サンダウンは、黒いセイレーンがすっぽりと黒いコートで腰回りを覆ってしまったのを見て、が
 っかりした。
  丈の長いコートはセイレーンの足の第二関節まであり、サンダウンお気に入りの短い尻尾を完全
 に隠してしまっている。あんなに可愛いのに、と言ってみてもセイレーンは全く聞く耳を持たなか
 った。尻尾のあるところだけ、ちょっと膨らんでいるのがまた、サンダウンにとってはすぐにコー
 トの裾を捲りあげてやりたい衝動を醸し出す。しかも、時々ひくひくと動いているようなのだ、こ
 の尻尾。
  直に見たいのに、と何度も交渉したが、セイレーンはにべもなかった。
  尻尾を触るなんていう不届きな輩の前で、何故尻尾を見せねばならないのか。
  確かに、尻尾を触るという事は、人間で言うならばつまり尻を触ったという事だ。それは確かに
 痴漢行為に該当する。コートの裾を捲り上げるなんていう行為は、スカート捲りと同罪だろう。
  だが、それを言うならば、セイレーンだって下半身を露出させているようなものではないか。ふ
 かふかの羽毛に覆われているから誰も気が付かないのであって、実際はそういう事だ。サンダウン
 が尻尾を触る事を痴漢だと言うのなら、セイレーンが下半身を剥き出しにしているのだって痴漢行
 為ではないのか。
  そう、紅茶と藤の花弁を練り込んで蜜を薄く塗した焼き菓子を前に力説すると、セイレーンは黒
 い眼を細めた。

 「ほーう。それじゃあ、痴漢行為をしている奴に、更なる痴漢行為をしてやがるてめぇは一体何様
  のつもりなんだ。」

  サンダウンが手を伸ばそうとしている焼き菓子をさっと引っ込めて、セイレーンは不機嫌そうに
 言った。

 「大体、俺らが下半身になんか着けたら、絶対に蒸れるだろうが。てめぇ、俺が禿たらどうしてく
  れるつもりだ。」

  セイレーンの羽毛は、それだけなら寒さにも暑さにも耐える事が出来るという優れものである。
 夏場はそれなりの通気性と断熱性を保ち、冬は空気を閉じ込めて熱を逃がさない。
  だが、これの上に何かをつけるのは無理だ。実際、コートで覆われているだけでも普段よりも暑
 さを感じているらしい。

 「ならば、脱げばいい。」

    期待に満ちた眼差しでそう言えば、セイレーンの眼がますます細くなった。その眼差しにサンダ
 ウンはしょんぼりとする。別に、セイレーンを不機嫌にさせたいわけではないのだが。

 「……尻尾を可愛いと思って何が悪いんだ。」
 「あんた、男が、尻が可愛いって言われて、喜ぶと思ってんのか。」
 「お前は可愛い。」

    断言すれば、もはやどうでも良くなってきたのか、セイレーンはサンダウンから眼を逸らしてし
 まった。すっと伸びる横から見た鼻梁が、この上なく美しい。
  尻尾も可愛いが、このセイレーンはどうしたって見た目麗しいのだ。それとも、セイレーンとは
 皆が皆、こんなふうに端正なのだろうか。そう思って、自分を野次馬的に見に来た連中の中には、
 髭面であったりひ弱そうであったりと、平凡な顔立ちの者もいたから、やはりこのセイレーンが特
 別美しいのだろうと思う。
  白い五本の指先も繊細で、それもやはりセイレーンだからだろうか。その手が蜂蜜を塗した焼き
 菓子を上品に口元に運んでいる。
  そして、その唇ときたら。
  ふっくらと柔らかそうな下唇は落ち着いたオールド・ローズの色合いをしており、それは緩やか
 な弧を描いている。今にも囀りを零しそうな唇は、例え他の部分全てを覆い隠しても、くっきりと
 それが誰であるかを主張するだろう。
  彼が口を開く度に、白い歯と赤い舌がちろちろと除くのが、また妖艶だ。
  その姿は、正、に音に聞くセイレーンの姿そのものだ。旅人を誘惑し、船乗り達を声だけで引き
 寄せたという、蠱惑的な妖魔。目の前にいるセイレーンは、それらを冠するに相応しい。その容姿
 で、一体何人の人間に死の縁を見せたのだろうか。

 「……それで、私を食べるのか?」
 「はぁ?」

  セイレーンは誘惑した人間を貪る性質があるというのは、古い古い伝承の話だ。事実かどうかも
 分からないから聞いたのだが、聞かれたセイレーンは怪訝な顔をしている。

 「なんで、あんたみたいなむさいおっさんを食わなきゃならねぇんだ。」
 「……若い肉のほうが好みか。」
 「いやそうじゃなくて。ってか、なんでそこでがっかりするんだ、あんたは。いくらなんでも、あ
  んた、俺の術に変な方向に罹りすぎだろ。」

  中年という時期を越えた自分の肉は固いかもしれない、と思っていると、セイレーンが呆れたよ
 うな声を上げた。

 「てめぇらの伝承なんか知ったこっちゃねぇ。俺らは人間の肉なんか食わねぇよ。まあ、てめぇら
  だって共食いできるように、俺らも食おうと思えばできるだろうけどよ。でも、俺らの主食は花
  の蜜だ。それだけで基本は生きていける。」

  まあそれだけだと味気ないので、他の物も食べるが。
  そう言って、セイレーンは薔薇を絞った液を入れた紅茶を飲んでいる。程よい薔薇の香りを嗅ぎ
 ながら、この島にやたらと花が咲いているのは、セイレーンの主食だからか、とサンダウンは納得
 する。
  ちらりと見たセイレーンの家には、庭の大小はあれど、そこには埋め尽くすほどの花が咲き誇っ
 ており、道行く草花にも鈴なりに花がついている。
  田畑や牧場もあるようだが、それ以上の面積を花が占めているのだ。どおりで、遠目に見ても花
 が咲き乱れている島である事が分かるという事だ。
  しかし、とサンダウンは首を傾げる。
  咲き誇る花々には、一切の季節の統一感がなかった。雀のようなセイレーンが住んでいる家には
 向日葵が並んでいたし、金の尻尾の長いセイレーンの家には、水仙やら百合やらが並んでいた。
  そして、このセイレーンの家には、立派な藤の木が紫の花弁を雪のように散らし、裏庭に回れば
 蓮華が地面を敷き詰める中に大輪の薔薇が赤を滴らせていた。
  このセイレーンの庭は、まだ植物の配置が丁寧になされているから良いものの、結構雑然と花が
 植わっている家もあり、見栄えとしてはあまり宜しくないのではないかと思う場合もあったのだが。
  サンダウンは、ミルク入りの紅茶、というよりも紅茶入りミルクと化した液体の前で首を傾げる。
 その様子を――というか、紅茶入りミルクと化した物体を、奇妙な生物でも見るかのような視線で
 セイレーンは見つめる。

 「マッド。」

  ミルクを入れ過ぎた所為で、すっかりと冷め切ってしまった紅茶には口をつけずに、サンダウン
 はセイレーンの名前を呼んだ。すると、セイレーンは渋い顔をした。
  気安く呼ぶんじゃねぇ、と言うセイレーンを無視して、サンダウンはもう一度名前を呼んだ。

 「お前は、私が聞いていたセイレーンと随分と違うようだな。」
 「だから、あんたらの伝承なんか知ったこっちゃねぇって言ってんだろ。」
 「お前は、私達の事を知っているのか?」
 「……あんた、人の話を無視すんのが得意だよな。」

  セイレーンがぶつぶつと言っているが、サンダウンは特に気にしない。むしろ、ぶつぶつと言っ
 ている時の、唇を少し尖らせた感じが可愛い、と思っている。
  サンダウンがマッドに聞いたのは、そもそもセイレーンは滅多に人前に姿を現さないからだ。
  それはセイレーンが人里離れた場所や人の手が届かない場所に住んでいる為、また、セイレーン
 に逢った者は、総じて生きて帰れないか気がふれた状態で帰ってくるかのどちらかだった。それ故、
 セイレーンについて人間達は、気がふれた者の微かな情報を頼りに、或いは運良く、遠くに眺める
 事の出来るセイレーンの姿を見て、セイレーンの姿形を思い描くしかなかったのだ。
  セイレーンの住む島が近くにあったとしても、おいそれと近づこうと思わぬほどに、恐ろしさを
 誇張して。
  しかし一方で、セイレーン達はどうか。その姿を人の行き交う街には決して現さず、孤島や森の
 奥深くに住む彼らは、人間に対してどういう感情を持っていたのか。近づく者を全て破壊し続けた
 その意味は。

 「てめぇら人間が、違法に亜人を売り買いしてんのは知ってるぜ。」

  人間に非ず、動物に非ず。そんな人々を亜人と呼ぶのだが、セイレーン達は人間が彼らを奴隷扱
 いしている事を知っていると言う。

 「てめぇらは珍しいもんが好きで、でもそいつらを自分と同等に扱おうとはしねぇ。珍しい鳥を見
  たら羽根を切り落としてでも傍に置きたがる。それがお前らだ。」
 「私は、そんな事は……。」
 「知ってるさ。人間全員がそんな事はしねぇ。でも、そういう人間がいる以上、俺達は永久に船を
  沈め続ける。」
 
    見世物になるなんてまっぴらさ。
  セイレーンは、今にも船を沈められそうな妙なる声で言って羽根を少し動かした。おそらく、そ
 の声を聴いた人間は、何一つ考えずに沈む事を良とするのだろう。
  例えば今のサンダウンのように。
  術に罹っているなどの自覚はないのだ。セイレーンの望みだけが絶対唯一の最良最善の判断であ
 ると思う。
  そこには一部の疑いもない。