眼を開くと、すぐそこに愛しい姿があった。
  黒い眼が自分の顔を覗き込んでいるのを見て、サンダウンはすぐさまそれが、自分が追い求めて
 いたセイレーンであると認識した。
  自分が、無謀にも海に飛び込んで、そのまま溺れて、最終的に岩場に打ち上げられたという事実
 については、いちいち思い出したり認識したりする必要のない事実である。今一番重要なのは、眼
 の前に、愛するセイレーンがいるという事だ。
  眼を大きく見開いたセイレーンの下半身が、もこもこと黒い羽毛に覆われている事を確認すると、
 サンダウンは岩場の波打際で倒れている場合ではないと言わんばかりに、素早く立ち上がると、も
 こもこの羽毛に向かって手を繰り出した。
  しかし、サンダウンの手が、柔らかい黒の羽毛に埋もれる事は遂になかった。
  サンダウンに恋の魔法を――文字通りそうではあるのだがセイレーン側にしてみればその言葉は
 釈然としない――かけたセイレーンは、怪鳥のような悲鳴を上げて大きく羽を広げるや飛び立った
 のである。
  セイレーンも一種の怪鳥ではないのかという疑問は、サンダウンの中には湧かない。恋に落ちた
 男の眼には、セイレーンはかくも美しい存在に見えているのである。
  だが、さて、セイレーンはとにかく悲鳴を上げてサンダウンから離れ、近くの背の高い岩場に降
 り立つとそこからサンダウンを見下ろしている。とてもではないがサンダウンの手が届かないよう
 な場所に移動したセイレーンに、サンダウンは酷いと焦れたように思う。
  サンダウンの恋の眼を見開かせたのはセイレーンなのに、当の本人が逃げ出すなど、酷い話では
 ないか。
  確かにサンダウンがこのようになってしまったのはセイレーンの術の所為なのだが、サンダウン
 にはその自覚がない為、その言い分はひたすらに身勝手に聞こえる。むろん、サンダウンに身勝手
 であるという自覚もないわけだが。

 「何故、逃げるんだ……。」
 「あんた、この前俺に何をしたか覚えてねぇのか!」

  恨みがましく呟けば、ようやくセイレーンの普通の声が降ってきた。そこで、綺麗な声だな、と
 思うあたり、サンダウンは相当にやられてしまっている。

 「てめぇは、俺の下半身撫で回した挙句、尻尾を触りやがったんだぞ!」
 「恋人の身体を触りたいと思うのはおかしいか……?」
 「誰が恋人だ!てめぇは逢ったばかりの人間を、勝手に自分の恋人にすんのか!」
 「む………。」

    性急すぎたという事か。
  サンダウンは勝手に納得した。

 「以後、気を付けよう……。」
 「ああ……って、以後ってなんだよ。あんたはさっさと帰るんだよ。此処は俺達セイレーンの島な
  んだ。てめぇみたいな人間がいていい場所じゃねぇんだよ。」
 「ならば人間を止める。」
 「わけのわかんねぇ事を言ってんじゃねぇ!」

    ただただひたすら掛け値なしの本音を告げたはずなのに、セイレーンには通じなかった。それが
 分かり、サンダウンは酷く悲しくなってしまった。
  海水に浸かった所為で重くべったりとした衣服と髪が、今更ながらに気持ち悪く感じられ、自分
 が惨めな生き物になってしまったように感じる。
  あまりにもがっかりと肩を落としているのがセイレーンにも伝わったのだろうか。サンダウンの
 手の届かない所にいる彼は、忙しなく眼を動かすと、二、三度羽根を動かした。

 「あのなぁ。その、あれだ。あんたが俺の事を恋人だのなんだの言ってるのは、俺の術に罹ってる
  からだって。」
 「術………。」
 「そう。あんただって聞いた事くらいあるだろ。セイレーンの歌の事くらい。」

    聴く者を眠らせ、痺れさせ、誘惑して激しい恋に陥れ、そのまま死に至らせる事さえあるという
 セイレーンの歌声。
  サンダウンはそれに罹っているのだと。

   「だから、あんたは本心から俺の事を恋人にしたいだとか思ってるわけじゃねぇんだよ。ま、そう
  いう疑問さえ持たねぇくらい深く効いてんのは、俺の歌が上手いからだろうけどな。そういう事
  で、諦めてくれ。」
 「……何を諦めろと言うんだ。」

  一方的に別れ――ではないのだが――を切り出されたサンダウンは、唸るように抗議する。

 「そもそも、お前がかけたと言うのなら、解けば良いだけの話じゃないのか。」
 「残念な事に、セイレーンの誘惑の歌っていうのは、基本誰にも解けねぇんだよな。死ぬ以外に解
  ける術はねぇんだ。それに、普通は死ぬんだよ、骨抜きになってそのまま廃人になって。」
 「私は廃人にはなっていない。」
 「ああそう………。」

  何故か、セイレーンは遠い眼をする。

 「とにかく、俺にはどうする事もできねぇから、お引き取ってくれ。」
 「お前が引き取ってくれたら良いだけの話だろう。」
 「やだね。グラマーな美女ならともかく、なんであんたみたいなおっさんを引き取らなきゃならね
  ぇんだ。大体、初対面で尻尾触るような不躾な奴を傍に侍らせたかねぇな。」
 「それはお前の術に罹っているから。」
 「これまで何人もの人間に術はかけたけど、尻尾を触ろうとした奴は誰一人としていねぇ。」

  てめぇだけだ、と言うセイレーンの言葉に、しかしサンダウンはそれよりも気になる事があった。

 「………他にも、術をかけた人間がいるのか?」
 「ああ、大勢いるぜ。皆骨抜きになって、そのまま海の藻屑になったけどな。あんたみたいに、尻
  尾触る奴はいなかったぜ。」
 「………そうか。」
 「………なあ、あんたなんか喜んでねぇか?なんでだ?」
 「つまり、お前の尻尾に触ったのは、私が初めてだと……。」
 「………。」

  しっかりと引いているセイレーンを余所に、サンダウンは一人で勝手に喜んでいる。とにかく、
 今のところセイレーンの恋人――にはまだなっていないはずなのだが――はサンダウン一人しかい
 ないようだ。

 「どうでも良いからさっさと人間の世界に帰れ。」
 「……嫌だ。お前から離れたら死んでしまう。」
 「さっさと死ね。他の人間みたいに大人しく死んでくれ。」

    サンダウンの手の届かない、セイレーンは本当に嫌そうにしている。しっしっと追い払うような
 仕草までしている。
  そんな事をされれば、いくら恋に盲目になっているサンダウンと雖も、多少なりとも傷つく。
  しかし、傷ついている暇がないというのもまた事実だ。羽根があるセイレーンは、その気になれ
 ば今すぐにでもサンダウンを置き去りにして飛び立ってしまうだろう。
  だからサンダウンは、セイレーンを引き止め、なんとしてでもセイレーンの住処に行く必要があ
 った。住処に侵入してしまえば、こっちのものだ。

   「……私が死んだら、どうなるか分かっているのか。」
 「とりあえず、俺の貞操が守られるな。」
 「私は保安官だ。その私がセイレーンのいる島にやってきて死んだとなれば、この島は危険視され
  て駆逐対象になるぞ。」
 「てめぇ、俺を脅す気か!ってか、保安官のくせに、こんなとこで何やってんだ!職場放棄じゃね
  ぇか!」
 「仕事は助手に任せてきたから問題ない。」
 「ありまくりだろうが!」
 「問題ない。」

    セイレーンに言われて、少しだけ仕事の事を思い出したが、そんな事よりも。

 「そんな事よりも、早く私をお前の住処に連れていけ。」
 「なんでだよ!」
 「こんな所に放置されたら死ぬに決まってるだろう。お前は私が死んでも良いのか。私が死んで、
  あらぬ疑いをかけられて人間達に襲撃されても良いのか。」

     卑怯な手だとは思うが、仕方ない。こうでもしなければ、セイレーンはサンダウンを放置して何
 処かに行ってしまうだろう。
  ぐぬぬぬぬと唸りながら歯ぎしりしているセイレーンの拳は、血管が浮かび上がりそうなほど握
 り締められている。そのままいけば、爪で掌の肉を抉ってしまうんじゃないだろうか。
  いらぬ心配をしているサンダウンに、セイレーンは黒い眼でぎろりとした視線を向けた。サンダ
 ウンでなければ、縮み上がってしまいそうな視線だが、サンダウンは視線を向けられた事を喜ぶだ
 けである。
  畜生と呟いた彼の手が、苦々しげにサンダウンに差し伸べられたのは、それから数十秒も経たぬ
 うちの事であった。