ふんふんと鼻歌を歌いながら、古いアパートメントの駐車場に黒のベンツを滑り込ませる。ベン
 ツと言うと高級車をイメージするかもしれない。確かに同レベルの排気量の他の車に比べれば、割
 高ではあるが、そこはピンからキリまで揃っているので、別に普通の世帯でも買えるレベルの車も
 ある。
  尤も、今滑り込んできた車は、それでもEクラス――逆のように思われるかもしれないが、Aが
 最低レベルなのだ――のものだ。
  といっても、古い。しかも、所々に傷やへこみがある。丁寧に修理されてはいるが、古い物特有
 の光沢は隠しようもない。
  が、そこから出てきたのは、まだ若い男だ。カレッジを出たばかり、というわけではなさそうだ
 が、こうした古い物を好みそうな雰囲気ではない。実際、着ているものは新品のものらしく、上品
 ではあったがジャケットの下に除くシャツは柄物で、少しばかり派手な感じもする。
  ただ、それを見事に着こなすだけの秀麗さが彼にはあった。
  白人特有の、しかしそれにしても大理石のような額と、それを彩る黒の髪と黒の眼は日差しを受
 けてきらきらと輝いている。それ以外にごてごてとした装飾は持っていないのに、眼鼻立ちの整列
 だけで、十分に人目を引いた。けれども、ただ整っているだけだったなら、どちらかと言えば派手
 な服装は似合わなかっただろう。しかし、彼の形の良いふっくらとした唇には、人生を謳歌する者
 の笑みが刻み込まれ、勝者のような笑みが派手な衣装を自然なものにしていた。
  しかも、今、彼は非常に機嫌が良い。
  鼻歌を歌いながら、彼には似合わないオンボロアパートの階段を昇っていく姿は、もしかしたら、
 恋人がこの中にいるのではないかという憶測を呼び起こさせるほどだ。事実、彼ほどの男ならば何
 をせずとも女達は群がるだろうから、恋人の一人や二人や三人、或いは女友達の十人や二十人、平
 気で取り出してみせるかもしれない。
  だが、例えその人数が信憑性のあるものであったとしても、生憎とこの古いアパートは彼の恋人
 が住まう城ではなく、紛れも無く彼自身が塒としている場所だった。そしてその塒に恋人を入れた
 事は一度も無い。
  てくてくと階段を上機嫌で昇っていく――エレベーターなんて高度な文明はこのアパートにはな
 い――彼は、自分の仕事の首尾が上手く言った事にご機嫌なのだ。
  千万ドルの保釈金を踏み倒そうと逃亡した被疑者を見事捕まえ、保釈保証業者から手数料を受け
 取ったばかりなのだ。
  犯罪大国という異名を持つアメリカでは、犯罪を犯した場合に一時的に保釈して貰う為の保釈金
 を用意してくれる保釈保証業者がいるのだ。この業者のリストが警察にあるほどだ。しかし、そこ
 は犯罪大国。高額な保釈金を業者に支払わせておいて、そのまま踏み倒していく犯罪者も少なくな
 い。むしろ、多い。そうなると、逃走した被疑者を捕える職種も、当然の事ながら現れるというも
 のである。
  保証金踏み倒し逃亡犯――ベイルジャンパーを捕える事で、保証金の1割ほどが業者から手数料
 として支払われる。
  そういったシステムがある。
  以前は、誰でもそのシステムに参加する事ができたのだが、あまりにも程度の低い連中もいた所
 為で、最近、登録制になった。
  登録した際に貰える身分証を指で弾く彼は、そしてこの職種に満足している。もちろん、危険は
 多い。逃亡犯は、銃を持っている事がほとんどだ。しかも逃亡者なだけあって、死に物狂いで逃げ
 る。それに、時には凶悪犯が混じっている事もあるのだ。一つの判断の誤りは、もしかしたら死に
 直結するかもしれない。おまけに、期間内に犯人を引き摺り出す事が出来なければ無報酬という、
 完全成果主義の世界だ。命の危機に対しての等価がゼロとなる可能性は高い。
  それでも、彼はこの職種に満足しているのだ。
  一つは、彼がまるでこの職に対して天賦の才を得ているかのように、ほとんど失敗をした事がな
 いという事。この職に身分登録をしてから数十件の依頼をこなしてきたが、それで犯人を捕まえら
 れなかった事は一度もない。ただ一度、捕まえた逃亡犯が、保釈保証業者の眼の前で自殺を図った
 という苦い思い出はあるが。
  そしてもう一つは。
  部屋に辿り着いた彼は、ポストに入った新聞を見つけ、それを手にして部屋の中に入る。
  きっちりと片付いた部屋の中で、新聞を唯一乱れたものとしてテーブルに広げ、ジャケットを脱
 ぎながら横目で紙面を追う。灰色の中に踊る黒文字をざらりと流し読んでみて、気になるところは
 タイを弄りながら読み直す。そして線の細い指で灰色のページを捲る。
  動作の一つ一つは、まるでけだる気に見えるほど、ゆったりとしている。彼の纏う空気もそうだ。
 塒に帰ってきて、寛いでいる気分なのかもしれない。
  だが、その気配が一瞬張りつめ、膨張する。ゆったりと動いていた指先が止まり、タイを弄って
 いた手も降ろされて黒い文字の上に散らばる。
  黒い眼は何度も何度も視線の上をなぞり、そしてある一点で止まり、それから再び忙しなく動き
 始める。
  そこにあるのは、焦りではない。緊張しているように見えるが、それだけでもない。
  事実、彼の唇には、笑みがしっかりと刻まれている。先程までの、満腹になったような笑みでは
 なく、もっと貪欲な、一番近いのは獲物を見つけた肉食獣の笑みだ。
  新聞の灰色の中で、やたらと鮮やかに刳りぬかれた人間の顔写真。その下には、その人物の経歴
 が事細やかに描かれている。むろん、犯した罪も克明に。
  無差別に銃で人を殺しているシリアル・キラー。
  それが、広域指名手配されていると、そこに刻まれている。
  彼の仕事は、ベイルジャンパーを捕えて業者に引き渡すだけではない。こうした指名手配犯の追
 跡逮捕も行うのだ。そしてその仕事による危険は、ベイルジャンパーを捕える事を遥かに凌ぐ。広
 域指名手配犯は、大量殺人、及びテロ活動犯を含むからだ。
  けれども、ベイルジャンパーを捕えるよりも、ずっとこちらの仕事のほうが好きだ。愉快そうに
 指名手配犯の顔をなぞりながら、彼は笑みを湛え続ける。
  この高揚感が、堪らないのだ。だから、この仕事を止める事が出来ない。満足しているだけでは
 足りない。これこそが、天職と思えるほどに。
  根っからの猟犬だ。
  自分でもそう思う。