その男は、擦り切れた僧衣を纏っていた。
 擦り切れていても僧衣は僧衣だ。僧衣の長い裾を解れさせた姿は、場末の酒場で見かけるものでは
なかった。
 ウェスタン・ドアを押し開いて入っていた男の姿に、それ故に大勢の男達が視線を投げかける。神
父か牧師か、カトリックとプロテスタントの違いがよく分かっていない男達の目から見ても、それで
も黒色の僧衣がイエス・キリストとその父たる神の教えを説くものであるとは理解できただろう。
 そんな、教会に属する男が、ささくれだった薄暗い葉巻の煙の蔓延する場末の酒場に、何の用があ
るというのか。
 よくよく見れば、まだまだ若い僧のこと、ここで説教を始めるつもりかもしれないし、或いは何ら
かの施しを求めるつもりなのかもしれない。
 最初の登場の衝撃が過ぎ去れば、場末の酒場に集う者達は、そんな性の悪い事を考えた薄笑いを浮
かべて、若い僧侶の動向を観察し始める。
 金の髪をふわふわと揺らしながら、若い僧侶は薄汚れた酒場の中をきょろきょろと見まわし始めた。
明らかにこの場に慣れていない仕草に、わざとらしい忍び笑いがそこかしこから沸き上がった。
 けれども僧侶はそんな性悪な言動には見向きもせず、カウンターの奥にいるマスターを呼んだ。
 だが、彼のマスターへの質問は、彼を小馬鹿にして笑っていた男達の顔を凍り付かせるものだった。

「ここに、マッド・ドッグがいると聞いてやってきたのだが。」

 言外に、マッドは何処だ、と僧侶は問うている。僧の問いかけに、マスターは驚いた素振りこそし
なかったが、不愛想な声で、

「僧侶がマッド・ドッグに何の用だ。」

 と不審を込めた質問をし返した。
 マッド・ドッグと言えば、西部一の賞金稼ぎだ。狂気を冠したその名の通り、狙った獲物は地の果
てまで追いかけ、その喉笛を食い千切る。
 見た目は優男に見えたとしても、中身は肉食獣のそれだ。故に、神にも神の子にも聖霊にも頭をな
ど垂れないだろうし、当然、神父にも牧師にも縁がないはずなのだが。
 けれども、目の前の僧衣を着込んだ若者は、はっきりとマッド・ドッグを指名している。
 よもや、僧衣は偽装で、実は中身は賞金稼ぎとかなのだろうか、と皆が疑っているうちに、店の奥
のほう――賭博場よりも娼婦の溜まり場よりも更に奥に漂う紫煙の奥から、滑らかな音楽的な声が返
事をした。

「俺なら、此処にいるが?」

 葉巻の煙の向こうで、ぼんやりと浮かび上がる黒。誰もを押し黙らせるような響きを持った声音で、
マッド・ドッグは確かに己は此処に所在していると告げた。
 長い足を優雅に組んで、うっすらと笑みを刷いて――なお、この時サンダウンは生活必需品を買う
為にどこか別の場所に行っていた――マッドは己を訪ねてきた若い僧侶を見やる。
 若い僧侶は、ああ、と安どしたようにマッドの元に歩いていく。その様を周囲の男連中は眺めてい
たが、マッドの冷ややかな目とぶつかって、慌てて視線を逸らした。マッドが不躾な眼差しを厭うの
は今に始まった事ではない。マッドが賞金稼ぎとして掻き集めている最中なら、猶更だ。聞き耳を立
足取りててマッドの獲物を先取りしようものなら、次の瞬間には自分が死体になって転がっている。
 マッドの不興を買うのは本意ではない男連中は、マッドと若い僧侶を意識の外に追いやると、再び
ポーカーやら娼婦とのやり取りやらへ没頭し始めた。
 男連中の視線が、若い僧侶がこちらにやって来る間に逸れたことに満足したマッドは、自分の前に
断った若者を改めて見やった。
 若い、おそらくマッドと同じくらいかそれ以下の年齢の、男だ。きびきびとしたやすっきりと伸び
た背筋は、もしもこれがもう少し年を食って、更にもっと立派な僧衣を着せれば、随分と威厳ある司
教に見えたことだろうな、と思う。
 だが、顔立ちは本当に若々しく、微かにあどけなささえ見える。サンダウンから見ればマッドもそ
うなのかもしれないが、そんなマッドの目から見ても、目の前の若者は全身のそこかしこからあどけ
なさを醸し出していた。
 しかし一方で、マッドの元に歩いてくるまで不必要な足音を立ててこななったところを見るに、そ
こそこに鍛えられた身体をしている事が見て取れる。
 そして、先程聞こえたマスターへの問いかけ。問いかけの内容――マッドを指名しているのも気に
はなるが、それ以上にその声音。西部ではなかなか――本当の上流階級でもなければ、お目にかかれ
ないクイーンズ・イングリッシュだ。
 さて、どうにもあちこちがちぐはぐなこの男は、一体何者か。
 マッドは笑みを唇に薄く浮かべたまま、若者を見上げる。
 見上げて、若者が金の髪と青い眼をしている事に気づき、サンダウンと同じ色合いだ、と思う。尤
も、サンダウンの髪の色は、長年の荒野暮らしで完全に砂色になっているけれども。
 あれは保護色だな、と意識が別の方向に向いたその時だった。僧侶の口が動いた。

「――――。」

 僧侶が発したのは、誰かの名前だった。ありふれた、男の名前だ。
 だが、マッドが別方向に飛んでいた意識を、その場に一瞬で取り戻すだけの効果があった。何、と
マッドが問うと、若い僧侶は微かな笑みを浮かべて、

「やっぱりそうなんだね?」

 確かめるように尋ねる。
 見事なまでのクイーンズ・イングリッシュ。先程まで感じなかった、陰鬱な霧の漂いと咲き誇る大
輪の薔薇と薫り高い紅茶の気配が、確かに僧侶の背後で立ち上がった。

「……てめぇは、誰だ?」

 マッドは片手で葉巻を懐から取り出しながら、若者に問いかけた。
 僧侶は屈託ない笑みを浮かべ、覚えていないかい?と言った。

「まあ、ずっと昔――子供の頃に二、三回あったくらいだから、仕方ないかな。」

 それはそうだ。霧の都を知っているマッドは、本当に幼い頃のマッドだ。
 そして、僧侶が話しかけている、先程呼んだ男の名前も。

「私はエインズワース。ウィリアム・エインズワースだ。」

 マッドが遠い昔に置き去りにした名前を呼んだ僧侶は、そう名乗った。