西部開拓時代、取り急ぎで作り上げられた俄かの町は、そのほとんどが埃っぽい道路が広々と走り、
 薄い床と壁が打ちつけられただけの家々が並んでいる。

 一度雨が降れば乾いていた空気は一変し、汚泥に塗れた地面が簡素な床を舐めようと舌を伸ばし、
 旋風が壁を揺さぶる。

 即席で立てられた町ならば、嵐が通り過ぎた後は、正しく踏みにじられた雑草といった様子を曝す
 のだ。

 しかし、どんなに簡素で、今にも見捨てられそうな町にも必ずと言っていいほど、サルーン――男
 達が集まる繁華街はある。

 サルーンは男の多い西部には必需品とも言える酒・煙草、そして女が売られているのだ。

 時には阿片なども売られている事があるが、賭博でも賑わい、町の資金源でもあるサルーンを取り
 締まろうと考える者は少ない。

 むしろ、酒場や売春宿の主人や賭博場の胴元と癒着して稼ぐ町長や保安官も多い。

 そして、サルーンに屯する無法者――彼らは時として町の有力者のボディガードとして雇われてい
 る――に眼をつぶり、

 町が荒れるがままにしている事も。

 そんな我が者顔の無法者達は、夜な夜な酒場に繰り出し、賭博場を荒らし、女を漁る。

 そして今日も、彼らの卑下た声がサルーンの一角に響いた。





 Tempora mutantur, et nos mutamur in illis.





 強いアルコールと葉巻の独特の匂い。

 煙ってしまいそうなくらい葉巻があちこちで焚かれ、そこかしこでコインが蠢く金属音が鳴り響く。

 紙幣が時折舞い散り怒号と笑い声が行き交う中で、バーテンはグラスを磨き続け、店の片隅では名
 も無きピアニストが一心不乱にピアノを弾いていた。

 酒を求める声は終始上がり続け、それに伴って険呑な気配も上がり続ける。

 平坦に変わらないものと言えば、ピアノの音くらいか。

 その中に、突如として割入るように、軋んだ音が薄い床と壁を打った。

 建てつけの悪い店の扉の蝶番が、左右に押し開いて入り込んできた闖入者に悲鳴を上げたのだ。


 いっそ、店の喧騒に掻き消されてしまうかというくらいの音。

 だが、すらりと長い指が叩いたその音は、喧騒の中にある奇妙な空隙を見つけ、その沈黙の中に大
 きく響いた。

 一瞬、店の中にある全ての眼――ピアニストを除く――が、招かれざる侵入者に向けられた。

 視線に熱を込める事ができたなら、その来店者は焼き尽くされていただろう。

 しかし奇妙に落とされた沈黙にも、不躾な視線にも些かの動じる気配もなく、その足取りは芸術
 的とさえ言っていいほどの滑らかさで、

 グラスを磨くバーテンのいるカウンターへと歩み寄る。


 ありとあらゆる色を混ぜ合わせたような混沌として、しかし甘さのある髪色。
 
 瞳は夜空をそのまま引き摺り降ろしたかのように、透明な黒。

 すらりと伸びた影は、野生の獣のようにしなやかさそのものだ。

 その身を包む見繕いの上等な衣服は、西部の男の中でも上流の人間が身につけるものではないだろ
 うか。

 そしてそれに呑みこまれてしまわない端正さが、その身体には沁み込んでいた。


 喧騒に身を委ねている無法者達が、思わず獲物を見つけた肉食獣のような笑みを浮かべたのも、無
 理はない。

 西部には馴染みのなさそうな身体は、どう考えても餌食となる義務がある。

 粗野な顔に、いっそう粗野な表情を浮かべて見せた男達の前で、どこか今はない貴族的な空気を織
 り込んでいる青年は囁くような声でバーテンに何事か注文している。

 グラスを磨く事を止めたバーテンが差しだした葉巻を受け取った指は、象牙のように艶やかだ。

 再び流れ始めた騒がしい空気は、しかし以前よりも更に凶暴な空気を孕んでいる。

 それが自分に向けられている事を青年は気付いていないのか、彼らに背を向けて葉巻を燻らし、時
 折グラスを呷る。

 まるで、周囲の喧騒など自分には関係ないと思っているかのような仕草と背中。

 カウンターを思い出したように滑る指先に、漂っていた不穏分子がいよいよ張り詰めた時、床をぶ
 ち破るような重い音が震えた。


 止まる時間。

 ポーカーを繰り広げていたテーブルで、イカサマを疑う声が上がり遂に火が付いたのだ。

 立ち上がった男と、倒れた椅子。

 テーブルに散らばったコインと紙幣、カードがその場の無秩序さを表している。

 今にも気炎を噴き上げそうな男は、目の前に座っていた男の胸元を掴み、締め上げている。



「この、イカサマ師が………今この場でその脳天ぶち割ってやろうか!」


 
 吐き捨てるように怒鳴り、ホルスターから引き摺り出した銃を相手の額へと押し込んでいる。

 周囲の人間が必死に宥めているが、殺せない怒りは他のテーブルへにも向かう。

 蹴り飛ばされたテーブルからは金が舞い、コインが派手な音を立てて床を叩き、皺だらけのカード
 が叩きつけられる。

 遠巻きに眺める仲間を威嚇するように睨み回し、床を踏み鳴らす。

 そして流れ出る音楽にまで怒りを注ぎ始めた。



「こんなチンケな曲弾いてんじゃねぇ!」



 バンっと勢いよく掌がピアノの鍵盤を叩き、平坦な音を紡いでいた指先を止めた。

 男は喧嘩などした事もなさそうなピアニストを睨みつけると、もはや言い掛かりとしか言いようの
 ない台詞を投げつける。



「ああそうだ!こんなたらたら曲聞いてるから俺の勘が鈍ってんだ!

 てめぇ、その事を知っててわざとやってんだろ!」



 野太い指で身を竦ませているピアニストを捻り上げると、そのまま床に押し倒そうと首に手を向か
 わせる。

 その時、するりとした制止の声が上がった。



「止めねぇか、このボンクラ。」



 くるりと身体を回転させて、揉み合う二人を眺めているのは、先程まで耽美と言える背中を見せて
 いた青年だった。

 電灯の光を受けて影を引く顔は、改めて見ればまだ若い。

 ようやく二十代に入ったばかりのあどけなさが、頬の輪郭に残っている。

 

「それとも木偶の坊って呼ばれたほうが良かったか?」



 西部の男がよく使う乱暴な口調は、しかし 音楽的な音色を携えて響いた。

 ピアニストを締め上げる男を見る眼差しはうっとりと冷ややかで、口元に浮かんだ笑みは悩ましい
 皮肉っぽさに濡れている。

 その表情に煽られたのか、野太い男の指と銃はピアニストを放り出し、艶っぽい青年の胸に向けら
 れる。

 しかし、酔いに浮かされたような場の空気は、次の一瞬で水を打たれたかのように冷め返った。

 青年の、氷細工のような指でくるりと回転して現れたのは、黒く厳めしい光を放つ銃だ。

 しかもその素早さたるや、魔法のよう。

 色っぽい角度で傾げられた青年の首は、しかし氷柱のような切っ先を覗かせている。

 餌食だった肉体が、獣の牙に変貌した瞬間。

 卑下た声はなりを潜め、じりじりと後退るしかない。



「出て行きな。俺は飯は静かに食いたいんでね。女の喘ぎ声なら歓迎するが、男の断末魔なんぞ飯が
 まずくなるだけだ。」



 潤んだ唇のようなしっとり感を含んだ声音で、しかも妙なる調べを紡ぐ青年に、荒野で獅子に出会
 った猟師のように男達は両手を上げて引き下がるしかない。

 ぞろぞろと出ていく粗野な臭いに、流し眼の一つを送ると、青年はよろめいて立ちあがるピアニス
 トの傍に寄る。

 はっと顔を上げたピアニストの顔に、青年は恐ろしく美しく、しかし微かに訛りのある声を落とす。



「続き、弾いてくれねぇ?」



 洗練されてはいるが、その僅かにたゆたう訛りの為に柔らかに聞こえる声に、ピアニストは思わず
 頷いた。

 がさがさと音を立ててずり落ちた楽譜を立て掛け直し、ひろりとした身体を急いで椅子に沈め直す。

 骨のような指先が、同じく骨のような白い鍵盤を叩き、再び平坦な音が流れ始めると、青年はカウ
 ンターへと戻り新しい葉巻に火を点けた。

 緩く流れる独特の甘い香りに、ピアニストは鍵盤から眼を少しだけ逸らし、静かにカウンターに凭
 れている青年の様子を窺う。
 
 ピアニストのいる場所からは青年の表情は見えない。

 ただ、その肩から腰に掛けてのラインには、西部にはほとんど見られない静寂が灯っていた。



 その日を境に、青年はピアニストのいるサルーンにふらりと現れるようになった。

 昼間から現れる時もあれば、無法者達でさえ眠りこけるような深夜に姿を見せる事もあった。

 そして、夜更けに訪れる時は決まって、今まで誰も聞こうとしなかったピアノの音に耳を傾けてい
 くのだ。

 ピアニストが西部に流れ着いてから初めて出来た観客だった。

 本国でピアノを学び、南北戦争の前には南部の名門の前で演奏をした事のあるピアニストは、西部
 の男達が喜ぶような音楽を弾く事はほとんど出来なかった。

 ショパンやバッハを好む彼には、とてもではないが馴染みがなさすぎる。

 もしかしたら、と偶に青年の指を見ながら思う。

 もしかしたら、この青年も、同じなのかもしれない、と。

 深夜のサルーンで、時にはバーテンさえも眠りこけて、二人きりになる事も多くなった。

 何か考え事をしている青年の傾いた項や、カウンターを時折軽く叩く指を、一人で黙って見る事も
 多くなった。

 けれど、二人の間に会話らしい会話はほとんどなかった。

 沈み込んだサルーンの中には、基本的にピアノの音と、青年の呼吸と熱だけが落とされていた。

 それでも、ピアニストにとっては至福の時間だった。

 

 しかし、同時に町の様子は徐々に変わっていった。

 青年が賞金稼ぎである事が知れたのは、青年が初めてサルーンに訪れた時からそう時間は経ってい
 ない。

 賞金首のならず者が多いこの町は、青年にとっては格好の狩場だった。

 サルーンに雪崩れ込む無法者の数は、日を追う事に少なくなった。

 それに伴って、無法者達の持つ気配は険呑になっていく。

 次々と首を上げられる仲間達に、復讐を誓う声を、ピアニストは何度も聞いた。

 ピアニストがピアノを弾く隣で、青年を嬲り殺しにする計画を聞いた事もある。

 その度に堪らない気分になり、青年の元へと走り寄って見聞きした事全てを話してしまおうかと思
 った。

 しかし、ピアノを弾くしか芸のない自分に何が出来ようか。

 結局見て見ぬ振りをして、心を痛めるしか出来ないのだ。

 その次の日、青年はいつもと変わらぬ姿で現れ、代わりに計画を練っていたならず者の姿が消えて
 いた。



 一度だけ、深夜の酒場で、その事を青年に告白した事がある。

 自分は見て見ぬ振りをしているのだ、と。

 酒の匂いの薄れたオレンジの灯りの落ちた酒場で、葉巻を咥えた青年に、懺悔した。

 すると、青年は一瞬瞳を大きく見開くと、笑ったのだ。

 そんな事か、と。
 
 そんな事気にして馬鹿だなぁ、と。

 許した青年の笑みは、酷く穏やかだった。

 

 サルーンに集まる人の影が落ち着いた色になった時には、あれほど暴れていた無法者達の姿は小さ
 くなっており、保安官も別の人物に代わっていた。 
 
 そして、青年の周りには人が溢れるようになっていた。

 サルーンに満ちていた青年の熱は、余すところなく降り注いで、それが余計に人を惹きつける。

 それでも、時折、青年は深夜遅くまでピアノの音に耳を傾けている事があった。

 それが、ピアニストにとってはどうしようもなく誇らしかった。
 



 町が秩序を取り戻したある日の事、青年は真夜中に幾万の星を背負ってやってきた。

 ほとんど眠りかけのバーテンを視界の隅に追いやって、いつものように葉巻を燻らす。

 ピアニストもいつものようにピアノを弾く。
 
 曲が途切れないように、次の曲を何にしようかと考えながら。

 考えながら弾いていた所為か、近づいてきた気配に気づかなかった。

 白い鍵盤に彼の黒い影が映えた時、はっとして顔を上げた。

 その夜の空と同じくらい光を灯した、黒い瞳とぶつかる。

 たじろぎすぎて、眼を逸らす事も忘れてしまった。

 黒い瞳には、浅ましすぎる自分の眼が映り込んでいる。

 それが羞恥を煽る。

 そんなピアニストに、彼は初めて聞いた時と同じ、旋律のような声に柔らかい訛りを絶妙に混じら
 せて囁いた。

 

「ちょっと、そこに座らせて貰えねぇ?」


 
 すとん、と声を落とされて、その声に背中を押されるように、ピアニストは自分の定位置を彼に譲
 っていた。

 サルーンにかる他の椅子とは、少し異なるピアノの椅子。

 そこに、しなやかな動きで青年がすらりと座る。

 ゆるりと持ち上げられる腕。

 鍵盤の上に掲げられた秀麗な指は、神の御業というものを信じたくなるほど映えている。

 だが、その指は、微かに戸惑ったように動いただけで、黒と白の音の上を走ろうとはしなかった。

 何かを堪えるように握り締められ、開き、すっと離れてしまう。

 同時に立ち上がった彼の口には、いつもの皮肉な笑み。



「他人の商売道具に触わりゃしねぇよ。」


 
 邪魔したな、と言い落とすと、彼は背を向けた。









 
 現れた時と同じくらい唐突に、青年は姿を消した。
 
 不意にサルーンを訪れなくなった青年に、ピアニストは気を奪われ、ほとんど話した事のなかった
 バーテンに問うた。

 彼はどうしたのか、と。 

 

「ああ、この町を出てったよ。」



 いつものようにグラスを磨きながら、バーテンは屈託なく答える。



「なんでも、獲物を見つけたとか言ってたなぁ。何が何でも決着を着けてやるとか。そいつを追いか
けて行っちまったよ。」



 賞金稼ぎだから当然だけどね。

 拘りもなくそう言い置いて、バーテンは新しいグラスに手を伸ばした。

 しかし、そんなバーテンの動きに気付く事もないくらい、ピアニストは呆然としていた。



 出て行った?

 彼が?     

 この西部で出会えた唯一の観客で、ある種の欲望めいたものさえ抱いていた、あの姿が?

 賞金稼ぎという職業が、流れ者である事はよく知っている。

 しかしここまであっさりと見放されると、愕然としてしまう。

 いや、そもそもそれほどまでに気に掛けた人間は、彼が初めてだったのかもしれない。

 呆然として、生まれて初めてピアノの事を忘れた。

 その夜、初めて、ピアノを弾く事が出来なかった。

 ピアノで埋め合わせが出来ないものがある事など、初めて知った。

 







 それから、どれくらいの月日が流れただろう。

 ピアニストはいつの間にか、クラッシック以外の、西部の男達も好むような音楽を弾く事が出来る
 ようになっていた。

 町は平和で、ならず者が暴れてもすぐに保安官が捕えた。

 賭博場は相変わらずあるが、殺傷沙汰はない。

 行き交う馬車の数は増え、人の数は増え、ごたごたが起こる割合は増えたが、全て日常の出来事で
 済まされる範囲のものだ。

 以前の、殺伐とした空気が嘘のようだ。

 ピアニストの指は、相変わらずサルーンの片隅でピアノを叩き続けている。

 ひどく、落ち着いた。


 
 そんな中、軽い軋みを立てて、ポーカーに興じる人々がいる酒場に長い影が落ちた。

 硬質なブーツの音は整然として、動きは野生の獣のよう。

 生温い空気の漂っていた酒場に、火種が投じられたように熱が弾け出す。

 その頬からはあどけなさが消えかかっており、秀麗な指先には細かな傷がちらついている。

 それでも、。

 ピアニストは、はっとして、それでもピアノからは眼を逸らさずに足音を辿る。

 彼だ。

 テーブルの前を横切り、あの時のようにカウンターに向かってくる。

 立ち止まって、少し考える間を置き、以前よりも少し低めの、しかしやはり流れる旋律のような声
 で言った。



「右から三番目。そいつを5本。」



 葉巻を受け取る仕草一つとっても、誰にも真似が出来ないくらい洗練されている。

 ジャケットの裾から見える黒い銃把だけが、酷く場違いだ。

 いつものようにカウンターに凭れ、睫毛を少し伏せて思案にふけるような表情を浮かべている。

 とろとろと零される熱は、あの時と変わらない。

 あの時と同じように、このピアノの音に一人耳を傾けてくれるだろうか。

 カントリー・ミュージックを弾いていた指を止め、モーツァルトへと変遷しようとする。

 
 転瞬。


 穏やかに零れていた熱が一点へと凝集する。

 一変する気配。

 眼は見開かれ、そこには火花のような光が踊っている。

 獲物を見つけた獣のような身のこなしで身体を翻し、硝子のような指先は壊れるような勢いで紙幣
 をカウンターに叩きつける。

 自分の身体の事などどうだって良いのだと言わんばかりの様子。

 そしてその口元に浮かべられていたのは、獅子でさえ射殺してしまえそうな蕩けるような悩ましい
 笑みだ。

 鳥が羽ばたくように、空気の籠っていたサルーンから飛び出していく。

 その様は、まるで。


 天啓が降りた聖者。

 妖精の囁きを聞いた詩人。

 ミューズの知恵を流し込まれた音楽家。


 いや、そんなものではなく。



 
 最愛の人間の気配を聞いた、人間だ。

 炎に貫かれても雷に撃たれても、その先を望む姿だ。

 結末が悲劇であっても、喜んで呑み下すだろう。
 
 その熱と気配と色を持って、謳歌している。

 平坦な音楽など、もはや心を打つ事すらできない。
 
 それほどまでに、一点に全てを投げ打っている。
 
 
 
 
  
 一瞬、青い空がその肩越しに見えた。 

 割り開かれた扉が、軋んだ音を繰り返して、最後には閉ざされた。     
 
 
 








時は移ろい、私たちも変わってしまう