ひっそりとした木の壁に身を貼りつけて、中の様子を窺う。物音は聞こえない。背中に当たる壁
 からは、ひんやりとした感触しか感じない。けれども、荒らされた草叢の中の泥には確かに足跡が
 残されているし、その足跡ははっきりと、小屋の中に続いている。
  ひとまずコテージを一周し、足跡が続くのは裏口だけだという事を確認した。そして、泥のつい
 た足跡は、草叢と裏口の回りにあるだけで、それ以外の何処にも立ち去っていないという事も。
  これが、良くできた偽装出ない限り、この中には誰かがいる。それも、正当な持ち主ではない誰
 かが。正当な持ち主ならば、裏口を抉じ開ける必要などないからだ。
  脇に吊るした銃を抜き、セーフティを外す。昔からずっと使っている愛銃の重みが手に馴染んだ。
 付き合いの長い銃は、その重みだけで、銃弾があと何発あるのかを教えてくれる。今の重みは、六
 発。満杯だ。
  裏口に忍び寄り、銃を構えた彼に、情報屋がこっそりと囁く。

   「旦那。なんで今時リボルバーなんか使ってんのさ。」

  もちろん、回転式拳銃は今でも使われているが、しかし自動化拳銃に比べると実装弾が少なく、
 装填にも時間が掛かる。
  しかし、それ以上の長所がある。

 「……詰まる事がねぇからな。」

  それに、使用できる銃弾の種類も多い。何かが起きた時に、すぐに対応が出来る銃なのだ。尤も、
 だからと言ってリボルバーを過信しているわけではない。現に、リボルバーの他にもう一丁、オー
 トマの銃も持ってきている。

 「……カーターは殺しに慣れてる。銃やナイフの名手ってわけじゃねぇかもしれねぇけど、それだ
  けは確実だ。殺し合いなら、カーターのほうに分があるかもしれねぇ。だから、念には念を。」

  逃亡犯を捕まえようとして、返り討ちなんかごめんだ。
  逃亡者逮捕連行捜査官は肩を竦めてそう言った。その後、壁に身を貼りつけ、じりじりと裏口に
 近付く。
  木の分厚い裏口の扉にそっと身を寄せ、一瞬でそこに人の気配がない事を悟ると、すぐにそこか
 ら身を離し、同じように壁に身を貼りつけて息を殺している情報屋を一瞥した。

 「おい、てめぇは此処で待ってろ。誰かが出てくる気配があったら、問答無用で殴り倒せ。」
 「旦那は?」

  至極当然な質問に、彼は答えなかった。代わりにコテージの二階を仰ぐ。

 「人質がいるかもしれねぇ。だったら、下から責めるのは得策じゃねぇよな。どんな武器を相手が
  持ってるかも分からねぇんだし。」

  言うなり、二階のバルコニーの真下に近付き、その傍にあった木によじ登り始めた。あわあわと
 慌てている情報屋など一向に解さず、さっさと登りつめて、木の枝の先まで進み――この時、情報
 屋が口から泡を吹きそうになっていた事など、勿論眼にも入っていない――バルコニーに乗り移る。
 この間、一分と経っていない。
  バルコニーに乗り移った後は、扉をどうやって開けようかと考えるだけである。透明なガラスの
 嵌めこまれた大きな扉は、当然の事ながら、しっかりと鍵が掛かっている。
  割るしかない。
  すぐにそう結論付けたが、けれども音がするのは宜しくない。が、こういう時の為の道具もきち
 んと持ってきている。といっても、ただのガムテープだが。ぺったりと硝子にガムテープを貼ると
 後は硝子を叩くだけだ。くぐもった音こそするものの、派手な音は生じない。
  こうして忍びこんだ後は、人間がいる形跡を発見するだけだ。
  有名人達も訪れる地のコテージというだけあって、中はそれなりに豪華だった。華美というわけ
 ではないが、清潔で、広々としている。振り返った壊れた扉から見える湖も、さぞかし雰囲気に一
 役かっているのだろう。
  尤も、もしかしたらこれから、凶悪殺人犯捕縛の場になるかもしれないのだが。
  そしてその可能性は、非常に高い。
  床に零れ落ちた、無数の泥を見れば、誰だってそう思うだろう。それとも、これも巧妙な偽装の
 一つなのだろうか。だとすれば、硝子を割った事への咎が増えるだけで何の旨みも無い。
  だが、偽造でない場合、人質がいるかもしれない為、一切の気が抜けない。

 「…………。」
 
  ひくりと鼻が動いた。
  そこに感じたのは、人間特有の気配。視線だけを巡らせれば、廊下の床の上に、ぽつりと長い影
 が落ちている。これが、人形の影だというのなら、お笑いだが。
  しかし、そんな馬鹿みたいな事は起こらない。それは、賞金稼ぎとしては限りなく良い事だ。廊
 下の角ぎりぎりまで行き、そして階段のすぐ傍に蹲っている顔を見れば、確かに手配書で見た顔と
 同じだった。だが、捜査官としては最悪だ。カーターの腕の中に痩せた裸体がある。そちらも人形
 には見えなかった。
  脱ぎ散らかされたジーンズとシャツも、それが人形でない事を告げている。カーターに人形を剥
 いて抱く趣味があるとは聞かないから、やはり人間なのだろうな、と思う。
  ただ、気になるのは。

  ――あれは、男じゃないのか。

  骨ばった身体は、どう考えても男のものだ。カーターに同性愛の気があるとも、聞いた事がない
 のだが。
  しかし、カーターが同性愛者だろうと両性愛者だろうと、人質を取っているという事実は覆され
 ない。微かに痩せた身体が抵抗しているようなのも、共犯者でないと知らしめ、やはり人質なのだ
 ろうと思う。
  厄介な事になった。
  だが、予想はしていた事だ。
  ただ、逃亡者逮捕連行捜査官は、賞金稼ぎのように生死問わず逃亡者を捕えれば良いわけではな
 い。生かして捕えなければ、意味がない。まして、まだ罪が完全に確定されていない容疑者ならば、
 尚更。
  やれやれ、と思うが、この場合は先手必勝であると、彼はよく知っている。
  だから、何の声も発せず、一切の予備動作もなく、カーターの前に飛び出した。そしてカーター
 が眼を剥く暇も無く、構えていた銃の引き金を引く。ほとんど狙点していないように見えるかもし
 れないが、生憎と銃の命中度は高い。人質を抑え込んでいるカーターの左腕から血が吹き上がった
 のは、当然の事だった。
  ただ、予想と違っていたのは、カーターが銃で撃たれたにも拘わらず、微動だにしなかった事だ。
  何、と考える暇はなかった。カーターは既に銃を掲げて、こちらを見ている。その眼が濁ってい
 るのを見て、納得した。
  麻薬か。
  だらしなく開いた口から涎を零しながら、舌をだらんとそこから垂らして、カーターは血が噴き
 上げるのも構わず人質を抱えて銃を掲げている。

 「……それが、あの女の代わりか?」

  聞こえているのかどうかも分からないが、彼は、カーターに問うた。

 「お前が穢さずに、他の女を犯して殺す事で守っていた女の代わりは、遂に、そんな貧相な男に成
  り下がったのか?あの女の代わりに、それを犯して、欲望を押さえてたってか?」
 「アンジェラは天使だ。」

  クラブでDJをしていた女の名前だろう。カーターから、くぐもった声が聞こえた。

 「アンジェラは、俺の、天使だぁ!」
 「そして、お前の、母親の代わりか?」

  カーターを抑圧し続けてきたという、あの、母親の。カーターは、母親以外を愛する事を禁じら
 れている。その呪縛は、母親を殺しても、終わっていない。でなければ、女殺しをこんなふうに続
 けるはずがないのだ。
  母親以外愛せずに、母親の代わりに女を殺していく。アンジェラを愛しながら、アンジェラの代
 わりに女を犯して殺しているのは、それの延長線上だ。そう考えれば、所詮アンジェラも母親の代
 わりでしかないのだ。
  殺された女達は、アンジェラの代わり。
  カーターに女達を殺させている、何も知らないアンジェラ。
  そして事の発端は、カーターの母親。

 「アンジェラを見ていても、お前は母親をその後ろ側に見るんだろう?だからお前は、アンジェラ
  とセックス出来ない。そんな事をしたら、お前はアンジェラを殺してしまうかもしれない。お前
  にとって、全ての女はお前の母親にしか見えないんだから。」

  そして、遂には、人間全てが母親に見えるようになったか。
  人質に取られた、痩せた男。それは、麻薬の所為かもしれないが。
  濁ったカーターの眼が大きく見開かれるのを見ながら、それは激昂の兆候だと冷静に思う。もう
 一度、先制して銃を撃つべきか。

 「旦那ぁ!どうしたのさ、さっき銃声が……。」

  そこに、間抜けな声が響いた。外にいた情報屋が、銃声を聞いて上がってきたのだ。
  途端に、カーターが信じられないほど素早く動いた。銃を今にも撃とうとしていた賞金稼ぎの前
 に、痩せた人質を押し付けるように突き飛ばすと、銃を振り回しながら階段を上がってきた情報屋
 に突き当たっていく。
  情報屋の体格は、カーターを凌ぐものだったが、けれども突然の事に対応できないのか、カータ
 ーの身体に弾かれるようにして階段を転げていく。そしてカーターはと言えば、情報屋の身体と縺
 れ合うようにして、同じように階段を転がっていく。
  人質の身体に進路を遮られた賞金稼ぎは、人質の身体を押しのけると、すぐさま階段に駆け寄っ
 た。だが上から見下ろした踊り場には、情報屋が伸びているだけでカーターの姿は何処にもない。
 舌打ちしながら階段を駆け下り――その際に情報屋を踏み潰すのも忘れない――泥の足跡を追う。
  コテージから出ていった足跡は、草叢を薙ぎ倒しながら進んでいるから、追いかけるのは容易と
 いえば容易だった。
  だが、だからといって、追い付けるというわけではない。
  駐車場まで走り抜けた彼が見たものは、蹲っている情報屋の手下達だった。殴られるか蹴られる
 かしたのか。命に別条はなさそうだが、けれどもバイクが一台減っている。消え去ったバイクの行
 く先は、全く見えない。

 「す、すいやせん、旦那。」

  蹲っていた手下達の一人が、震える声で言う。

 「あの野郎、銃を振り回しながら、物凄い勢いでやってきて、取り押さえようとした俺らをあっと
  言う間に弾き飛ばしやがって。」
 「……だろうな。」

  一時的な筋力の飛躍。それももしかしたら、麻薬の所為かもしれない。それとも、母親の事を口
 にされて、我を忘れてしまったか。
  何れにせよ、麻薬の事を考慮しなかった自分の、あまりにも初歩的なミスだ。いや、そもそもあ
 の情報屋があんな時に現れなかったら何とかなったかもしれないのに。
  が、終わってしまった事は仕方ない。幸いにも、死者は出ていない。人質も生きている。

 「やっぱ、連れて来るべきじゃなかったな……。」

  それでも、割り切れぬ事と言うのはあるものだ。今頃、階段下で潰れているだろう情報屋を思い、
 二度と連れて行かない、と決めた。