冷え切った寒空は夜の帳が引き下ろされ、真珠の粉を塗したかのように、あちこちに星の光が煌
 めいている。その光は時に大きく、時に小さく瞬いて、一瞬でも眼を逸らせば全く別の景色になっ
 てしまう。
  荒野の夜は、あまりにも澄み渡っていて、長く見つめているとそのまま吸い込まれてしまいそう
 だ。まして、街の灯は遠いが故に、星が輝く事を阻むものは何一つとしてない。
  そんな夜空の下、夜の黒よりも尚突き抜けて黒い影が、ひっそりと動いていた。
  その影は、少しだけ辺りを窺うような素振りを見せたが、すぐに気を取り直したかのように素早
 く動く。その動きに伴って聞こえてくる、今にも木の葉のかさつく音に紛れてしまいそうな、衣擦
 れの音。
  意味ありげな音が消え去った後、黒々とした影は、白く靄がかった場所へと身を沈めた。




  Wait for Spring





  寒い。   マッドはマフラーを外しながら、荒野の寒い夜の中でそう思った。
  雪が降る事自体は稀であっても、それは単に湿度が低いからであって、寒さが他の場所に比べれ
 ばましというわけでもない。アメリカ西部だって、東部と同じくらい冬は寒いのだ。
  冬に入り込んで既に一ヶ月近く経つ。既に木々は死に化粧を終え、朽ちて茶色くなっている。背
 丈の短い草も、夏場よりもずっと青味が失せて、枯れている状態とほとんど変わりない。その真上
 を、氷の刃のような木枯らしが吹きぬけるのだ。
  不毛の大地。
  この時期の荒野は、正にその名が一段と相応しい。
  こんな、全ての音が消え去って、何もかもが何処かに溶けてしまいそうな透明な夜は、人間はひ
 っそりと塒に籠るのが一番正しいような気もする。親しい者達だけで集まって、明るい灯の灯る部
 屋の中だけで賑やかしくしているのが一番良い。
  だが、とマッドは首を竦める。
  勿論、マッドが望めば、マッドの為にその場所を開けてくれる者は大勢いる。暖炉の前を譲って、
 賑やかさに華やかさが加わったと喜ぶ人々の顔も思い浮かぶ。きっと、皆が皆、マッドの手にグラ
 スを握らせ、我先にと酒を満たしに来るだろう。
  そういうのが、嫌いなわけではない。
  マッドは、そうやってちやほやされる事に慣れている。だが、慣れているからと言って、それだ
 けが好きなわけでもない。
  ふとした折に、マッドは、無性に一人になりたくなる時があるのだ。それは、今何処かで賑やか
 に酒を飲んでいる人々なら良く知っている事だ。全てから身を離して、一人ぽつねんとして世界を
 ぼんやりと眺めやるだけの時間が、マッドには何度も訪れる。
  マッドがそうする理由は分からなくても、賞金稼ぎ仲間や娼婦達は、その時になるとそれとなく
 距離を置いてくれるのだ。
  そして、満天の、恐ろしいほど澄み渡った寒空の夜、マッドは傷ついた獣がひっそりと傷を癒す
 ように、一人街から離れて荒野にやって来ていた。
  こんな時期に一人で荒野に――しかも夜に――やって来るなんて。もしかしたら、今、この時に、
 この広々とした荒野にいるのはマッドだけかもしれない。
  だが、マッドはそんな感傷的な気分に浸るつもりはさらさらなかった。
  コートを脱ぎながら、荷物の中を弄り、銀色のコップと酒瓶を引き摺りだす。
  冷えた夜空の下でコートを脱いだので、マッドは寒さにふるりと身を震わせた。だが、そのまま
 ジャケットも脱ぎ捨て、シャツのボタンにまで手を掛ける。あまつさえベルトも外し、ズボンも脱
 ぎ捨てる。
  寒空の下、一糸纏わぬ姿になったマッドの肌は、白すぎて余計に寒々しい。
  気でも狂ったと思われかねないマッドの行動は、けれどもマッドの眼の前に広がっている白い湯
 気によって、正当性を認められていた。
  微かに聞こえてくる水の音と、そこから湧き上がる湯気。
  温泉である。
  マッドはそこに向かって、酒瓶とコップを抱えたまま歩いていく。そして、ちゃぷ、と水音を立
 てて岩に囲まれたお湯の中に入っていく。温泉の中で、うーっと犬の唸り声のような声を出し、ぐ
 ぐっと身体を伸ばしてから、マッドは持って来ていたコップに酒瓶を傾けた。
  人と逢うのは億劫だ。だが、寒々しい夜空の下で震えているのも嫌だ。ついでに酒だって飲みた
 い。
  そんな我儘なマッドが出した結論が、温泉にでも浸かりながら、まったり酒でも飲もう、という
 事だった。幸いにして、此処は西部。東部よりもずっと温泉が沢山あるのだ。なので、マッドは最
 寄りの、人知れずこっそりとある温泉で寛ぐ事にした。尤も、荒野のど真ん中にあるような温泉な
 ので、宿泊施設などは当然設置されていない。が、一人になりたいマッドにとっては、これほどの
 条件はない。
  マッドは一人手酌で酒の飲みながら、だらりと湯船に浸かって周囲に視線を巡らせる。白い湯気
 で曇った視界に、黒い影が見えたが、あれはディオだ。もしゃもしゃと、先程マッドが広げた飼葉
 を口に運んでいる。
  寒くないだろうか。
  ふと思ってディオを眺めていたが、ディオは特に問題なさそうな顔で飼葉を漁っている。という
 か飼葉を漁る事に余念がない。こいつ、こんなに食い意地が張ってたっけ。
  アルコールとお湯で、ほんのりと肌を赤らめながら、マッドは程良く冷えた岩肌に、ぺたりと頬
 をひっ付けた。

  



  サンダウンは、少し後悔していた。
  今年のクリスマスはマッドと一緒に過ごせた。それは、何もかもを失くして、常に一人で日常を
 食い潰しているだけのサンダウンにとっては、久しぶりに有意義な時間だった。
  いや、マッドといる時は、いつだって有意義な時間を過ごしている。まるでそこだけ切り取った
 かのように鮮明に色づいている。
  しかし、今のサンダウンの傍には、マッドはいない。
  クリスマスが終わると同時に、マッドはサンダウンの前から消えてしまった。まるで、これはた
 だの夢だと言わんばかりに。
  しかも、それに、去っていく時、一度も振り返らなかった。
  別に、そう言った感傷をマッドに求めているわけではない。マッドは賞金稼ぎであって、サンダ
 ウンの恋人ではないし、今まで抱いてきた女達とも違う。例え女であったとしても、マッドはサン
 ダウンを振り返る事はないだろう。
  この先、いつの日かマッドがサンダウンを超える日がやってくるとして、その時、マッドは追い
 つき追い抜いたサンダウンの事など、振り返らない。マッドは過去に縋って生きるような事は、決
 してしないだろう。きっと、その時、女々しく縋りつくのは、むしろサンダウンのほうだ。
  保安官という任を返上し、賞金首として彷徨い生きているから隠されているだけであって、サン
 ダウンは離れ行くものに対して、ずっと執念深く、ずっと惨めったらしく取り縋るのだ。
  これまで、その対象がいなかっただけで。
  そしてその対象が現れた以上、サンダウンには惨めにそれに縋りつくしかない。
  恋人にしたいわけではない、無理やりには。自分だけのものにしたいわけでもない、多分。
  ただ、マッドに忘れ去られる事が、怖い。
  もちろん、マッドがサンダウンのものになると言うのなら、全く以て断る理由はサンダウンには
 ないのだが。
  マッドは、今何をしているだろうか。この、凍えた寒い夜に。何処かの酒場で、仲間達と騒いで
 いるのか、或いは女の胸に抱き込まれているのか。その最中に、一瞬でもサンダウンの事を考える
 事があるのか。
  サンダウンには、もう、マッドの事以外に考える事など、ない。
  小さく溜め息を吐いた。
  サンダウンがマッドの事しか考えていない事など、マッドにしてみればどうでも良い事以外の何
 物でもないだろう。サンダウンのように無職ではなく、きちんと手に職を持っているマッドには、
 サンダウン以外にも考えるべき事は沢山あるに違いないのだ。きっと、サンダウンの事など、今は
 忘れているだろう。
  そう思って、再び溜め息を吐いた。吐いた息は白い。視界が白く歪んだ。
  白い溜め息が完全に掻き消えた。
  と思った瞬間に、再度視界が白い靄で閉ざされる。だが、サンダウンはまだ溜め息を吐いていな
 い。
  おや、と思って視界を巡らせれば、何処からともなく白い靄が湧き起こっている。霧、ではない。
 湿気ているが、なんだか妙に温かい。
  何事だ。
  眉を顰めてしばらく馬を歩かせていたが、白い靄が収まる気配は一向にない。ただ、代わりに何
 処からともなく水音が聞こえる。
  不可思議現象など信じないサンダウンではあるが、これは異常な事態であると判断し、慎重に馬
 を歩かせる。視聴覚を研ぎ澄ませ、腰に下げたピースメーカーをいつでも抜けるように、ホルスタ
 ーを開く。
  そして。

 「む………。」

  白い靄の中に、ぬっと現れた黒い影。しかもそれは、馬の形をしている。そして、黒い馬の影は、
 サンダウンに気付くと、じろっと睨みつけた。
  なんという、眼付きの悪い馬。
  こんな眼付きの悪い馬は、サンダウンはこの世に一頭しか知らない。
  かつてサクセズ・タウンを襲った無法者集団クレイジー・バンチのリーダー、O.ディオのなれの
 果てにとった姿が、馬の姿だった。
  その馬に、非常に良く似ている。というか、そのものだ。マッドに巻きつけて貰ったらしい赤の
 スカーフまでしている。
  という事は、この眼付きの悪い馬は、間違いなくディオであって、つまり近くにマッドがいると
 いう事だ。
  この白い靄の何処かに、マッドがいる。
  しかし、マッドは一体こんな、白い靄に閉ざされた場所で何をしているのか。
  そう思って、サンダウンが馬から降りて、靄の中マッドを探しに行こうと一歩を踏み出した時、
 足元でカツリと硬い音がした。妙に金属的な音に、サンダウンは訝しんで足元を見やる。すると、
 そこにあったのは、銀色の鋲が物々しく留められたガンベルト――しかもバントライン付き――だ
 った。

 「なっ………。」

  明らかにマッドの物であるそれが転がっている事に、サンダウンが思わず絶句していると、更に
 ベルトの周囲に散らばっているズボンやらシャツやらジャケットが視界に入ってくる。果ては下着
 までが見つかって、サンダウンは凍りつく。
  一体、何事だ。
  白い靄の中で散らばっているマッドの衣服。一体、何が起きたと言うのか。此処から分かるのは、
 とりあえずマッドが今、全裸でいる事くらいだ。
  サンダウンが、散らばる衣服に、色々と悶々としていると、突然白い靄が大きく動いた。

 「そこにいんのは誰だ!」

  鋭い誰何と共に、水が弾ける音がする。そして揺れ動いた白い靄の向こう側に、確かに見えた。
 マッドの白い身体が。
  というか、誰何の声は聞き間違えようもなくマッドだ。
  マッドが動いた時に、漣を立てた水面から、水飛沫が飛んでくる。それが顔に当たって、仄かな
 温かさを伝えてきた。
  それを感じた瞬間に、マッドが何をしているのかを理解するのと、マッドと眼が合うのは同時だ
 った。マッドが、あっという表情をする。   しかしそれよりも、サンダウンはマッドがしている事を理解したと認識するよりも、理解してい
 なかったつい先程までの疑問のほうが先に口を突いて出てしまった。

 「何を、している………。」
 「ああ?!見りゃ分かんだろうが!」

  全く以てその通りだ。マッドは、どう見てもただ温泉に浸かっているだけだ。

 「そんな事より、てめぇこそ何してんだ、そんなとこで!覗きか!痴漢か!この年の瀬まで変態か!」
 「違う………!」
 
  サンダウンは慌てて首を横に振る。しかし、じゃあ何してんだ、という問いにサンダウンは答え
 られない。サンダウンは、マッドの事を考えながら馬を走らせていただけだ。だが、そんな事を口
 にしようものなら、マッドは更に冷ややかな眼差しで、変態と言うに違いない。
  何か良い言い訳は思い付かないものか、とサンダウンが考えた末の言い訳は、

 「………私も温泉に入りに来ただけだ。」
 「は………?」

  唐突なサンダウンの台詞に、マッドはぽかんと口を開いたまま固まる。
  その間に、サンダウンは言ってしまった以上はそれを真実にせねば、と思い、マッドの眼の前で
 ばっさばっさと服を脱ぎ捨てる。
  そして、マッドの眼の前で全裸になり、勝手に温泉に入り込むおっさん。
  行動としては間違っていないのかもしれないが、何かが大きく間違って、非常に変態じみている
 気がする。

 「って、何勝手に入ってきてんだ!」

  我に返ったマッドが怒鳴るも、サンダウンはまるで何一つ動揺していないかのような表情で、言
 い放つ。

 「この温泉は別にお前のものというわけではないだろう。ならば、私が入っても何の問題もない。」

  平常通りのサンダウンの物言いに、マッドが唸り声を上げる。
  だが、サンダウンの内心は平常通りではいられなかった。
  なにせ、マッドと一緒に風呂に入っているのである。確かに、色んな事――身体を重ねた事はあ
 っても、実は一緒に風呂に入った事は一度もない。風呂上がりのマッドを待ち構えていた事はある
 が、一緒に湯船に浸かった事は、これが初めてだ。
  ちらりとマッドに視線を向ければ、暗くて水面下は分からないが、それでもマッドの上半身の白
 さは浮き上がって見える。常よりも、ほんのりと赤味がかっていて、それが情事を思い出させる。

  ………いかん。

  サンダウンはマッドから眼を逸らした。
  これは、精神上、非常に宜しくない。いや、マッドが傍にいるのは良いのだが、欲求を抑え込む
 には、あまりにも忍耐を強いられ過ぎる。
  このまま抱き締めてしまいたい。
  だが、それをすれば、間違いなく、サンダウンは変態認定される。それが分からないほど、サン
 ダウンは頭がお目出度いわけではない。
  ちびちびと酒を飲んでいるマッドはと言えば、自分の貞操の危機には気付いていないのか、呑気
 に手酌で酒を注いでいる。

 「………何故、こんな所に?」

  気でも紛らわさなくては、非常に危険過ぎる為、サンダウンは珍しい事に自分から話を振った。
 途端に、マッドが不気味な眼でも見るかのようにサンダウンを見たのは、放っておく。

 「なんだよ、急に?」
 「いや、お前の事だから街でカウント・ダウンでもしているのかと……。」

  視線を泳がせながら言うと、マッドが肩を竦める気配がした。

    「俺がいつでも騒いでると思うなよ。俺だって偶には一人になりたい時だってあんだよ。街にいり
  ゃ、誰彼と寄ってきて酒を注いでいくから、気も休まらねぇ。」

  湯気の所為か、マッドの声は奇妙に反響した。

 「それよりも、あんたこそなんでこんなとこにいるんだよ。年の瀬くらい街で過ごせばいいじゃね
  ぇか。」
 「………街に行っても、する事はない。」
 「俺は、今日は俺くらいしか荒野にいねぇと思ってたんだけどよ。」

    そっかあんたがいたのか。

 「不服か………。」

  私がいては。
  肩を少し落としながら問う。マッドは一人になりたいと言っていた。ならば、唐突に現れたサン
 ダウンは邪魔でしかないのではないか。
  小さく、沈黙が落ちた。

 「……別に、不服だなんて、思ってねぇけど。」

  沈黙の中に亀裂を入れるように、マッドがぽそりと呟く。
  その呟きが聞こえた瞬間に、サンダウンは咄嗟にマッドに抱きつきたくなった。というか抱きつ
 いた。

 「何すんだ!この変態!」

  温泉でいきなり抱きついてきた男に、マッドは怒鳴った。その声にサンダウンは少しだけ身体を
 離す。

 「……抱き付いては、変態か?」
 「時と場合にもよるだろうが!今のあんたは完全に痴漢だ!」
 「……痴漢。」

  ぼそりと反芻して、では、とサンダウンは問う。

 「キスしたいのだが、それも駄目か……?」

  憮然として問うと、マッドが呆れたような表情を浮かべた。

 「温泉で、やる事じゃあ、ねぇよな。」
 「ならば、何処でなら、良い……?」
 「待てよ。答えたらあんた、俺をそこに連れていく気か。」
 「駄目か、嫌か。」
 「そうじゃなくて。」

  なんでだよ。
  マッドが白い靄の中でサンダウンを見上げる。その頬に触れると、そこも温もって赤くなってい
 た。

 「街に行けば、相手にしてくれる娼婦はいるだろ?」
 「お前が良い。」

  力を込めて、サンダウンは言った。他に回答などあるものか。マッドが駄目だと言っても連れて
 いくし、梃子でも動かないと言うのなら、この場で抱き締める。
  岩肌にマッドを抑えつけて傷つけてしまわないように、サンダウンはマッドの身体を自分のほう
 へと引き寄せる。マッドが低く唸っているが、そんな事を気にしていては永遠に手に入らない。

 「……あんたが、宿の金とか払うんだろうな。」

  遂に、マッドが吐き捨てるようにそう呟いた。

 「勿論だ。」

  例え宿が取れなくても、凍えさせる事など絶対にしない。
  そう囁いて、ほんのりと赤く染まった耳元に口付けた。
  腕の中に転がり落ちたが最後、今度は冬が終わるまで離したくないと思うだろう事には眼を瞑っ
 て。腕から離した瞬間に、春まで抱き締めていれば良かったと後悔する事にも口を閉ざして。