「お前は、何を言ってるんだ?」

 自警団の団長の答えは、酷く怪訝そうなものだった。眼差しは冗談抜きに、こいつ何を言っている
んだろう、とサンダウンを見つめている。
 見つめられたサンダウンは、あれ、と思う。
 サンダウンのこれまでの経験上――自分の中に蟠る闇も含めて――あの宣教師は間違いなくこの男
にどうしようもない欲望を持っており、告解室でその欲望を吐き出したのだと思ったのだが。
 自警団の団長の怪訝な様子を見るに、どうもそこまで行ってないようだ。
 宣教師が腰抜けなのか、それとも理性の塊なのか、そこは評価が分かれるところである。そのへん
の評価はおいておくとして。
 いずれにせよ、あの宣教師の闇に近い情は確かだ。行動が伴っているかは別だ。それは、情を向け
られているこの男には通じていないのだろうか。
 サンダウンは、自警団団長の湖水のような眼を見つめる。見つめて、マッドも微妙に気が付いてい
ないから、この男もまた気が付いていないかもしれない、と思う。押し倒されても気がつかない人間
というのは、稀にはいるのだ。
 が、ふと、男はサンダウンから眼を逸らした。銀の髪が、さらさらと音を立てる。

「抱かれたりなんかは、してねぇよ。」

 苦味を伴う言葉には、抱かれる事はなくても、それに類する何かしらがあった事を示している。
 あの告解室で。

「………何があった?」

 サンダウンは端正な顔の中で眉間に皺を寄せている男の顔を眺めて、問う。あの告解室では、少な
くとも、尼僧が彼に憎悪を抱くに値する事が行われたはずだ。

「愛している、と言われただけだ。」

 あの夜、と男が遠い眼をして呟く。
 告解室に呼び出されたあの夜、彼は特に何か重大なことがあるとは思っていなかった。もしかした
ら、尼僧の処遇の事について、もしかしたら何かあるのかもしれない、くらいにしか思っていなかっ
た。 
 父親である司教が死んだ後、尼僧の立場は決して良いものではなかった。彼女は犯罪者の娘であり、
肩身の狭い思いをして暮らしていた。そもそも二年前、自警団の団長である彼は、尼僧を他の街に追
放すべきだと考えた。けれどもその考えを、宣教師が否定したのだ。

「その時は、あいつが、あの女に惚れてるからだ、と思ったんだ。」

 けれども実際は違った。宣教師は贖罪として、尼僧がこの街に留まりこれまでの贅を凝らした暮ら
しを反省すべく、冷たい眼に曝されるべきだと考えて、そう言ったのだ。宣教師が尼僧に対して何も
思っていないのは、その後彼が一度イギリスに帰った時、一人で帰ったことからも分かるだろうに。
尼僧は、冷たい目線の只中に置き去りにされたのだ。

「………お前は、イギリスに行く時に誘われなかったのか?」
「冗談だと思ってた。あいつが貴族である事は、知ってるからな。」

 宣教師は、誰よりもこの男を連れて帰りたかっただろう。けれどもその言葉は、冗談として聞き流
されたのだ。貴族社会に入り込むなど無理だと、常識に照らし合わせて、自警団団長は冗談ですませ
た。

「あいつがまたこっちに来たのも、仕事だろうと思った。あいつは宣教なんて少しもしてないから、
叱られて、もう一度やってこいって言われたのかと。そう、冗談交じりに言ったこともある。」

 けれどもそうではなかった。仕事でもなく、まして仕事ぶりが悪かったからやり直せ、というので
もなく。

「あいつは、一緒にイギリスに戻ってほしい、と言った。」

 告解室に呼び出された時、宣教師は真っ先にそう言ったのだ。
 次にイギリスに戻る時は一緒に、と。
 当然、冗談だと思った。けれども表情が真剣だったので、そんなお綺麗な場所には行けない、と断
った。

「俺はこちらで生まれて、こちらで育ってきた。正直、今よりも裕福な暮らしなんてした事がない。
貴族の生活なんてできやしねぇ。その時はあいつが俺に何を求めて、イギリスに来てほしいと言って
いるのか分からなかったから、そう言って断った。」

 何をしてほしいのかは知らねえけど、イギリスのほうにもっと上手くやってくれる奴がいるだろう。
 そう言った瞬間、手を取られた。親指の腹で、ゆっくりと手の甲をなぞられて、

「俺じゃないと嫌だと、あいつは言った。」

 愛している。君以外は嫌だ。
 そう言って、抱きしめられた。抵抗する暇もないくらいほどの、素早さで。
 もしかしたら、そのままいけばサンダウンの言う通りに押し倒されて抱かれてしまっていたかもし
れない。しかしそうはならない。
 肩を引き寄せられて抱きしめられた、その瞬間に、

「俺は、気が付いた。」
「そうよ、私は見ていた。」

 唐突な女の声。
 サンダウンは、女が――尼僧が近づいていた事に気が付かなかった。眼の前の男の気配が深すぎて、
分からなかったのだ。だが、自警団の団長のほうは、気が付いていたようだ。一瞬目を伏せて、声が
した方を振り返る。銀の睫に縁取られたその眼には、酷く痛々しい光が宿っている。
 しかし、彼が振り返り尼僧の姿を瞳に捕えるよりも早く、尼僧が両腕にしっかりとナイフを握り締
めて突っ込んできた。
 けれども、尼僧の決死の突進は、いとも容易く躱される。
 よせ、と男は短く、何かを堪えるような声で尼僧の行為を制止する。

「俺はお前を人殺しにさせるつもりはねぇ。」
「人殺し?人殺しですって?それはお前のほうじゃない。私の父親を殺しておいて!」
「…………。」

 その瞬間に、男の中に去来したのは何だったのか。何かを諦めるように首を横に振る。そんな自警
団の団長の態度に、自分は何もかもを奪われたと信じている尼僧は獣のように喚き立てる。

「お前を殺したところで罪にはならないわ!だってお前は人間じゃないもの!私は知ってるのよ。」

 二年前。
 勝ち誇ったように女が叫ぶ。

「お前は、この地に住み着いた悪魔に魂を売り渡したって事。私は、知ってるのよ。見てたんだから。
お前が、雷に打たれても死ななかったところを!私の父親はそれで死んだのに、お前だけがのうのう
と生きてた事を。雷の轟音が轟いた後、父は血を流して死んでいたのに、お前は生きてた!」
「違う。あれは、雷なんかじゃあない。」

 自警団の団長は、とにかく疲れ切った声で吐き捨てた。

「あれは、お前が撃った銃の銃声だ。」

 二年前。
 二年前のあの夜。証拠を持って万全の態勢で司教の元に向かった自警団の団長と宣教師を待ち受け
ていたのは。
 異教の少年に恋をした父親を追い詰める女の姿だった。
 司教は恋人である少年と共に何処かに逃げようとしていたのだろうか。今まで父親の恩恵を受けて
きた尼僧には、それだけは許せなかった。これまで尼僧は父親の罪は見てこなかった。知っていない
はずがないのだが、尼僧は自分自身を騙して何も知らない存在になっていた。
 尼僧が、何不自由なく暮らしていくためには、父親が性犯罪者であることは大した問題ではなかっ
たのだ。
 けれども父親は一人の少年に恋をして、それによって次第に尼僧へ傾けられる資金は少なくなって
いった。
 そしてその夜、追い詰められていたことが分かっていただろう司教は少年と共に何処かに逃げ出そ
うとしていた。尼僧は、置き去りだ。司教にとって尼僧はどうでも良いものだったのだ。
 司教である父親がいなくなれば、当然尼僧の生活は保障されなくなる。
 だから。

「お前は何もかも忘れてしまったし、その当時の事は何も聞こえていなかったし、今もそうなんだろ
う。お前が雷だと思っているのは銃声で、その銃声はお前が放ったものだ。」

 銃声は過たず、司教を撃ち抜いた。止めに入った自警団の団長の脇腹を掠め、司教の胸を撃ち抜い
た。

「知らないわ。」

 尼僧はあっけらかんとした声で答えた。本当に何も知らない、と言わんばかりの声で。本当に、忘
れてしまっているのだ。

「………現実を、今まで見せてやらなかったのか?」
「見せたが、こいつには見えねぇんだ。」

 狂っているのではない。ただ、その部分だけがぽっかりと抜け落ちている。ただ、それでも何かが
覚えているのか、

「銃には触れる事もできないんだ、こいつは。」

 父親を殺した凶器には。

「化け物の戯言に、これ以上付き合うつもりはないわ。」

 尼僧は、先程までの言葉など聞いていなかったかのように、再び刃を向けた。