逃亡者逮捕連行捜査官が、自分のアパートに見知らぬ学生を泊め、浅い眠りの中で銃を手放さず
 にいたその頃。
  そこから数百キロ離れたハイウェイで、一台のバイクが乗り捨てられていた。
  そのバイクは、逃亡者逮捕連行捜査官が顔見知りの情報屋の手下の物で、昼間、湖畔近くの駐車
 場で、連続婦女暴行殺人犯に奪われたものと一致する。
  黒いメタリックな車体が闇に沈むその近くで、うっそりと一つの影が蠢いていた。
  カーター・アーネスト。
  新聞で大々的に指名手配された事が伝えられ、黒髪の逃亡者逮捕連行捜査官が追いかけ、そして
 昼間取り逃がした指名手配犯だ。
  闇の中でずるずると動く様は不気味だったが、その姿はすぐさまバイクが壊れた憐れなヒッチハ
 イカーと化し、此処を訪れるであろう車を待ちかまえていた。それは勿論、逃亡する為の脚を手に
 入れる為だ。
  その手に、銃を携えて。
  勿論、脅して目的地に連れて行って貰おうだなんて事は考えていない。そんな事は危険すぎる。
 爽やかに、車の運転手にバイクが壊れた事を告げ、そして運転手が窓を開けた瞬間に、その額を撃
 ち抜くのだ。そうして、死体はそのままに転がして、一人逃げていけば良い。
  遠くに逃げて、ほとぼりが冷めたら、アンジェラを迎えに行こう。
  薄っすらと微笑みながら、カーターは遠くから近付いてくる明かりを待つ。
  ただ、昼間の事はとても嫌な事だった。アンジェラと過ごしたあのコテージが、別の誰かに穢さ
 れてしまうだなんて。それに、あの学生風の男。あの湖畔をいきなり掘り返すだなんて。あそこに
 は、アンジェラと一緒に過ごした時に、欲望を沈める為に殺した女が埋まっている。もしかして、
 知っていたのだろうか。だったら、さっさと殺してしまえば良かった。おまけにコテージまで他人
 に汚されて。
  あの場所は、アンジェラと一緒に過ごした大切な場所だ。他の薄汚い連中に穢されるだなんてあ
 ってはならない事だ。
  土足で、ずかずかと入ってきた、あの黒髪の、男。
  ああ、殺してやりたい。
  しかも、アンジェラが、あの薄汚い母親と一緒だって。そんな愚かしい事を、おぞましい事を口
 にするなんて。あの男は悪魔だ。この世で一番許し難い存在だ。ああ、いっそ、これから引き返し
 てあの男を殺してやろうか。そうだ、それが良い。殺してやろう。あの、黒い髪の男。見つけるの
 は簡単だろう。
  逃亡する事よりも、殺す事のほうが、大切だ。
  カーターは、ひくひくと口元を引き攣らせながら、頷く。そう、彼にとっては、殺す事のほうが
 重要なのだ、今は。
  自分の物を、穢した存在は、許す事が出来ない。
  恐らく、次にあの男に逢った時は、理性を失ってその身体を嬲り殺しにする事は、カーターにも
 分かっていた。けれども、カーター自身がそれを止めようと考えない。むしろ殺すべきだと考えて
 いる。
  目的の為には手段を選ばない人種の一人であるカーターは、これからこの道を通り来るであろう
 車を襲う事にも、些かの良心も疼かないのだ。

 「………その男は、何処にいる?」

  けれど、なんの気配も音もなく、唐突に背後から聞こえた声には、さしものカーターもぎょっと
 した。今まで、自分の背後にはバイクと、薄暗い闇しか広がっていないはずだったのに、低い声が
 しっかりと背中を撃ったのだ。
  咄嗟に振り返り、銃を構えれば、そこにはぬっと背の高い男が経っていた。全体的に古びた、時
 代錯誤な服装をした男の顔は、闇に埋もれて良く見えない。ただ、闇の中で一対の眼が獣の眼のよ
 うに光っている。

 「………お前が、逢ってきた男は、何処にいる?」

  もう一度、低い声が場を打った。
  しかし、カーターですら、その人物が何を言っているのか理解できず、狂人と判断した。そして、
 カーターにとっては自分を邪魔する物でしかない。だから、何の躊躇いも無くそちらに銃を向け、
 平然としてその眉間と思しき場所を撃ち抜いた。 
  響いた銃声は、誰にも聞こえなかっただろう。
  しかし、聞こえても聞こえなくても同じだった。何故ならば、眉間を撃ち抜かれたはずのそれは、
 相変わらずそこに立ち尽くしていたのだから。

 「………その男は、何処にいる?」

  低い声は、壊れたテープレコーダーのように、同じ事を繰り返す。その声は些かの揺るぎもなく、
 血の色さえ何処にもない。ゆらりゆらりと確実にカーターに近付くその姿は、カーターを以てして
 も、有り得ぬ得体の知れぬ恐怖の物体として映った。
  ぬらぬらと蠢く闇。
  そこから薫るのは、硝煙と葉巻の匂い。血の匂いは、一滴も無い。その背後にも、血の後も脳漿
 の塊も何処にもない。
  もう一度、撃鉄を上げて、引き金を引いた。轟音と共に鉛玉が吐き出され、今度こそ闇の中にそ
 れは吸い込まれる。
  が。

    「お前が逢った男は、何処にいるんだ?」
 
  声音は変わらなかった。さくりと歩み寄る足音も、変わらない。
  
 「な………!」

  カーターの口から、初めて、愕然とした響きの声が漏れた。
    これまで、女をどれだけ殺しても、警察がどれだけ近くに来ても恐れなかった殺人鬼が、どれだ
 け銃を受けても死ぬ事のないその物体に、初めて恐怖した。

 「……違うのか?お前が匂いを染みつかせている男は?」
 「う、うあ……!」

  撃鉄を上げて、もう一度引き金を引く。そしてもう一度。何度も何度も繰り返して、引き金を引
 いた。
  だが、近寄る闇に変化はない。揺らめく事一つせずにカーターを見下ろし、何故答えない、と問
 うた。

 「今、お前が殺そうと考えていた男は、何処にいるのかを聞いている。」

  カチカチと虚しく引き金を引く音だけが響く中、男はカーターの怯えなど気にもせずに声を続け
 る。だが、答えられないカーターを見て、そうか、と頷いた。

 「お前も、知らないのか。せっかく、あれの匂いがすると思ったのに。お前で、足跡は終わりか。」

  言うなり、カーターの眼の前には魔法のように銀色の銃口が広がっていた。黒々と開いた銀の顎
 が、それをカーターが認識するよりも前に、鉛玉を吐き出してカーターの額を撃ち抜いている。カ
 ーターには何が起こったかも分からなかっただろう。得体の知れぬ恐怖の内に死を迎えたカーター
 は、しかしカーターに死の鉄鎚を下した本人は、その顔が恐怖に引き攣っている事さえ興味を示さ
 ない。
  足元に斃れた死体など無きものとして、ぼんやりと呟く。

    「……何処に、いる……?」

  掠れた声は、迷子のようだった。





  翌日。
  もしゃもしゃと歯磨きをする逃亡者逮捕連行捜査官は、歯ブラシを加えたままテーブルの上に広
 げていた新聞を斜め読みしていた。
  そして、ある一面で凍りつく。

 「おいおい……冗談だろ?」

  微かに引き攣れた声で、誰に聞かせると言うわけでもなく呟く。
  そこには、カーター・アーネストの遺体が、ハイウェイで発見されたという記事が載っていた。