広大なはずの荒野は、いつしか酷く閉塞的な空気を持つようになっていた。
 
  乾いた風は生温かく、さらりとした砂は妙に粘ついている。強い群青の眩しかった空は常に煙に
 
 覆われているように霞み、太陽の光は遠い。夜になれば星は見えず、月さえ顔を隠し、あちこちで
 
 焚かれる篝火はしかし石油の臭いを放つばかりで、それはどうしようもなく荒廃した臭いに似てい
 
 た。


  じりじりと世紀末が訪れようとしているアメリカ西部。

  足跡が行きついた西の果てからは、しかしかつての性急で荒れ狂うような魂は何処にもなく、ひ
  
 たすらに怯えた足音が、北へ南へ東へと散らばっていった。
 
 
 


  10. ten feet tall









 
  久しぶりに冷たい風が吹くその夜、今にも燃え尽きそうな篝火が一つ、西部の荒野にぽつんと落
  
 とされていた。

  かつては金を生み出す土地として栄えたそこも、今は草木一つ残っておらず、灯る炎さえ希望の
  
 種と言うにはあまりにも小さく、絶望に呑み込まれすぎた。
 
  粘ついた血の臭いが染み込む不毛の大地に蹲り、まだ幼さの残る青年は、鳶色の眼に風に煽られ
  
 る炎を映しながら、今から行く自分の生まれ故郷の事を思う。

   

  やはりかつてゴールド・ラッシュで栄えたその地が、その波が去った後は寂れる一方で、最終的
  
 には血と泥の中に呑み込まれたのは随分と前の事だ。

  ならず者達の強襲を受けながらもなんとか生き延び、ほそぼそとしながらも人が生活していたそ
  
 の町は、ある日突然引き裂かれた。

  あっと言う間に灰に返った町の姿を、彼は今でも覚えている。



  何故、と思った。
 
  降りしきる白い灰の中で佇む男の姿に、何故、と。



  思ったのは自分だけではない。保安官だった自分の父親も、酒場のマスターもその妹も、町中の
  
 全てが何故と思った。

  思って叫んだ。



  何故、何故、何故?

  何故、貴方がこんな事をするのか、と。

  かつてこの町を救い、更にその前は数多くの命を守ってきた貴方が何故。

 
 
  けれども答えはなかった。

  炎を生み出すでもなく全てを灰に変えた男は一つの墓の前で、全てに背を向けていた。

  男の前に在るのは一つの十字架だけ。



  その日を境に、一番最初に灰になったその町を始まりとするように、荒野全体に男の手による灰
  
 が吹き荒んだ。一点落ちた黒インクの染みが広がっていくように、男による荒廃は町を呑み込んで
 
 いく。

  男が通った後には、何一つ残らない。

  怯える者、怒る者、嘆く者、崇める者。

  男は誰一人特別扱いする事なく、通り過ぎた者全てに死を与えた。
 
  男に立ち向かおうとした者は悉く打ち倒され、その屍は砂の中に埋もれ、流された夥しい血は砂
  
 という砂に染み込む。それ故、荒野の砂は常に粘つき、空は血煙りで濁っている。

  サクセズ・タウンを救い、それを契機として再び人を守る事を望まれた男は、その人々の願いに
  
 反して、今、誰よりも人の敵として立ち上がっている。

 









  ずるずると足を引き摺るように、青年は故郷を歩く。

  もはや家屋の面影一つない郷里は、白い砂と白い柱があちこちで絡み合い、奇妙な建物を作り上
  
 げていた。それを良く良く見てみて、青年はぎょっとした。

  それは数える事も叶わない、白い骨の群れだった。

  男に立ち向かい、そして命を落とした人間の骨が、まるで互いを支えるように重なり合い、一つ
  
 の建物となっている。そして散らばる白い砂は、風化したその欠片。

 

  激しいえずきが喉元までせり上がり、思わずその場に膝を突く。

  星一つ見えない闇夜だというのに、白い骨達はまるで発光しているかのように良く見える。
 
  手に付いた白い一欠でさえ、かつて人だったという。その事実に、青年の手は白く濡れた指先に
  
 震えた。喘ぐ口元は、まるで必死に酸素を取り込んで命を繋ごうとする魚のよう。



  そんな青年の命などまるで興味がないと言うかのように、最期の呼吸さえ奪う為にざくりと足音
  
 が響いた。

  はっとした肩は、もはや激しく上下する事もできない。大きく眼を開き、己の手に付いた白い粉
  
 から顔を上げたその視線の先に、かつての乾いた荒野そのものを体現したかのような男が静かにそ
 
 そり立っていた。

  血の臭いにも白い骨にも動じぬ表情は、最後に見た、あの、町の崩壊の瞬間と一分たりとも変わ
  
 らない。時にさえ動かせないのか、微塵も変化のない男の姿に、青年は今度こそ立ち上がれなくな
 
 った。

  その青年に向けて、無慈悲にも銀色の銃口が向けられる。



 「……どうして!?」  



  辛うじて上げる事が叶った声は、酷く上擦り、掠れていた。それでもどうにかして言葉を紡ぐ。



 「どうして!僕の事を忘れたんじゃないよね!」



  あの日の事を。

  一緒に戦った、あの日の事を。



  鳶色の髪を振り乱し、駄々を捏ねるように叫べば、群青の眩しさを思い出すような瞳が微かに揺
  
 れた。

  その事に微かな希望が見えた瞬間、低い声が覆い被さってきた。



 「忘れる事が出来たなら、こんな事にはならなかった。」



  凍りつくような声で、落とされた言葉に、青年は固まった。

  意味が分からなかった所為もある。

  だが、その台詞は決して男があの日の事を良とした思い出にしていない事が感じ取れた。



 「いっそ、あの日、此処に来なければ良かった。」



  次に吐き出されたのは、全てを否定する言葉。

 

 「それならば、何一つ間違う事なく、何一つとして失わずに済んだのに。」


 
  呆然として男の言葉を聞き届けながら、青年は疑問に思う。

  あの日、男は全てを失っていたはず。故郷も名声も何もかもを捨てて荒野を彷徨っていた。けれ
  
 ど、あの日この町を救う事で、彼の名は再び正しく響くようになった。全てが失われる前に戻った
 
 はず。

  なのに、眼の前のかつてと変わらぬ姿の男は、あの日全てを失ったのだと言う。

 

  納得の出来ぬ青年を一瞥し、男は背後を振り返った。

  そこは、白い欠片に侵食されていない、しかし灰にも血にも汚れていない砂が靡く場所。まるで
  
 結界でも張られたかのようにくっきりと区別されたその場所は、今は失われて久しい西部の荒野そ
 
 のものが残されている。

  だが、その懐かしい色ではなく、そこに佇む影に青年は絶句した。



  茶色のさらりとした砂が零れる場所は、かつて墓地が広がっていた。

  今は墓石は薙ぎ倒されて塵に戻っているが、その中で唯一残された十字架がある。



  その十字架の足元に、凭れるように座っている人影。
 
  黒い短い髪は風に柔らかく揺れ、同じ色の艶めいた睫毛は静かに伏せられている。その影が濃く
  
 落とされた白い頬は、周囲に転がる硬い白骨とは違い、仄かな柔らかさを持っている。薄く閉じら
 
 れた唇は、赤ワインを垂らしたように、赤い。

  眠っているようにさえ見えるその姿は、けれども、しかし、青年は知っている。

  この身体は、西部がまだ西部で在った頃、他ならぬ男の手によって撃ち抜かれているではないか。



  もはや言葉を発する事さえままならぬ青年に、男は視線を向ける事はなく、代わりに十字架に凭
  
 れる身体へと歩み寄る。



 「あの日、此処に来なければ、この身体を撃ち抜く事はなかった。いつものようにあしらって、ま
 
  た出会えるはずだった。」



  けれどそれはもう叶わない。

  あの時僅かに残った憎しみの残滓がそうさせたのか。

  彼はその身を撃ち落とした。



 「もしも、あの時間を取り戻せるのなら。いつもそう思っていた。」


 
  誰しも、大なり小なり、願う事。

  けれど男の場合、それは誰よりも強い。



  なんでも良かったのだ、と男は言う。

  とにかく、その身体だけでも取り戻したかった。

  だから、この町に来た。

  決して誰にも邪魔されぬよう、全てを灰にしてまで。

  そして掘り起こした身体は、まるで今しがたまで生きていたかのように、眠るように横たわって
  
 いたのだという。

 

  やがて何人かの賞金稼ぎがやって来た。

  それを何十人と殺すうちに、その頬に赤味が戻ってきた。
 
  血を流した数が五百を越えた時、その身体に温もりが戻ってきた。

  七百を越えた時には、吐息さえ聞こえるようになった。

  だから、思ったのだと。

  千の命を捧げれば、もしかしたら願いは叶うのではないか、と。



 「私は一つ間違いを犯した。その所為で全てを失った。光と色と熱と。最初で最後の、最悪の誤り
 
  だ。もしもその間違いを正す為に千の命が必要だと言うのなら、幾らでも引き金を引く。」

 「そんな事をしたって、そんな事をして生き返ったって、兄ちゃんは喜ばないよ!」



  ようやく叫べたのは、吐き出した台詞が限りなく確証に近い推定だったからだ。

  生前の彼を、青年は一部しかしらない。それでも、苛烈に生きた彼の姿を見ていれば、思い浮か
  
 んだ台詞は真実に思えた。

 

 「だろうな。」



  けれども、そんな事は男には百も承知の事だったらしい。

  それもそのはず、彼の事は男のほうが良く知っている。

  常に命の縁までいたのだ。

  知らぬ事などないほどに。



 「だが、それでも。いや、だからこそ。目覚めた瞬間に怒り狂った男が、私を殺す。それが私の願
 
  いだ。」



  他に私を殺せる人間がいないから。

  この命は、もう自分自身でさえ止める事が出来ない。

  全てを失って、けれども再び全てを背負えと身勝手に叫ぶ人の前で、魂は修復出来ぬほどに壊れ
 
 てしまった。

 
 

 「もうすぐ、あいつは目覚めるだろう。けれど、それにはまだ足りない。まだ、この男は私が何処
 
  かで止まると思っているのか。そんな事はもはや無理だと言うのに。どうすればその事に気付く
  
  のか。」


 
  それとも、と砂色の髪が揺れて男の眼が再び青年を見据えた。

  十字架の下にある身体が生前背負っていた青空に良く似た、青い双眸が閃いている。

  けれど、そこに灯るのは、悲しいほどに最愛の人間を望む狂気だった。



 「お前を殺せば、あれも、諦めるだろうか?」



  囁かれた台詞は、どす黒い血潮よりも、凄惨だった。