ゆらりゆらりと、マッドは再び一人で夜の街を歩いていた。
  機嫌は悪くない。賞金首を撃ち取って、懐も暖かい。だが、大勢で馬鹿騒ぎをしたい気分でもな
 い。娼婦にちやほやされるのも、今日は勘弁したい。
  今宵の機嫌の良さは、一人でゆっくりと噛み締めて味わいたい部類のものだ。
  もしも、家族のように近しく親しい者がいたならば、その腕の中に飛び込んで、今日あった事を
 話して聞かせもするだろう。この気分の良さは、子供が今まで出来なかった事が出来るようになっ
 たような部類のものだ。マッドが子供だったなら、誰彼構わず話し回ったかもしれないが、マッド
 は大人だし、話し回るよりも一人で噛み締めたほうが良いという事も知っている。
  だから、マッドは一人で夜の街を歩き、賞金稼ぎ仲間の誘い文句も、娼婦達の熱い視線もないも
 ののように振り払い、酒場を探して回る。
  マッドが探すのは、喧騒の少ない、閑散とした、誰もマッドに関わろうとしないだろう寂れた酒
 場だ。




 Old Fashioned





  日付を越える二時間ほど前に見つけた酒場は、良い具合にうらぶれていた。娼婦は一人もおらず、
 いるのは町の男だけという集客状況で、当然の事ながら賞金稼ぎもならず者もどちらもいない。地
 元民相手に、地道にやりくりしているのだろうから、纏まった金もないのだろう。だから、誰にも
 眼を付けられずにいるのだ。
  けれども、濃い茶色に染まった木の床は、それでも塵一つ残さず掃われていたし、ともすればヤ
 ニで茶色く汚れていく窓硝子も、綺麗に磨かれている。
  うらぶれている。
  けれども、食い潰されて倒れていくといった様相はない。
  きっと、これから数年は、こつこつとこの地で商売を続けていくのだろうな、と顰め面をしてグ
 ラスを磨くマスターを見て思う。
  此処で、酒を飲み潰してしまう事は簡単だろう。小さな酒場だ。ザルで酒豪のマッドの手に掛か
 れば、明日の朝を待たずして、この酒場は一滴の酒も残らない。事実、もっと大きな酒場では、他
 の賞金稼ぎや娼婦を引き連れて、朝まで馬鹿騒ぎをして、その店の酒場を飲み倒した事があった。
  だが、この酒場ではそんな事はするべきではないだろう。
  こんな、渋みがかった酒場で、馬鹿騒ぎなどするべきではないし、酒という酒を飲み干すのも駄
 目だ。そんな野暮な事はするべきではない。
  マッドは、野暮な事が一番嫌いなのだ。
  それに今日は一人でゆったりと酒を飲むのだと決めている。噛み締めるように、じっくりと酒の
 味を感じて、それと同じくらいじっくりとこの気分の良さを味わおう。
  程よく日に焼けたウエスタン・ドアを押し開き、心地良いドアの軋む音で耳朶を楽しませながら、
 良く磨かれた木の床を長靴で鳴らしていく。その音もまた、気持ち良く響く。
  マッドが立てる足音に、酒場で先に酒を飲んでいた、腕に隆々と筋肉を付けた男達が視線を向け
 たが、それは一瞬の事。彼らはすぐに自分達の低い声の会話に意識を逸らせ、手の中にあるグラス
 の氷を、自分達の声とは正反対に高く響かせる。
  普通の大きな酒場なら、誰や彼やとマッドに媚びを売ろうと擦り寄ってきて、マッドを決して一
 人にさせようとしないのだが、この酒場では誰も賞金稼ぎマッド・ドッグの事を知らないのか、誰
 一人として最初の一瞥以上の視線を向けようとしない。それ以上はせずに、マッドの存在など無視
 している。
  その無関心さが、マッドには心地良い。
  人に囲まれて、もしかして、疲れていたのだろうか。そんな事を内心苦笑しながら思う。一人で
 いる事も、大勢に囲まれる事も、苦にならない人間だと思っていたのだけれど。案外、どちらかに
 偏り過ぎると、もう一方が恋しくなるのかもしれない。
  此処に良い無関心に包み込まれ、マッドは薄っすらと口元に笑みを湛えて、カウンター席に座る。
  すると、顰め面のマスターが、こちらも同じく一瞥をくれる。その眼差しにマッドは口元に刷い
 ていた笑みを、ごく少量だけ濃くして、酒を注文する。それと、簡単な食事と。別に酒だけを飲ん
 でも酔ったりしないけれど、けれどもやはり胃に何か入れたほうが良い事は分かっている。
  薄切りにしたベーコンと玉ねぎを摘まみながら、琥珀色に染まった液体を、マッドも後にいる男
 達と同じように弄びながら口に近付ける。中で氷がカラカラと鳴るから、喉が焼けつくという事は
 ない。ただ、微かな熱みと冷たさがまろやかになって、喉元を通り過ぎていく。
  数杯、グラスを傾けた後に、カウンターに肘をついて、とろりとした表情でグラスの中を覗きこ
 み、自分の顔が歪んでいるのを見つける。
  しかし、瞬間的に、その表情が不意に真顔になったのを、マッドは見逃さなかった。
  いや、見逃さないも何もない。そこに映っているのは自分の顔なのだから、表情が変調した事に
 など誰よりもよく気付いているはずだ。その理由についても。
  何度目かのグラスの中の琥珀を見つめながら、マッドは背中に突き刺さるような気配を察知して
 いる。
  別に、マッドに対して敵意があるわけでもない。現に、周りの誰も、会話を中断して怪訝な様子
 などしていない。だから、これは単に、マッドだけがやたらとその気配に鋭敏になり過ぎた結果だ。
  前にも、同じような事があった。
  その時は、向こうもマッドに気付いていたようだったけれど、マッドに決闘の意志はなく、だか
 らそのまま話し掛けもせずに終わったのだけれど。
  今回も、マッドは決闘の意志はない。
  こんな気分の良い夜に、そんな事はしたくなかった。相手をするにしても、精々が晩酌程度だ。
 それ以上の血腥い遣り取りは、この店の、こんな気分な状態では野暮というものだった。

 「………随分と、大人しい。」

  だが、普段ならマッドを素通りするはずのその賞金首は、何故か今日に限ってマッドに近寄って
 きて、あまつさえ声までかけていく。
  低い響くような声に、マッドはグラスから視線を上げもせずに、同じように低く返す。

 「何の用だよ。言っとくけど、今日はあんたの相手なんかしてやらねぇぞ。」
 「…………。」

  返答は沈黙だった。男がマッドの声に対して無視を決め込むのはいつもの事なので、マッドは特
 に気にしない。
  だが、男がそのまま平然とマッドの隣に腰掛けてきたのには、怪訝な顔をせずにはいられなかっ
 たが。しかし、何処に座ろうが自分の勝手だと言わんばかりの男の様子に、この男はいつもこんな
 ふうだ、と思い直し、そのまま数回杯を重ねる。
  マッドの隣で、男も黙って杯を進める。特に、マッドの邪魔をする気配はない。
  けれど、無言の男が隣にいるマッドとしては、薄っすらと居心地が悪い。マッドが話し掛けて、
 普段のように絡めば良いのかもしれないが、マッドとしては今はそんな事をしたい気分ではない。
 というか、居心地が悪くなってしまった所為で、機嫌の良さも薄れつつある。
  別の場所で飲み直した方が良いのかもしれない。
  大体、賞金首と賞金稼ぎが、雁首揃えて酒を飲む事自体がおかしいのだ、と思ったマッドは、消
 えそうな機嫌の良さを再び浮上させる為に、幾許かの紙幣をカウンターに置くと、そのまま立ち上
 がった。
  その様子をサンダウンがちらりと視線で追いかけるが、その視線はすぐに逸らされてしまう。そ
 の仕草は、背後で酒を飲んでいる男達と同じであるはずなのに、居心地が良いとは言えない。おそ
 らく、知った人間である上に、隣になんか座っているからだろう。
  無言の男に、マッドも特に声をかけるわけでもなく、ブーツの音を立てながら背を向けた。





 「…………。」

  サンダウンは、ぽっかりと空いた隣の椅子を見て、溜め息を吐いた。
  今日は少しばかり機嫌が良さそうだったから、近寄ってみたのに。
  なのに、いつもはこちらが願ってもないのに近寄ってくる賞金稼ぎは、サンダウンが近寄った途
 端、遠ざかってしまった。
  何故だ。
  そして、何故か。
  マッドがサンダウンから逃げていく事が、気に入らないのは。
  マッドの機嫌が良かった理由も分からないし、マッドがサンダウンから逃げていく理由も分から
 ないが、一番分からないのはそれが気に入らず、なんとか打開しようとしている自分自身だ。
  むっつりと押し黙ったまま、琥珀色の液を睨みつけ、サンダウンはそれを呷った。
  焼けるような苦味が、喉を通り過ぎていった。苦い軌跡を残したまま。