恐怖で踏鞴を踏むほどに、煌めかせて。
 からり、と最後の一撃である鉛玉が、微かに音を鳴らす。
 その音が、人である証明である事を聞き分け、マッドは、暗がりで嗤う。
 獣は、弾の数など気にはしない。息の根を止めるその瞬間だけを夢見ているものだ。だから、マッ
ドは獣にはなれないだろう。
 おそらく、あの男には、マッドの表情の変化が分かったはずだ。
 マッドが笑っていることも、その眼が己に負けぬほどに、黒々と煌めいている事も。人間離れした
その力で、見切っている事だろう。マッドの手元に、たった一発の銃弾しか残っていない事も。だが、
その銃弾が、人間の意志であることにまで、気が付いただろうか。
 マッドは暗がりに膝を突いている。しかし隠れてはいない。
 身を隠すつもりは、毛頭ない。
 マッドが行っているのは、決闘だ。
 確かにこれは狩りだ。しかし、獣のするそれではなく、マッドの意地と名誉が掛かった決闘だった。
マッドは、荒野で生きる動物を撃ち落して喜ぶ趣味はない。それを誉れとする趣味もない。
 マッドが誇りをかけるのは、決闘だけだ。
 そして、獣に決闘はできない。
 鈍っていた膝を叱咤し、出来うる限り優雅に立ち上がる。空いていた手で葉巻を掴み、口に咥える。
火は着いていないが、その必要もないだろう。葉の味だけを噛み締めて、マッドは笑みを深めた。頭
上では、星が空を濡らしている。

「さて、と随分と長引いちまったが、そろそろ終わりにしねぇか?俺か、あんたか、どっちかが地面
にキスしても良い頃合いだ。」

 撃ち合いの最中、吼える以外に忘れていた言葉を吐く。声は十二分に滑らかだ。忘れているわけで
はない。
 真鍮の咢を掲げた獣は、唸り声も出さず、しかし飛び掛からずにマッドの言葉を待っている。

「俺はこれ以上、あんたとやり合うつもりはねぇな。何せ弾切れだ。身体も持たねぇ。あと一発やる
のが限度だ。」

 だから、と。
 マッドはくるりと銃を手の中で一回転させ、帽子の鍔で止める。
 爛々と、その業のように燃え盛る青い眼に、マッドは煙のない葉巻の煙を向ける。その炎を、掻き
消すように。

「次の一撃で、決めようぜ。」

 なあ、サンダウン・キッド
 星明りの下で、ようやく、サンダウンの顔がはっきりと見えた。金の髭と髪、古びた帽子の間で、
青い眼が星の槍を受けて、一つ、煌めいた。
 業のように。
 それを撃ち落す為に、マッドは銃を掲げた。
 いつものように、無慈悲に、容赦なく、そして偽善者ぶらずに。





 ぬばたまの夜の森に燦然と燃え
 そもいかなる不死の手 はたは眼の作りしや
 汝がゆゆしき均斉を