マッドは、手の中にあるグラスを弄んだ。琥珀色の液体と、透明な氷が入ったグラスは、揺らせ
 ばそれらが、カランカランと涼しげな音を立てる。
  小さな町の小さな酒場で、賞金稼ぎマッド・ドッグは、一人でグラスを傾けていた。
  娼婦がいるほどの大きな酒場ではない。入っている人間もまばらで、閑散としている。町の規模
 自体小さく、恐らくゴールド・ラッシュ時に鉱山との中継地点として作られ、その当時はそれなり
 に栄えたのだろうが、波が去って以降は寂れる一方なのだろう。いつかは、荒野の砂に呑まれて沈
 んでいく。
  そんな、うらぶれた酒場の一画で、マッドは一人手酌で酒を飲んでいた。
  寂れた町だ。しかし、そのわりには酒は随分と良い物を揃えている。この辺りで良い酒が作れる
 とも思えない。そんなものが出来たら、こんなふうに寂れたりはしないだろう。おそらく、酒場の
 マスターの趣味か意地かのどちらかだろう。




  Whizz Bang





  幸いにして、アルコールに対する耐性は強い。酒を飲み過ぎて、それが次の日の仕事に響くとい
 う事はない。だから、大勢で馬鹿騒ぎをしたとしても、周囲の人間が次の日二日酔いで動けない中、
 マッド一人だけ平気だったりする。
  では、大勢で飲まずにこうして一人で手酌で飲んでいれば、ますますアルコールの心配などしな
 くても良いだろう。と思うのは大間違いだ。
  マッドは確かに大勢で馬鹿騒ぎするのは嫌いではない。むしろ、その場にいれば勝手に中央の座
 に位置してしまうのがマッド・ドッグという男だ。そして、マッドが中央にいるだけで、周囲が勝
 手に盛り上がっていく。
  だが、一人が苦手というわけでもない。いや、時折、本当に一人になりたい時というのがある。
 誰かと顔を突き合わせず、傷ついた獣がひっそりと身体を癒すように、静かにしていたい時という
 のがある。そんな時は、こうして一人で静かに酒を飲み干すのだ。そしてこういう場合、確実に、
 大勢で飲む時よりも、アルコールの摂取量は多くなる。
  誰かと会話をしない所為かもしれない。ただただ酒を飲むだけだから、アルコールの量も増えれ
 ば、アルコールの回りも増える。だからと言って、これまで酔い潰れて次の日二日酔いで動けない
 なんて、無様な状態になった事はないけれど。
  グラスを持ち上げて、カランカランと音を鳴らす。ふらふらと揺れる琥珀の水面と、その水面に
 浮かんで同じ琥珀色に染まった氷に、自分の顔が映っている。どちらも歪んでいるが、しかし表情
 は特に何の色も浮かんでいない。
  もしかしたら、既に歪んでいて、歪んだ物に映ってまともに見えるのかもしれないが。
  こんな夜に、賞金首やらならず者やら、はたまたマッドを恨みに思っている輩が押しかけてきて
 も、多分相手はしてやれない。そういう気分になれない、と言うのが本音だ。そんな気分になって
 やる義理も無い。
  そもそも、マッドはその通り名故に誰にでも彼にでも噛みつくと思われがちだが、別にいつもそ
 んなふうなわけではない。気に入らない相手には容赦なく銃を向けるし、興味がない相手など歯牙
 にもかけない。根本的に気紛れだから、その気がなければ眼の前に賞金首がいてもごろごろしてい
 る。まあ、その気にならない事自体が、稀なのだが。
  ただ、偶々、今がその稀な時期なだけだ。
  だから、薄暗く閑散とした酒場のウェスタン・ドアが濁った音を立てても、特に心動かされはし
 なかった。 
  いや、確かに心動かされはした。
  入ってきた気配が、よくよく見知ったものであったから、多少は心動かされた。まして普段から
 追いかけている気配だから尚更だ。
  だが、確かに少々心が浮ついたものの、しかし振り返って決闘を申し込むまでは至らない。それ
 ほど、心が沈んでいたのだろうかとも思ったが。
  ただ、向こうは向こうでマッドに気付いたようではあったが、無言を貫いている。だから、マッ
 ドも自分の反応が必要であるとも思わなかった。毎回毎回噛みつくのも馬鹿な話だ。そこまで思う。
  しかし、相手の一挙一動を追いかけるのは、もはや癖だろうか。自分から少し離れた後ろ側を通
 り、軋んだ音を立てて古びたテーブルに着くのが耳に聞こえた。そして、聞きとれないぐらいの小
 さな声で酒を頼むのが。だが、マッドのように、向こうもマッドの気配を追いかけているのかまで
 は分からない。マッドの事などどうでも良いと思っているのかもしれないだろうから、マッドがい
 る事に気付いていても、それ以上は気にも留めていない可能性だってある。
  だから、マッドも特に振り返るなどの反応は示さない。何でこんな所に、とも思わない。荒野は
 広い。何処で誰が出会うのも、有り得る事だ。身体に蟠る倦怠感に任せて、闘争心やらなんやらを
 掻き消して、手酌を繰り返す。
  けれども、自分で思うほど、背後にいる相手の事を蔑ろにしているわけではないようだ。
  次々と空になっていくボトルを見ながら、マッドは思う。一人で飲む時よりも、ペースも速いし
 飲む量も多い。背後に意識を持っていかれている所為だろうか、酒の味も良く分からなくなりつつ
 ある。
  これ以上は飲んでいても無駄なんじゃないか、そう思い始めたマッドは、そろそろ宿に帰ろうか
 と財布に手を伸ばす。こんな状態で酒を飲んでいてもあまり意味はないし、だったら宿に戻って、
 酒を持ちこんで、そこで飲んだほうが良い。
  がさりと音を立てて、数枚の札を財布から掴み出すと、それをカウンターに置き去りにして、ふ
 らりと身を翻した。カツカツと硬いブーツの音を立てながら、マッドは摂取したアルコールの量に
 反して、しっかりとした足取りで酒場から出ていく。
  身を翻す時に、酒場の隅に沈みこんだ茶色い染みを視界の端に捉えたが、だからといってこんな
 状態で決闘を挑むなんて野暮だ。大体マッドにその気はない。
  視界の端に映った姿を一瞥する事なく、マッドはひらひらと酒場を背にする。
  酒場を出て空を見上げれば、月さえ見えない。星なんて一つだって見つからない。完全な闇夜だ
 った。曇っているのだろうか。何処からともなく水の匂いがする。そのうち、ひと雨来るかもしれ
 ない。こんな僻地で雨にやり込められるなんてごめんだ。マッドは足早に宿に向かった。





  サンダウンは、小さく揺れ動くウェスタン・ドアを一瞥した。きぃきぃと小さく軋む音を立てた
 ドアから、先程出ていった黒い賞金稼ぎが戻ってくる気配はない。
  いつもと違い、妙に静かな空気を纏った賞金稼ぎを思い出し、あんな気配も出来るのかとサンダ
 ウンは少し驚いた心持だった。
  驚いた、というよりも感慨深かった、というべきか。
  いつも爆ぜるような、火の玉のような気配をしているから、あんなふうに沈んだような姿を見た
 のは初めてだった。確かに、その内々には牙を隠しているような、傷ついた獣のような雰囲気では
 あったが、それ以上に沈んでいるようだった。
  沈んでいるマッド、というのはサンダウンは見た事がなかったものだから。
  疲れているのか、それとも何か、心をかき乱すような事があったのか。
  しかし、その両方を纏うマッドというのが、サンダウンにはどうしても思い浮かばない。
  それに、例えその両方であったとしても、サンダウンを無視するマッドというものなど、サンダ
 ウンは見た事がない。これまで一度としてサンダウンを素通りする事がなかったマッドが、今日、
 初めてサンダウンを見過ごした。
  気付かなかったという事はないだろう。マッドの意識が一瞬サンダウンを捕える空気に、サンダ
 ウンは気付いた。だが、気付たにも拘わらず、マッドはサンダウンをいないものとして扱ったのだ。
 決闘を申し込む事はおろか、絡んでくる事さえなかった。言葉さえかけなかった。
  賞金首と賞金稼ぎが、声を掛け合うなんて事は、普通に考えればない事なのかもしれないが、け
 れどもマッドの性格を知っている身としては、サンダウンに絡まないなど考えられない事で。
  単純に言ってしまえば、サンダウンが知っているマッドなど、ほんのごく一部でしかないと言う
 だけの話だ。
  だが、その事実が少しばかり、サンダウンにはおもしろくない。
  何故なのかと問われれば、サンダウン自身、首を捻るしかないのだが、ただなんとなくおもしろ
 くないと思うのだ。
  マッドがサンダウンを振り返りもしなかった事、サンダウンの知らない表情をしていた事、その
 理由がさっぱりサンダウンには見当がつかない事。
  なんとなく、つまらない。
  しかもその原因を問い質す事が出来ないのだ。
  つまらない気持ちになりながら、サンダウンは手の中にある琥珀色の液体を見下ろした。そこに
 は、なんとも情けない顔をした自分が映っていた。