鈍色の髪が風に嬲られるに任せて、男はざくざくと岩肌の間に埋もれた砂を抉り取っていた。
  国中から、異形が住まい、常に瘴気の溢れる山として恐れられている通称『魔王山』。年中、雪
 が降り積もるその山は、深い森に囲まれている所為もあってか、立ち入る者はほとんどいない。
  教会からは、此処は魔の山であるから立ち入ってはいけないと家々に通告が入っていたし、無謀
 な子供達が興味本位で森に入り、数日後物言わぬ姿で帰ってきたり、或いは二度と姿を現さなかっ
 事も立て続けに起こった所為か、近年では好き好んで立ち入る者はいないと言う。
  しかしそれならば尚の事、教会がこの山を浄化しないのは不思議であった。
  教会の威信にかけて、悪魔の地となった山に対して悪魔祓いをするのは、普通に考えれば当然の
 事である。いくらルクレチアという国が、あらゆる物事の中央から切り離された主要ではない国家
 であるとしても、一応は教会の傘の下にある国であるのだし、大司教という地位を持つ者まで配属
 されているのだから、教皇領に要請すれば悪魔祓いの準備くらいしてくれそうなものだ。
  それをしなかった理由。
  それを、男が知る術はない。男が生まれた時、既にこの山は封鎖すべきものとして判断され、そ
 れが施行された後だった。
  この国は、魔の山を内包する事を、どのような理由があってかは知らないが、受け入れたのだ。
  尤も、そうやって魔の山の存在を受容した事が、今のような事態を生み出しているのだ。この山
 さえなければ、この国に黄昏が訪れる事もなかっただろうに。
  思って、放つ矢が常に折れ曲がるという名で封じられた男は、今や薄暗い夜に包まれた故国を見
 下ろし顔を歪めた。




      黄昏の海





  ルクレチアは狂乱の渦にある。
  王女が二十年前に打ち倒されたはずの魔王に攫われ、その魔王を倒した勇者は死に、国王は暗殺
 され、暗殺したのは自分達が勇者だと祀り上げた青年だと聞かされているのだから。
  国民のほとんどが、勇者である青年が、かつての勇者の死期を早まらせ、王女を攫い、国王を弑
 したと信じている事だろう。それは、国政を司る重鎮達も同じ事。彼らは何一つとして疑わず、国
 王の死体の前にいた青年を、国家犯罪者と見做している事だろう。
  いつもならこの時間帯は暗闇に沈む国が、未だに慌ただしく煌々と明かりを灯しているのは、そ
 の所為だろう。それらは瘴気の所為で、水面に沈んでいるかのように曇っているが、ストレイボウ
 には、場違いな灯りの数が如何に重大な事が起きたと告げているかが分かっていた。
  国王殺しは、何よりも大きな罪だ。それは例え未遂であろうとも、一切の弁護はなく火炙りにさ
 れる。
  それを想像し、男は――ストレイボウは、鈍色の髪を振り乱して大声で笑いたくなった。
  火炙りは、魔女、或いは魔法使いの為の処刑だ。悪魔に魂を、身を売り渡した者は、炎で全てを
 浄化されるのだ。それは、魔法使いに属するストレイボウが、尤も身近に感じていた恐怖であり、
 もしもストレイボウに何らかの罪が被せられた時、間違いなく彼は処刑用十字に架けられて、炎と
 煙で燻されるのだ。
  その処刑が、今、皆に勇者と賛美されたオルステッドの身に迫っている。
  これを何故、嗤わずにいられようか。
  常にストレイボウの上を行き、その剣の腕を褒め称えられ、魔法使いであるという誹りなど一度
 も受けた事がないであろう、オルステッド。鬱金の髪が太陽の光を弾く度に、人々は彼を異国の太
 陽の髪に例えて誉めそやした。
  二人で共に、街に近づいた異形を倒しても、皆が褒めるのは異形に止めを刺した最期の太刀傷で
 あり、間違ってもストレイボウの炎には目もくれない。気づかないのか、大した事ではないと考え
 ているのか、それとも意図的に魔法というものから眼を逸らそうとしているのか。
  だが、オルステッドには、ストレイボウに誰も目もくれないという事実さえも見えなかったのだ
 ろう。でなければ、誰もが腫物を扱うように接するストレイボウを、傍に置いて親友だなどと言う
 ものか。
  もしかしたらオルステッドには、剣聖と謳われるなりの苦悩があったのかもしれない。やはり人
 の枠から外れた存在として、同じく人から離れたストレイボウに親近感を覚えたのかもしれない。
  だが、オルステッドとストレイボウでは、徹底的に立場が違いすぎる。
  自らの手で勇者の座を掴み取ったオルステッドと、生まれながらにして悪魔に魂を売り払ってい
 るのではないかと疑いの眼で見られるストレイボウとでは、その待遇には天と地ほど差があるでは
 ないか。そんな事は、オルステッドにだけ人々の賛辞が集まる事で分かっていたはずだ。
  それを知りながらも、ストレイボウを友人としたというのなら、オルステッドはこの国にいる誰
 よりも罪深い。それとも、ストレイボウの事は自分が一番賛美しているのだから、それで良いのだ
 と言うつもりだろうか。
  だとしたら、やはりオルステッドは誰よりも罪深い。
  ストレイボウは、オルステッドからの賛美ではなく、この国に受け入れられる事を望んでいたの
 だから。
  きっと、オルステッドとストレイボウは、最初から離れ切った存在だったのだろう。確かに親友
 と呼び合える時期もあったが、その時でさえ何もかもが遠い場所に離れ離れにあったのだ。その事
 にストレイボウは気づき、そしてオルステッドはきっと最後まで遂に気づかないだろう。実は自分
 達は海を隔てた島々よりも離れているのだという事に。
  尤も、自分達は、海も見た事がないのだが。
  そしてようやく、滑稽だ、とストレイボウは思った。
  今、ルクレチアで起きている騒乱も、魔法使いという忌み嫌われた血の事も、剣の腕を褒め称え
 られた青年の事も。
  これらは全て、閉ざされたルクレチア国家だけで起こっているのだ。
  ストレイボウは、魔王山の頂上で辺りに視線を巡らせて、滑稽さを更に深めた。そこは、四方を
 森に囲まれた小さな国でしかなかった。魔王山に登っても、海さえ見えない閉ざされた国だった。
  そういえば、オルステッドに海というものを理解させるのに、酷く時間がかかった事を、今更に
 ストレイボウは思い出した。途方もなく巨大な池というのが、オルステッドにはとうとう想像でき
 なかったのだ。
  しまいには、魔法で見せてくれとまで言い始めたオルステッドは、今も海というものを思い描け
 ないだろう。
  そうだった。   ストレイボウは、その時にオルステッドを見限るべきだったのだ。
  海を想像する事さえ出来ないオルステッドが、ストレイボウの事など考えられるはずもなかった
 のだ。ストレイボウの中に蟠る感情を解きほぐす事も、慰撫する事も出来るわけがないのだ。
  それを、あの時に気づいていたのなら、ストレイボウはオルステッドから親友という勲章を賜る
 前に、それを突き飛ばしていただろう。そうしていれば、ストレイボウはオルステッドに対して此
 処までの憎しみを抱かなかっただろう。憎しみを抱くほどの波のような感情を寄せなかっただろう。
  自分の感情のように波打つ水の底に沈んだような町の明かりを見下ろし、せめてこの山がなかっ
 たら、と思う。
  王女が魔王に攫われるという幻影さえなかったら、この山に登る事がなかったら、きっと自分は
 オルステッドに対する感情を、オルステッド目掛けて波打たせる事はなかっただろう。苦々しく思
 いながらも、きっと飲み込んだはずだった。
  だが、魔王を騙る影は現れて王女を攫い、自分はこの山に登った。
  そして、ずっと考えていた、そして本当ならば永久に海の底に沈めておくべき計画を今こそ実行
 すべきと思い至ってしまったのだ。何事もなくオルステッドが王女と結婚し、王の座に着けば、ス
 トレイボウの計画など手の出せぬ場所に沈んでしまっただろうに。
  そうして、二人はようやく、何事もなく、離れて行けただろうに。
  しかし現実はそうならず、二人は最悪の事態を引き起こし、受け入れ、千切れ千切れになろうと
 している。
  恐らく、もうすぐ、眼下に広がる町の明かりの中に、一際巨大な光が燃え立つだろう。オルステ
 ッドを処する為の炎が、煌々と。その炎が吹き上がって、ようやくオルステッドとストレイボウは、
 元来離れ離れであった岸辺に辿り着くのだ。その場所こそ自分達の本当の居場所であり、二人共に
 あったという間違った事実が改められる。
  そう思えば、ストレイボウは自分の行動が、強ち間違ったものではなかったのだと、むしろ正し
 い事をしたのだと頷く事が出来た。一方的であったとはいえ、やはり一度は親友と呼ばれたオルス
 テッドを罠に嵌めた事。それは二人の後々を考えれば、正しいのだ、と。
  もしも罠に嵌める事なく王女を救い出し、凱旋し、そしてオルステッドが王になったとして。け
 れどもそれで二人が疎遠になる可能性は高いとはいえ絶対ではない。何一つとして想像できないオ
 ルステッドの事だ。何も考えずにストレイボウを城に上げてもおかしくはない。それによって、ス
 トレイボウの立場が悪くなったとしても。
  それならば、こうして、オルステッドを奸計に嵌めて死に至らしめた方が良いというものだった。
 でなければ、きっと延々と二人は交われぬままなのに、傍にいなくてはならないという矛盾を孕ん
 だ状況を作り続けてしまう。
  ストレイボウは、その矛盾の連鎖を断ち切ったのだ。
  オルステッドと共にいた時が、全て苦痛であったとは言わない。
  しかし、それらの思い出だけでは埋められぬ歴然とした差というものがあるのだ。何も見えない
 盲目のオルステッドは、自分達の辿り着く岸辺が違う事などどうでも良いのだろうが、ストレイボ
 ウには埋められぬ差を無視して飛び越えるなど出来はしない。
  それでもオルステッドが盲目の鎖で繋がろうとするのなら、もはやオルステッドを火刑に処して
 燃やし尽くして、千切れるしかない。
  その時を、ストレイボウは今か今かと待っている。濁った町の明かりに、一つの炎が咲くのを、
 ずっと待っている。
  オルステッドが炎で浄化されて、それでストレイボウもただで済むとは思っていない。何せ、魔
 王に攫われた王女は生きていて、ストレイボウの計画を知っているのだ。彼女が一言でも語れば、
 ストレイボウは間違いなく、生まれた時から定まっている処罰に架けられる。
  だが、それでも良いのだ。
  ストレイボウの望みは、オルステッドから引き離される事。
  オルステッドが死に、そしてストレイボウが火炙りにされる時、二人は既に別々の岸辺に辿り着
 いている。オルステッドにはストレイボウの考えなど分からないだろうし、ストレイボウはそれを
 話すつもりもない。
  一度、完膚無きにまで離れてしまえば、もう一度廻り逢う事はないのだ。
  二人の距離は、思い出では埋まらず、二人の間に広がる波を越えるだけの力もない。共にいた時
 間は、炎に燃やされて消え失せる。
  そして、そのまま二度と巡り合えないのだ。
  二人とも互いの岸辺が何処にあるのか、結局分からず仕舞いだったのだから。この先があったと
 しても、同じ世界同じ場所にいたとしても、きっと廻り逢う事は出来ないだろう。
  それだけの力は、二人の間には残されていなかった。
  ストレイボウは、炎が吹き上がる瞬間を待ちながら、自分が辿り着くであろう昏い岸辺を思い浮
 かべていた。そこには、誰の魂もいない事を、想像しながら。
  ルクレチアという国家が、二人の命と共に黄昏に沈むのは、すぐそこに迫っていた。



















   Titleは.hackの『黄昏の海』より