サンダウンはちょこまかと独楽鼠のように働くセイレーンを、うっとりとして見た。
  サンダウンの中にあるセイレーンへの感情は、以前のように何が何でも逢いたいだとか、べたべ
 たと触りたいだとか、そういう起伏の激しいものから徐々に変化しつつある。
  もちろん、今でも触りたいといった欲求はあるが、しかし以前のようにそれを無暗に行動に移す
 事はなくなった。それはセイレーンが嫌がるという事もあるのだが、それ以上に少しずつサンダウ
 ンの中でセイレーンの立場が確立されていったからだと言えよう。
  セイレーンは、サンダウンが術に罹っているのだと言う。
  サンダウンにその自覚はないものの、確かにセイレーンと出会ったばかりの頃は、セイレーンを
 自分の傍において手垢塗れにする事しか考えていなかった。何故、セイレーンの事をそう思うのか
 というものが、すっぽりと抜け落ちていたような気がする。
  が、術に罹り、暴走してセイレーンに逢いに行き、そしてしばらく一緒に暮らしてみた事で、餓
 えていた部分は治まって、後に残るのはセイレーンをどうやって自分の方を振り向かせようかとい
 う事だけだった。
  といってもそれは、無理やりにではなく、あくまでもセイレーン自身がサンダウンを傍に置こう
 と思わなくてはならない。そう思うほどには、サンダウンは冷静さを取り戻していた。未だにセイ
 レーンの尻尾が可愛いと思っているあたり、決して術が解けたわけではないようだが。
  その、術が解けたわけではないが、現在ひとまず小康状態に陥っているサンダウンは、けれども
 恋する人間そのものの眼差しでセイレーンの姿を追いかける。
  黒いセイレーンは、残念ながら可愛い尻尾をコートで隠してしまっているが、別に可愛いのは尻
 尾だけではないのでそれ以外の部分を堪能する事にした。
  ひょこひょこと動く度に少し跳ねる短い髪はふわふわとしていそうで、彼の下半身を覆う羽毛の
 ように柔らかそうだ。ぺたぺたと歩く脚は猛禽類特有の鋭い爪があるが、しかし土の上を歩くと足
 跡がついて、それが可愛い。そして、他のセイレーンを差し置いて何よりも秀でて愛くるしいのは
 眼と唇だ。黒い眼はきらきらと光り輝き、形の良い唇はふっくらとしていて指で押せば程よい弾力
 がありそうだ。
  セイレーンの術は、相手を完全に骨抜きにする。しかし、その根底にあるのは決して親愛や母性
 父性などではなく、明らかに性愛に訴えるものだ。故に、サンダウンがセイレーンの唇に欲望めい
 たものを抱くのは当然だった。
  ただ、それを無理強いしないようになったのは、術が薄れたのではなく、サンダウンの中である
 べきところに収まった所為だろう。性愛に由来するものではあるが、セイレーンの術は聞いた者を
 セイレーンの敵にするものではない。従って、サンダウンがセイレーンの意に反する事をしなくな
 った今、むしろ完全に術が回り始めたと言っていいだろう。
  だがサンダウンは自分が術に罹っている自覚は、どれだけ聞かされてもやはりなく、ただ、セイ
 レーンの傍にいる事で随分と気持ちが落ち着いた、と思っているだけである。
  牛の世話を手伝いながら、セイレーンが花の世話をしている様子をちらちらと見て、やっぱり可
 愛いと思うのだ。抱き締めたくないわけではないが、それではセイレーンが驚いてしまうだろうと
 自分を宥めつつ、サンダウンは牛にブラシを当てている。

 「それが終わったら、牛乳運べよ!」

  シロツメクサの蜜を取っていたセイレーンが、くるりと振り返り、叫ぶ声が聞こえた。背中にあ
 る羽根に隠されていた彼の顔が、はっきりと見える瞬間。背中にある黒い羽根は、鴉よりも尚黒く
 艶めいていて、なのに同時に酷い静けさを保っている。
  そういう壮絶な瞬間を見れば綺麗だ、と思うし、同時に唇を尖らせているのを見ると可愛らしい、
 とも思う。
  落ちた羽根の一枚ですら、拾って懐に収めたいと思うほど、サンダウンはセイレーンに堕ちてい
 る。実際、羽根を拾っていたら掃除をしているのだと勘違いされ、ゴミ箱を持って来られたのだが。
 そこに泣く泣く拾い集めた羽根を捨てた自分が悲しい。もう少し抵抗すれば良かったのだが、あそ
 こで抵抗すれば、セイレーンの滑らかな眉間に谷間が出来るのは、嫌でも想像できた。
  セイレーンの嫌がる事は出来ない。
  セイレーンの術中に嵌っているサンダウンは、ぱたぱたとセイレーンが羽根を羽ばたかせている
 のを見ながら、牛乳を詰めた瓶を引き摺りながら運んだ。
  運びながらセイレーンをちら見すると、セイレーンは絡まった埃でも払っているのか、まだ羽ば
 たいている。羽根を羽ばたかせながらしゃがみ込んで、シロツメクサの様子を見ているようだ。
  セイレーンの歌を浴びて意気揚々と咲き誇ったシロツメクサは、何一つ問題なく育っているよう
 に見える。サンダウンは花に関しては丸っきり素人なので、もしかしたらセイレーンにしか分から
 ない不備があるのかもしれないが、このセイレーンに限ってそんな間抜けな事はしないように思え
 た。
  セイレーンの旋毛を、羽ばたきに邪魔されながらも覗き込んで、サンダウンはセイレーンに声を
 かける。

 「何をしている………?」
 「ん?ああ……この後何を植えようかと思ってさ。」

  サンダウンのぼそぼそとした問いかけに、セイレーンはあっさりと答えた。シロツメクサの一つ
 に添えていた手をそっと外すと、それが繋がっている地面を撫でる。

 「このままクローバーに覆われさせたほうが、地面には良いのかもしれねぇな。最近、休ませてな
  かったからな。クローバーなら、地面にも良いだろ。」

     土で手が汚れるのも構わずに地面を撫で、時には黒い土に手を埋もれさせながら、セイレーンは
 独り言のように呟いている。

 「今年は種蒔きはなしだな。」
 「……種蒔き。」

  セイレーンの言葉を反芻して、サンダウンは首を傾げた。
  此処にある草花は、全てセイレーンの歌声を聴いて伸びやかに育っている。サンダウンは、セイ
 レーンが歌を歌った瞬間に、薔薇の蕾が膨らみ、シロツメクサが天を指したその瞬間を見ている。
 それなのに、セイレーンは種蒔きをするしないと言っているのだ。薔薇の花を咲かす事が出来るの
 なら、種蒔きなどせずとも芽が生えるのではないのか。

 「んなわけあるか。」

    サンダウンの疑問に対して、セイレーンはにべもなかった。

 「てめぇは俺らをなんか勘違いしてんじゃねぇのか。いくら俺でも、何もねぇところから花を咲か
  せることはできねぇぞ。」

  シロツメクサも薔薇の花も、全てそこにそれを生み出す存在があったから出来ただけの事。クロ
 ーバーの芽が、薔薇の樹が。それがなければ、セイレーンとて花を咲かせる事は出来ない。だから
 こそセイレーンは、人間が田畑を作り、そこに作物を植えるように、花の種を蒔くのだ。
  そういえば、とサンダウンは思い当る。セイレーンの倉庫に、幾つもの瓶に詰められた豆のよう
 なものがあった。ジャムやらペーストも一緒に保管されていたから、あれも食糧だろうと思ってい
 たのだが、もしかしたらあれこそが花の種なのかもしれない。

 「……種も、花弁や蜜と一緒に集めるのか?」
 「此処で取れるもんはな。でも、別の土地の珍しい種なんかは、渡り鳥が持ってくる。」

  渡り鳥、と聞いてサンダウンが思い浮かべるのは、白鳥などの水鳥だ。それらが羽根に植物の種
 をいっぱいに着けてやって来るところしか想像できない。

 「多分、明日か明後日くらいにくるぜ。毎年、この時期にくるんだ。あの三羽は。今年は何も植え
  るつもりはねぇが、おもしろいもんがねぇか見に行くか。それに、人間どもの情報も持ってくる
  だろうしな。」
 「………。」

  渡り鳥が、人間の情報も持ってやって来る。どうやって、と思ったが想像できなかった。
  それよりも。

 「……三羽。お前達は、一人、二人と数えるんじゃないんだな。」

  鳥と一緒か。

 「……てめぇ、変なところを気にすんなぁ、おい。」
 「ということは、お前達は玉子から産まれるのか………。」
 「待てよ、なんでそうなるんだよ。数え方が鳥と一緒だったら玉子から産まれるってのが人間の常
  識なのかよ。」
 「……違うのか?」
 「違うとかって言うよりも、つーか、なんでてめぇに、俺らの産まれ方まで教えねぇとならねぇん
  だ。」
 「………。」

  気になる。
  玉子から産まれるのか、どうなのか。玉子から産まれるのだとしたら、赤ん坊の頃はもふもふの
 産毛に覆われているのだろうか。
  そんな事を考えていると、セイレーンに、変な事を考えてんじゃねぇ、と怒鳴られた。
 
  

  
  次の日、セイレーンがぱたぱたと足音を立てて出かけようとするのが見えた。それを捕まえると
 セイレーンは酷く面倒くさそうな顔をした。

 「なんだよ。」
 「……何処へ行くんだ。」

  サンダウンは、最近は口にしないものの、出来る限りセイレーンの傍にいたいと願っている。そ
 れはセイレーンに骨抜きにされた者が皆思う事だ。セイレーンの傍にいれば、無条件に嬉しい。
  だが、そんなサンダウンの心情など一向に構ってくれないセイレーンは、面倒くさそうな顔を止
 める事なく、表情と同じくらい面倒くさそうな声で言った。

 「渡り鳥が来てるんだよ。二、三日は滞在するつもりらしいけど、用事は早めに済ましといたほう
  が良いだろ。」

    それは、昨日セイレーンが口にしていた、種と情報を運ぶという渡り鳥の事だろうか。
  サンダウンもそれを見てみたいと思ったが、それを聞いたセイレーンはますます顔を顰めた。

 「確かにあいつらは人間慣れしてるけど、この島に人間がいたらやっぱり驚くだろうよ。てめぇが
  いたら、無駄な心配をかけるだけだろうよ。」
 「……お前のペットでもか。」
 「……てめぇみたいなペットはごめんだが、俺のペットでも、だ。」

  何やら最後、セイレーンは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
  その顔を見て、どうやらこれ以上は頼んではいけないようだとサンダウンは判断した。渡り鳥が
 見れないのは何やら残念だが、仕方がない。
  諦めて、留守番をしておく、と言ったら、セイレーンは鼻を鳴らして一瞥すると、ぱたぱたと飛
 んで行った。
    その時に、服の裾が捲れて、ちょっとだけ短い尻尾が見えた。