マッドは藤の花弁を籠に詰めていた。
  熊蜂が遠慮しつつも蜜を吸い上げ、花粉を何処かに乗せていった後の花は舞い落ちるだけだ。マ
 ッドはそれらを、半分は砂糖漬けに、後の半分は塩漬けにして保管するのだ。花弁の漬物――とい
 うと色々と誤解を招きそうではあるが――は、クッキーやパウンドケーキに練り込めば、その花の
 風味が増すのだ。そこに、花の蜜を一滴垂らせば、セイレーンにとっては最適の食事となる。
  セイレーンは、巷の噂では人間の肉を啄むのだとか言われているが、そんな事はない。
  まあ、食べろと言われたら食べられるだろうが、実際のところセイレーンの主食は花の蜜なのだ。
 彼らは花の蜜さえあれば生きていける。その他の物を食べても、味は分かるが体内を素通りしてい
 くだけで、栄養にはならないのだ。
  とは言っても、セイレーンだって人間のように食事を楽しむ事があるわけで。
  庭に沢山の花をつける樹木を植える以外に、牛や羊、山羊を買って、バターやチーズを作ったり、
 花だけではなく食べられる実をつける木を植えていたりと、生活の仕方は人間とさほど変わらない。
  なので、無理やりマッドの住居に押しかけてきた人間のおっさんが、生活に困る事は一切なかっ
 た。むしろ、おっさんは幸せそうに牛乳を飲んでいる。

 「ってか、あんたが町に帰らなけりゃ、やっぱり大騒ぎになるんじゃねぇのか!」
 「一週間程度なら不在にしても問題ない。」

  自分が死ねばセイレーンを危険視した人間どもが大挙して押し寄せてくるぞ、とマッドを脅した
 男は、マッドの疑問に対して、しゃあしゃあと答えた。

 「保安官が捜査の為に一週間留守にする事などざらだ。また何処かに行ったのか、くらいにしか思
  われん。」
 「………本当かよ、それ。」

  疑いつつも、マッドはとりあえず一週間したらこのおっさんは出ていくのだと分かり、ほっとす
 る。
  なにせ、この島に人間が立ち入った事は今までないのだ。マッドはこの島のセイレーンではない
 から良く知らないが、ビリーの父親が言うには人間がやって来た事はないらしい。そこにいきなり、
 図体のでかいむさ苦しい人間がやって来たのだ。
  むろん、大騒ぎになった。
  というか、間近で初めて見る人間に、野次馬根性丸出して皆がマッドの家にやって来たのだ。そ
 して、他人の視線など気にせずに牛乳を飲むおっさんを、興味津々に見ていった。
  人間が危険であるだとか、人間が島にやって来た事に不安を感じるだとか、そういった感情は二
 の次であるらしく、この島のセイレーンはとにかく初めて島にやって来た人間が、珍しい動物か何
 かに思えたのだろう。
  人間って牛乳を飲むんだ!、と大発見をしたかのように叫ぶビリーの声は、この島のセイレーン
 の気持ちを代弁していた。
  完全に見世物小屋の珍獣――人間世界ではセイレーンが見世物小屋に連れて行かれる事だろうが
 ――と化したおっさんに、しかし流石に大人達は野次馬と化していても不安を忘れたわけではなか
 ったようだ。

 「でも、人間なんか連れてきて、どういうつもりさ?」

  アニーが、それは見事な金の長い尾を一振りしてマッドにした問いかけに、マッドは、連れてき
 たんじゃなくて勝手について来たんだと思う。
  が、そんな事を言っても変に混乱させるだけなので、マッドはサンダウンが勝手についてきた経
 緯は語らずに、サンダウンの髭を引っ張って、大丈夫だと告げた。

 「こいつは俺の術に完全にかかってる。俺らに危害を加えるような事はしねぇよ。その証拠に、見
  ろよ、髭を引っ張っても何もしねぇだろ。」

  ぐいぐいと髭を引っ張るマッドに、男は少し不機嫌そうにしたものの、特に抵抗は見せずにされ
 るがままになっている。更にマッドが、頬を摘まんで引っ張っても、男は何もしない。大人しくさ
 れるがままになっている男を見て、セイレーン達は、おお、とどよめく。セイレーン達にしてみれ
 ば、ライオンが髭を引っ張られても何もしないのと同じ感覚なのだろう。
  そんなセイレーン達の前で、男が無害である事を示しているマッドの心境は、さながら猛獣使い
 である。

 「でも、なんで人間なんか連れてきたのさ。」

  だから、勝手についてきたのである。
  マッドはそう言いたいのを堪え、ぽむぽむと男の頭を叩きながら答える。

 「まあ、珍しいもんを飼ってみたくなったのさ。ペットみたいなもんだと思えば良い。」
 「ふぅん。でも、ペットにしちゃあ小汚いねぇ。」

  放っておけ。
  マッドだって、こんな小汚いペットは欲しくない。しかし勝手に住み着いたのだから仕方ない。
  そして小汚いペットは、別にそう評された事に文句はないのか、牛乳を飲み干したコップを意地
 汚く傾けて、最後の一滴まで飲もうとしている。
  かくして、完全に珍しいペットとなったおっさんは、マッドの住処に居座ったのである。

    「ところで、マッド。」
 「ちょっと待ておっさん。なんで俺の名前を知ってんだ。俺はあんたに教えた覚えはねぇぞ。」
 「ふむ。私はサンダウン・キッドというんだが。」
 「誰も聞いてねぇ。」

  大方、セイレーンの中の誰かから聞いたのだろう。サンダウンというらしいおっさんは、マッド
 の名前をそれはそれは嬉しそうに呼んでいる。完全に恋が楽しくて堪らないと言わんばかりの様子
 だ。正直、薄気味悪い。

 「マッド、お前は、男……だな?」
 「他の何に見えんだ、おっさん。」

  まさかマッドの姿が女に見えるとでも言うのだろうか。マッドはセイレーンの中でも特に美しい
 部類に入るが、別に女らしい外見をしているわけでもないし、中性的でもない。それとも、変な術
 の罹り方をしているおっさんだ、マッドが女に見えているのかもしれない。

 「いや……セイレーンにも男がいるのか。」
 「あん?女だけでどうやって子供産むんだ。俺らはスライムみたいに分裂するわけじゃねぇぞ。」
 「……ああ、そうだな。」

  何やら、おっさんは納得したらしい。
  が、全く別の事に話を繋げる。

 「男だから尻尾が短いのか?」
 「違う。」
 「短い尻尾は可愛いと思うが。」
 「だから、なんであんたは尻尾に拘るんだ!」

  初対面の時に術にかけてから、何故かずっと尻尾の事を気にかけている。マッドは尻尾に興味を
 抱くという術などかけていないはずだ。
  しかし男は、マッドの尻尾をじぃっと見つめてくる。

 「………お前さえ良ければ、触らせて欲しいんだが。」
 「俺は良くねぇから、触るんじゃねぇ。」

  提案してきた男を、マッドは一蹴した。
  そもそも尻尾を触るのは、大変失礼であるという事が分からないのだろうか。人間には尻尾がな
 いから分からないのかもしれないが、他の動物を見ていたら、皆一様に尻尾を触られるのは嫌がる
 事が分かるだろう。
  マッドが嫌がっている事が分かったのか、男は少し肩を落として反省したように、すまなかった、
 と呟く。

   「……別に、お前の尻尾が目当てなわけではない。尻尾がなくてもお前の事は可愛いと思っている。」
 「つまり、尻尾を触る事については全然反省してねぇって事か、おっさん。」

    てんで見当違いの事を言う男に、マッドはこのままではまた尻尾を触られてしまうと思った。
  その夜、マッドはクローゼットの奥から丈の長いコートを引きずり出し、尻尾を覆い隠してしま
 った。