岐路についた逃亡者逮捕連行捜査官は、運転するベンツの後ろ側に、踏み潰された情報屋とバイ
 クを奪われた手下を乗せていた。
  そして、助手席には。

 「…………。」

  何度話しかけても、うんともすんとも答えない、痩せた若者。殺人者に人質にされ、下手をした
 ら犯されそうになったのだから、普通に考えれば動揺のあまり我を忘れていてもおかしくない。だ
 が、その剃刀色の眼に浮かんでいるのは、あくまでも理知的な光だった。鈍色の髪の隙間から見え
 る眼は、冷静で、けれども何かを拒絶している。

 「で、何処なんだ、お前の家は。」

  とりあえずその場に放置しておくわけにもいかず、ベンツに乗せたは良いが、一言も喋らない若
 者に、彼は小さく舌打ちした。
  本当の事を言えば、実はこのままもう一度、カーターを追いかけたかったのだが、しかし解放さ
 れた人質を放っておくわけにもいかなかったので、それを諦めたのだ。けれども、そんな心中を知
 らない若者は、沈黙を貫き通し、必要な情報さえ口にしない。
  警察に届けるべきか。
  思って、いや、と思い直す。勿論、警察には情報を提供する。カーターの潜伏先も、そこで起こ
 った出来事も。
  しかし、それを先にして、もしもこの若者がある事無い事――こちらに不利になる事を口にされ
 ないとは言い切れない。
  ならば、こちらもこの若者についての情報をある程度知っておく必要がある。

 「あのコテージ周辺は、有名人達にとっちゃ恰好の遊び場だろうよ。でも、お前みたいな奴には何
  の旨みもない。珍しい草もねぇぞ。」

  少なくともこの顔を持つ有名人は知らない。だから、遊びに来たわけでない事は一目瞭然なのだ。
 かといって、何か観光の材料になるものがあるかと言えば、ない。
  だとすれば、此処には、人知れず麻薬でも咲き誇っているのか。
  それとも。
  けれど、痩せ細った若者の肩は、ぴくりとも動かなかった。けれども、若者の眼に、微かに嘲りの
 色が浮かんだ事は、見逃さなかった。そう、この若者は、見当外れの事を口にしている事を嘲ってい
 るのだ。
  嘲りは、自己愛の裏返しだ。この若者は、その痩せた身体一杯に、自己愛を持っているのだ。言い
 換えれば自意識過剰。そういう人間は、放っておけば、何もせずとも自分の事を語るだろう。だが、
 それほどこちらは気は長くはない。さっさと済ませてしまおう。ただ、流石に此処ではまずいだろう。
 一旦、家に帰ってからだ。

 「ひとまず、俺の家に行くぞ。嫌なら、その辺で勝手に降りるんだな。」

  低く言い置いて、アクセルを踏み込んだ。その言葉に対しても、返事はなかった。





 「なるほどな。」

  部屋に戻るなり、貧相な若者をシャワー室に追いたてた。確かに若者の姿は、カーターとの揉み
 合いの間についたらしい泥で汚れていたから、その行為自体は間違いではないだろう。けれども彼
 の目的は、脱ぎ捨てられた若者の服を漁る事だ。
  そして、目的のものは意外とあっさりと見つかった。

 「カリフォルニア大学の学生様が、なんであんな場所にいたんだ。」

  シャワー室から出てきた若者に、学生証を放り投げて、面倒臭そうに問う。学生証に載っていた
 写真は、眼鏡をかけているものの、この若者に間違いなかった。だから、それについて疑う必要も
 ない。
  それに聞いてみたものの、この学生の所属部を考えれば、何故あんな湖畔にいたのかもなんとな
 く分かるというものだ。

 「人文科学部だって?専攻はアメリカ先住民族か?あの辺りの湖畔は、開拓前まではインディアン
  の部落が多数あったらしいからな。聖地だったとも言われてるな。」

  あの湖畔は、西部開拓時代よりも以前のインディアンの鏃が出土される事がある事でも、その手
 の人間に有名だ。考古学者気取りのアマチュアが入り込んで、こっそりと掘ってみようと考える事
 もあるかもしれない。

 「そこまで分かっていて、俺に聞くのか。」

  学生証を受け止めた学生は、剃刀色の眼で睨みつけてきた。ようやく口を開いて出てきた声は、
  どうやら学生証を探られた事よりも、不要に質問をする事に気分を害しているようだ。
  その視線に首を竦めていて、当たったのか、と聞いてみた。
  すると、ふん、と鼻を鳴らし、途中までだけだ、と学生は少し嘲りを込めた声で答える。やはり、
 何処かで過分な自意識が働いているらしい。

 「そもそも、当たってるとも言えないな。俺の学生証を見て、それで俺が出土品探しに湖畔をうろ
  ついていると言っただけなんだから。それに、俺はインディアンなんかの出土品なんか探してい
  ない。」
 「じゃあ、西部開拓時代の移民の持ち物でも探してたか。」

  あの辺りからは、インディオのものだけじゃなく、そこに立ち入ったヨーロッパ移民――インデ
 ィオを殲滅しようとした兵士、もしくは改宗させようとしたキリスト教徒――の所謂、遺品も出土
 する。当時の暮らしを証明する物品として。
  途端に、滑らかに動き始めていた学生の舌が止まった。
  どうやら、図星だったようだ。

 「人文科学の中でも、ヨーロッパを専攻してるのか。当時のヨーロッパと、アメリカ移民の暮らし
  ぶりの比較をしようとでもしたのか。」

     それで殺人犯に襲われてたら世話ねぇな。
  そう告げると、学生は、もう一度小さく鼻を鳴らした。まるで、馬鹿にするように。

 「あの男は、殺人犯だったのか。」
 「ああ、そうだ。連続婦女暴行殺人犯。昨日から新聞にも掲載された指名手配犯だ。」
 「けれど、その男だって、俺に手を出す事はできないんだ。」
 「思いっきり手を出されてただろうが。」

  正体が分かった事で若者に対する興味も失せ、酒の用意をしながら学生の言葉に、御座なりに突
 っ込みを挟んでいく。その御座なりの言葉に、学生は馬鹿にしきった声を出した。

 「俺を殺そうとしたら、その前にあの男が殺されてただろうさ。いや、きっと、今頃あの男は殺さ
  れてる。俺に関わってきた人間は、全員、切り刻まれて殺されてきたから。」
 「お前なぁ。」

  自意識過剰にもほどがある。行き過ぎて、虚言癖があるのだろうか。青年期に多いとされている
 統合失調症の妄想型に似ているような気もする。
  呆れた眼を向けても、学生の言葉は止まらない。

 「本当だ。俺の両親、兄弟、友人、皆、殺された。俺を引き取った家族も、皆だ。俺に、大切な物
  を作らせないように、誰かが企んでいるかのように。」
 「……カーターも、似たような事を言っていたな。母親が自分以外を愛せないように、皆を遠ざけ
  る、と。」

  似ている。
  もしかして、そういう仲間の集まりだったとでも言うつもりか。そんな笑えない冗談はごめんだ。
  けれども、僅かに身構えた彼に対し、学生はそれ以上は何かをするつもりはないようだった。学
 生証を手にした腕をだらんと垂らし、視線を逸らして呟く。

 「きっと、俺に関わった事で、多分、お前だって危険なんだ。」
 「生憎と、危険な目にはいつも会ってるんでな。」

  嘲りの表情を消して、諦観の念を強めた学生に対し、今度はこちらが鼻を鳴らしてやった。だが、
 それに対して馬鹿にした答えはなかった。代わりに何処か虚ろな眼が、こちらを向いただけだった。
 どうやら、これ以上は話していても無理のようだ。見たところ、麻薬やそういった薬物には手を出
 してはいないようだが、どうも精神的に不安定なようだ。もしかしたら明日は、知り合いの精神科
 の医者の元を訪れねばならないかもしれない。
  やれやれ、と思いながら、気の抜けたような表情をしている学生を、ベッドに追いたてる。

 「分かったから、もう寝ろ。明日、大学まで連れてってやる。」

  いやその前に病院が先か。いや、その前に踏み潰した情報屋が来るかもしれない。何故なら、こ
 の学生が眠ってから、この学生の言が正しいかどうかを調べる為に情報屋に連絡を取るからだ。そ
 れを聞いてからの判断でも遅くはないだろう。
  今夜、銃を外して眠るかどうかは別として。
  ベッドに入った学生の姿をちらりと見て、脇に吊るしている銃を外す事なく、彼はソファに沈み
 込んだ。
  何故か幼い頃から身に付いていた眠りの技術は、危険が近づけば自ずと発揮される。それが、今
 夜だ。得体の知れない人間の中に、どんな牙が眠っているのか分からない。それを自然に悟り、眠
 りは身体を休めるだけのものになる。
  きっと、今夜は尤も浅い、獣の眠りに就く。