花の様子をつぶさに観察していたマッドが顔を上げると、離れたところで牛の乳搾りをしている
 男の姿が見えた。
  無骨な男には、花の世話は出来なかったが、それ以外の事――力仕事は出来るので、マッドに言
 いつけられた通りに草むしりから牛乳の運搬、放牧していた羊の送迎までこなしている。
  とりあえず、根っからの役立たずではないようだ、とマッドは頷き、再び花の世話に戻った。
  セイレーンにとって、主食である花の世話は重要だ。花の蜜こそが命の根幹である彼らは、一日
 の大半を花の世話に費やす。花がより蜜を垂らすように、或いはより甘い蜜を産むように。
  マッドは花を散らせ始めた蓮華の茎を地面に薙ぎ倒しながら、蓮華の下から顔を覗かせているク
 ローバーを見つけて満足する。次は、シロツメクサの季節だ。
  その気になれば如何なる花でも咲かせる事が出来るマッドだが、出来る事なら季節を無視した花
 を咲かせたくはない。それは土にとっても、花にとっても良くないからだ。
  むろん、マッドも時には季節違いの花をさせる事がある。が、常にそれを保たせる事はない。常
 に花を咲かせ続ける事は、決して草木にとって良い事ではないのだ。
  唯一の例外が、庭の中央に咲かせている薔薇なのだが。
  マッドはクローバーから眼を逸らし、お気に入りの薔薇の花を見る。数十本の樹が並ぶ薔薇園は、
 今も赤い薔薇が咲いている。だが、大輪の花を咲かせている樹は、全体の三分の一程度だ。
  マッドは、常に薔薇を庭に咲かせているが、全ての樹を一度に咲かせる事はしない。三分の一の
 樹に薔薇を咲かせたら、あとの三分の二は休ませる。そして今ある薔薇が散ったら、休んでいる樹
 に花を咲かせるのだ。
  今まで咲き誇っていた薔薇も、そろそろ花を散らせようとしている。ゆっくりと端を茶色に変え
 ていこうとしている花弁に、マッドがそっと触れると、耐えかねたようにそれはマッドの掌の中に
 落ちていった。
  零れた花弁をマッドは丁寧に拾い上げると、用意していたガラス瓶に詰めていく。これらの花弁
 はローズ・ティーに使用したり、砂糖漬けにして保管したりするのだ。セイレーンは、蜜以外の花
 の部分も食べて生きている。
  マッドは薔薇の花弁をガラス瓶に納め、大切そうに蓋を閉める。薔薇の花は大きいが、しかし一
 本に咲く花の数は限られている。藤の花ほど、大量に花弁は取れない。だからこそ、一枚一枚が貴
 重なのだ。
  カラス瓶に収まった薔薇の花弁を満足そうに見て、マッドはそれをしまう為、いったん小屋の中
 に戻る。そして、花弁を保管している地下の収納庫の中に薔薇のガラスをそっと置いた。そこには
 花弁だけではなく、ジャムやペーストなども置かれている。
  そろそろお昼にしようかな、と思いコケモモのジャムの瓶に手を伸ばし、少しひんやりした瓶を
 抱えてもう一度外に出れば、窓から、まだ牛の前に座り込んでいる男の姿が見えた。その左右に、
 乳搾りの順番を待っているらしい牛がいる。
  あの乳搾りが終わってからで良いかもしれない。
  マッドは昨日作ったスコーンを、ジャムと一緒にテーブルの上に並べながらそう思った。
  当初、マッドの尻尾を触るという不躾な行動をした男は、日が経つにつれて大人しくなった。相
 変わらずマッドの尻尾は気になっているようではあったが、当初ほど尻尾の事を言わなくなった。
 代わりに、ようやく術が骨の髄にまで浸透してきたのか、マッドの言う事は良く聞くようになった。
 だからこそ、大人しく牛の乳搾りをしているのだろうが。
  でなければ、セイレーンの言う事を人間が聞くものか。あの男は自分はそんな事はしないと言っ
 ているが、人間がセイレーンの羽根を引き千切って売り捌く事を、マッドは知っている。この辺り
 ではまだないが、セイレーンの羽根欲しさに人間が狩りをし、その所為でセイレーンが絶滅した地
 域もあるのだ。
  セイレーンの羽根、セイレーンの爪、そしてセイレーンの涙。
  悉くが、人間達にとっては稀少で、この上なく極上の装飾の素材であり、魔力を帯びた素材だ。
 昔は、セイレーンも人間にそれを好んで与えていた時もあったようだが、人間の要求が高まるにつ
 れ、まして仲間が絶滅させられたとあっては、関係を保つ事も止めてしまった。人間が自分達に近
 寄らぬように、歌で翻弄する事も厭わなくなってしまった。
  それは決してセイレーンにとっても好ましい事ではないのだが。
  マッドはテーブルにスコーンとジャムを並べた後、再び庭に出る。そして、庭の中央でまだ花弁
 を付けていない薔薇と、蓮華の茎の下でようやく芽吹いたばかりのクローバーを見下ろす。指先で
 薔薇の葉を撫で、本当ならば、と思った。
  本当ならば、セイレーンの歌は人間なんていうものに聞かせるものではない。決して裏切る事の
 ない植物にのみ聞かせるべきものだ。
  まだ膨らみさえない薔薇の蕾に指を添わせ、マッドは微かに喉を震わせた。
  途端に、オールド・ローズの唇から端正な声が滑り落ちる。滴る花の蜜が声を出したなら、そん
 な声になるだろうと思うほど甘く、触れれば溶けてしまうような雪のように柔らかい声音だった。
  その声に撫でられた途端、まだ緑色で、小豆ほどの膨らみさえなかった蕾が、ゆっくりと質量を
 増していく。黄緑色だったものが先端から徐々に赤みを帯び、静かに割れ目をつけてそれに沿うよ
 うに紅を差していく。
  一方、マッドの立っている足元にも変化が起きていた。
  薙ぎ倒されていた蓮華の茎は静かに地面に埋もれていき、代わりにその下で息を殺していたクロ
 ーバーが頭を擡げたのだ。緑色の三つ葉は、蓮華の茎を呑みこんで、地面の上に傘を差す。その合
 間合間から、小さな白い蕾が首を伸ばし始めた。
  マッドの手に触れられている蕾も、いまや掌にすっぽりと収まり、突けば指が弾かれそうなほど
 の重みを持っている。
  そうなってから、マッドは喉を震わせるのを止めた。
  マッドは、花を自分の歌で完全に咲かせてしまう事は好まない。徐々にゆっくりと、蕾が綻んで
 いくところを見るのが好きな所為もある。
  重くなった蕾から手を離し、踵を返したところで、マッドはぎょっとして立ち竦んだ。
  目の前に、乳絞りをしているとばかり思っていた男が立っていたからだ。やたらと図体のでかい
 男に目の前に立ち塞がれると、必要もない威圧感を感じる。

 「なんだよ……、あんた、牛はどうしたよ。」
 「………もう終わった。」

  一瞬立ち竦んだ自分を叱咤してマッドがぶっきらぼうに問うと、男は脇にある牛乳瓶を示した。
 見れば、牛達も気が済んだのか、あちこちをぶらついている。仕事が終わったと言うのは嘘ではな
 いようだ。

 「そうかよ。それで、腹でも減ったのか?」

  そろそろ昼時だと思っていたマッドは、ぬっと立っている男にそう問えば、しかし男は無言でし
 ばらくマッドを見下ろしてた――生憎と、男の方がマッドよりも背が高い。
  見下ろされるマッドは、別に背が低いわけではないのでそういう事態に陥る事自体が珍しく、そ
 の状況に居心地の悪さを感じて、なんだよ、と言った。

   「腹が減ってねぇのなら、そのへんぶらついてろよ。その代わり、夕飯まで何も出ねぇぞ。」
 「そうやって、花を咲かせるのか。」

  マッドの言葉を無視して男が言った。

 「だから、季節感のない花が咲いていたわけか……。」

  ぶつぶつと、何やら納得しているらしい男は、どうやらマッドが花を咲かせた事について言って
 いるようだ。

    「……年中、花が咲いているのは、そういう事か。」
 「だからなんだって言うんだよ。」
 「花の蜜だけで生きていけるというからどうしていたのかと思っていたが、そういう事かと納得し
  ただけだ。」

  花のない冬はどうやっていたのかと。
  真顔で答える男は、間違いなく真面目に言っているのだ。

 「……お前達の声は、むしろこの為にあるのか。」

    しかも、深い考えはないのだろうが。
  その通りだ、セイレーンの歌は人間に聞かせる為のものではなく、花を咲かせる事が本分だ。セ
 イレーンにとって歌とは呪いのようなもの。失敗すれば自分に返ってくる。だから、決して失敗し
 ない――裏切る事のない――植物に聞かせるのが一番だ。

    「ところで……私はお前の歌をこれで聞いたのは二回目なんだが。」
 「あん?一回聞いたんだから、二回も三回も同じ事だろうが。」

  一回聞いて術に罹ったのなら、二回聞いてもどうせ術に罹っているんだから同じ事だ。だから、
 歌を二回聞かせた――つもりはないのだが――事を、責められる謂れはない。  
  が、男はそんな事を言っていたわけではなかった。

 「二回も三回も同じなら、もっと私の前で歌っても良いんじゃないのか。せっかく一緒にいるのに、
  私はまだ一回しかお前の歌を聞いていない。尻尾も一回しか触っていない。」
 「そこに戻るんじゃねぇ。」
 
     駄目だ、この男は何かの拍子に尻尾の話題に戻ろうとする。
  少しだけ、大人しくなったと思ったのに。

    「尻尾の話を続けるんなら、このまま昼飯食わせずに羊を追っかけてもらうぞ。」

    そう言うと、少ししょんぼりとして男は押し黙った。
  が、めげずに呟く。

 「………お前の声は、良いな。」
 「ああ?」
 「ずっと聞いていたい声だ……。」

    言うなり、かさついた手でマッドの唇に触れてきた。その行動にマッドが眼を大きく見開くうち
 に、ゆるりと親指の腹で唇を一撫でされた。
  その行動に呆気にとられるのも束の間、そういえばこいつは自分の術に罹っているのだったと思
 い出す。尻尾尻尾言うので忘れていたが、この男はマッドに誘惑され、此処にいるのだ。だから、
 所謂性的な事をマッドに求めてもおかしくはない。
  むろん、それはマッドの命令に逆らってまで押し通されるものではないだろうが。

 「やめろ。」

    マッドが少し語気を強めると、男は残念そうに、けれども言われた通りに手を下ろす。
  大きな手の動きを視線だけで追いかけて、それが大人しく下に降りたのを見届けてから、マッド
 は男から完全に視線を逸らし、その前を通り過ぎた。すると背後に男が付き従う気配がした。そし
 て、背後に回り込んだ男は、マッドのすぐ耳元に唇を近づける。

   「お前からは、良い匂いがするな………。」