尼僧からの依頼に、マッドは誰にも聞こえないような吐息を漏らした。ゆっくりと息を吐き出し、
赤毛の尼僧の緑の眼を見つめる。

「そりゃあ、どういった理由で?」

 宣教師からは、自警団の団長を捜してほしいと言われている。それは勿論、彼の者を無事に自分の
元に届けてほしい、という意味合いも籠っている――駄々を捏ねたら引き摺ってでも連れて帰る、と
か言っている以上、それ以外の意味合いはないだろう。
 しかし、眼の前の尼僧は、そうではなく見つけて殺せ、と言っている。
 宣教師と尼僧の間に横たわる、圧倒的な違いは、果たしてなんなのか。

「彼の者が、悪魔に魅入られた者だからです。」

 決然とした光を湛えた尼僧の瞳。そこには自分の発言に一切の間違いが存在しないと信じ切ってい
る。
 それは、マッドから見れば、狂信としか思えないのだが。 
 だが、宗教に従事するものは、大概こんなものであることも、マッドは良く知っている。宗教とい
ものによって作り出された組織の末端に向かえば末端に向かうほど、狂気の度合いが高くなることも。
或いはその逆――地位が高ければ高くなるほど冷徹さを増すことも。
 末端は神しか信じられず、高みに居る者は自分と神を重ね合わせるのだ。
 この女は、果たしてどちらか。
 尼僧だから、末端だろうか。
 しかし、マッドはふと、尼僧が右手で握り締めている銀の十字架に眼を止める。十字架が銀である
ことは珍しくはない。しかし、繊細な細工を施し、縁に点々と宝石を埋め込んでいるそれは、末端の
宗教家が持つものではない。
 では、この尼僧は、そこそこの地位にいる者だったのだろうか。けれども、女が――教会において、
女は総じて見下される――そんな上等な地位につく事が出来るだろうか。

「彼の者は、悪魔憑きなのです。」

 マッドが尼僧を見定めようとする視線の最中、尼僧は再び悪魔という言葉を放つ。

「貴方様もご覧になられたでしょう?この、異教の渦巻く地を。神を知らず、物事の影に蠢く者共を
崇め讃える土人共を。いいえ、何も知らぬ彼らは無知であるだけ。故に我らが彼らを誑かす悪魔を祓
い、彼らに正しき教えを埋めるのみ。けれども、彼の者は、あの自警団の団長は違います。」

 尼僧が十字架を握り締める手に、力が籠った。そのまま宝石が尼僧の皮膚を突き破り、血を流すの
ではないかと思うほどに。

「あの自警団は、我等の神を知っている。元は我々と同じ神の使徒。けれども、にも拘わらず、この
地に蠢く異形に魅入られ、そちらに心を委ねたのです。」

 それは、実に罪深い。
 しかし、神という者を端から信じていないマッドにしてみれば、だから、それがどうした、としか
言えない。彼ら教会の者達にとっては、神こそすべてであるのだろうが。
 ただ、マッドが気になる事は一つだ。

「あの宣教師は、そんな事一言も言ってなかったが?」

 すると、尼僧の眼に激しい炎が吹き上がった。
 ただ、声だけは押え込んで。

「神父様は、お優しいから。」

 優しいから駄目、なのではなく。

「お優しいから、悪魔に魅入られた者でさえ救おうとなさるのです。けれども、彼の者は自ら悪魔に
心を売り渡した。そして異形の住まう森に姿を消した。神父様は彼の者を森から人の地に連れ戻し、
そうすれば元に戻ると思っていらっしゃる。けれども、自ら悪に身を堕とした者に、如何なる悔恨が、
贖罪が望めましょうか。」

 尼僧は眼に炎を宿したまま、マッドにきっぱりと告げる。

「彼の者に必要なのは許しではなく、ただひたすらの、罰の鉄鎚です。」
「それは、宣教師の望みとは違うんじゃないのか?」
「神父様には、おいおい、私からお話いたします。」
「宣教師が、あんたの言葉を聞くのか?」

 尼僧の眼に宿る炎が一瞬怯み、しかし先程よりも激しく吹き上がった。

「聞いてくださいます!必ず!」

 まるで、獣の咆哮のようだった。
 マッドはその声に、微かに嗤う。
 嗤い、肩を怒らせる尼僧を一瞥して、踵を返す。教会の粗末な扉を開きながら、一体誰が悪魔に魅
入られているのか、と腹の底で呟く。
 あの、宣教師を。
 尼僧は優しい事を詰るかのように言ったが、それは優しさを詰ったのではなく、その優しさが己に
向いていないから詰ったのだ。
 宣教師の眼は、ただただ、行方不明の友人を捜しているから。
 教会で妙な真似をしないでくれ、と真っ赤になって告げた宣教師を思い出す。いやいや、一番妙な
真似をしているのは、その教会の尼僧だ。あの宣教師はその辺りの事を、分かっているのだろうか。
 分かっていないだろうな、どうみても、童貞だしな。
 神父だから仕方がないだろうが。しかし神父である以上、妻帯は無理ではないのか。尼僧も同じく
だろう。けれども、あの尼僧の様子――煌びやかな宝石を手にしていた様子を見るに、彼女は全く以
て敬虔な信者である可能性は低い。
 仮に敬虔な信者であっても、自分の都合の良い解釈で成り立っている信者であるかもしれないのだ。
 あの宣教師、今まであの尼僧に夜這いとかされなかったのか。
 マッドは、随分と下世話な事を考えているな、と思いながら教会の外を見回す。
 異教の地、とあの尼僧は言った。侮蔑の眼差しで、この地を見つめた。しかし、ではあの尼僧はこ
の地の者ではないのだろうか。
 マッドは、尼僧の言葉遣いを思い返す。訛りのある言葉。それは間違っても、イギリスからの者で
はない。イギリスに縁者もいないだろう。
 かといって、ではどこの土地の言葉かと問われれば、首を傾げる。要するに、いろんなものが混ざ
って、本国が何処であるのか分からないのだ。こういった輩は、成金に多いのだが。
 成金貴族の娘が、尼僧になったのか。
 ならば、この地を、蔑む事など出来まいに。この地によって成り上がったのだから。

「あのシスターのいう事を、聞いてはいけないよ。」

 薄い笑みを刷いていたマッドの脚元で、まだ幼い声が聞こえた。
 はっとして見下ろせば、襤褸を頭から被り壁に凭れ込んだ状態で座り込んでいる姿があった。声に
相応しく、身体はそれほど大きくない。

「彼女は、嘘を吐いているからね。誰にも彼にも自分にも。」

 襤褸の下から覗いたのは、真っ黒い眼と日に焼けた黄色い肌だ。声の節々に独特の響きを孕んでい
る。インディアンだ。

「あの女の言葉を鵜呑みにするべきじゃねぇってのは分かるが、嘘吐きだってのは?」

 インディアンだろうが、マッドが怖気づいたり態度を変えたりする必要は全くない。マッド・ドッ
グとは相手が誰であろうと変わらない男だ。
 インディアンは、幼い顔に浅い笑みを浮かべた。

「そのままの、意味さ。彼女は、ただただ、この地の神と精霊を、恐れている。」

 尼僧が、異形のものだと吐き捨てた者共。

「そして、消えた自警団団長は、彼女の罪を知る人間の一人だ。彼女は、だから彼をも恐れる。」
「罪ってのは?」
「僕は知っている。けれどもそれは、彼らが語るべきではないと決め、口を閉ざした。誰の為にもな らないと。だから、僕も口を閉ざす。彼は、僕達の恩人だ。」
 難解な、詩のような台詞だ。これはもしかしたら、呪い師ではないのか。けれどもマッドはそれよ
りも別の事に気が付いた。

「………お前、男か。」

 性別を感じさせない、けれども微かに、同じ性の匂いがした。
 マッドの指摘に、彼は、薄く微笑んだままだった。戦士ではない、語部の男。

「彼女についてはこれ以上は語れない。代わりに、僕達の神についてなら語ろう。巨大な、雷を伴う
鳥の事なら。」