さて、セイレーンの魅惑の歌にすっかり罹ってしまい、しかも術をかけた当のセイレーン本人か
 ら引きはがされてしまったサンダウンは、恋しさのあまり遂には再び船を漕ぎ出して、件のセイレ
 ーンがいる小島へと向かっていた。
  自分が保安官であるだとか、その任務だとかは既に頭の中から消え失せている。頭の中はセイレ
 ーンの事でいっぱいである。
  しかし、自分がセイレーンの術に罹っている自覚のない男は、えっちらおっちら船を漕いでセイ
 レーン達の住まう島まで辿り着いていた。
  だが、島に辿り着いたと言っても、島の周りを船でうろうろとするだけである。何せ、セイレー
 ンのいる島は四方八方を切り立った崖に囲まれ、人間が登る事は到底不可能なのだ。そればかりは、
 愛の力――というか術の力を以てしても、不可能である。
  それでも諦めきれないサンダウンは、島の周りをうろうろとうろついて、何とかして登る場所は
 ないかと探しているのだ。
  その間、ゆうに二時間を超えている。
  そして、そんなサンダウンの想いが通じたのか、はたまた執念に怖気が走ったのか、島は遂にサ
 ンダウンをその内部へと誘えそうな穴を開いたのだ。
  切り立った崖の根本、恐らく潮が満ちてしまえば波で浚われてしまうであろう場所に、小さな穴
 が慎ましく開いていたのだ。打ち寄せる波によって、今にも塞がってしまいそうな穴である。見つ
 けられたのは僥倖と言っても良い。もしくは執念が勝ったのか。
  だが、見つけ出したこの穴が、本当に恋焦がれるセイレーンの元へと誘ってくれると言う保証は
 何処にもないのだ。むしろ、途中で行き止まりという可能性の方が高い。その上、小さい穴だ。船
 ごと入って行くのは不可能だろう。即ち、サンダウンは泳いで穴の中に潜り込んでいかなくてはな
 らないのだ。それは、あまりにも危険が大きすぎる。
  しかし、恋に落ちたサンダウンには、そんな命の危険など顧みる余裕はなかった。
  今すぐにでもセイレーンに逢わなくては、心臓が早鐘を打ち続けてその痛みで死んでしまいそう
 なのだ。逢えないのならばサンダウンは死んだも同然。ならば、恋人――セイレーンにしてみれば
 そんなものにした覚えは些かもないだろうが――に逢う為に命を賭して、そのまま死んでいった方
 が良いと言うものである。
  もはや、まるで飛ぶ鳥に恋をしてその後を追って崖から飛んだ狼のように、サンダウンは生きる
 世界の違うセイレーンの為に命まで懸けてしまっていた。
  そんなサンダウンを止める術は何処にもなく――セイレーンの歌の恐ろしいところは、術をかけ
 たセイレーンにさえ術を解く事が出来ないという事である――止める者も誰一人としていない。
  夾雑物の見当たらないサンダウンが、愛しい相手に出会う為に、海に飛び込む事を止める謂れは
 何処にもなかった。仮にあったとしても、仕事、家族、恋人、それら心の何処かに留め置かれてい
 るはずの枷は、セイレーンの歌の前には無意味なのだ。
  抗えぬ誘惑に爪の先から頭の先までどっぶりと浸っているサンダウンには、もはやセイレーン以
 外の何かが聞き入れられる事はない。
  何一つ枷のなくなったサンダウンは、一切の保証もない、ただただセイレーンに逢えるかもしれ
 ないという雀の涙ほどの可能性しかない島の根元にある小さな洞穴に向う為、白い泡の沸き立つ海
 面に飛び込んだ。

  



  マッドはきょろきょろと辺りを見回しながら、花が咲き乱れる小屋から出てきた。
  先日、変な男に腰を掴まれて羽毛の中を撫で回された挙句、尻尾を触られて以来、マッドは普段
 以上に警戒心を持つ事を心掛けている。
  この、四方を切り立った崖に囲まれた島に人間がやって来る事はないとは分かっている。
  だが、その事実があったとしても、尻尾を触られたマッドにはまたあの男が何処からやってくる
 か分からないという不安があった。
  しかし、そもそもなんだってあの男はあんなわけの分からない事になってしまったのか。
  マッドは自分の歌についてもう一度思い返してみるが、しかし全くおかしなところには思い当ら
 なかった。
  マッドはいつものように、普通に歌を歌っただけだ。世間一般ではセイレーンが最も得意として
 いると言われている誘惑の歌。しかし実際は誰も彼もこの歌が歌えるわけではなく、やはり歌が上
 手いセイレーン――歌の上手さと本人の美醜が直結するセイレーンにとっては、即ち美しい者のみ
 が歌えるのである。
  聴く者を皆狂わせ、恋に落とし、骨抜きにし、セイレーンの前に身体を投げ出させる歌。
  それによって、古来より船は沈み、人は二度と帰らず、故にセイレーンの住む島には犠牲者の骨
 が散乱するという噂が立つのだ。
  セイレーン族の中でも一番の歌い手と言われるマッドが、その歌を歌ったのだ。聴けば抗えず、
 身も心もどっぷりと恋に落ちて腑抜けになるだろう。それは、マッドも分かっているし、それを見
 込んで歌ったのだ。腑抜けになって、そのまま大洋を彷徨い沈めば良いと思って。
  だが。
  マッドが歌ったのは、魅惑の歌ではあるのだが、それはあくまでも聞いた者に身体を差し出せる
 歌である。
  間違っても、術者に襲い掛かって羽毛の中を撫で回して尻尾を触るなんて事をさせる歌ではない。
 断じて、違う。
  しかし、いくらマッドが否定してみても、現にあの小汚い男はマッドに襲い掛かってきた。尻尾
 を触った。
  飛び蹴りを喰らわせて、とりあえず逃げ出してこれたから良いようなものの、あのまま逃げられ
 なかったらどうなっていた事か。そして気になるのは、飛び蹴りを喰らわせた後の、あの男の動向
 だ。こっそりと後で見に行ったら、船ごといなくなっていたので沖にでも流されたかと思っていた
 のだが、時間が経つにつれて実は何処かで生きてるんじゃないかという思いが擡げている。
  あのまま海の藻屑になっていてくれれば良いのだが。
  もしも、仮に生きていたとしたら。
  マッドはその想像に身震いする。
  セイレーンの術は――魅惑の歌は、一度罹れば解ける事は、まず有り得ない。睡魔であったり麻
 痺ならば時間が経てば、或いは何らかの処置を施せば目覚めるが、魅惑に関してだけは、よほどの
 事がない限り解けない。
  腑抜けて海に浮いているのなら良い。だが、襲い掛かってきた男が大人しく海の上を漂っていた
 りするだろうか。むしろ、泳いで海を渡ってきたりしないだろうか。例えそれをしても、切り立っ
 た崖に阻まれるだろうが、なまじ自分でかけた術であるが故に、その威力も分かっている為、それ
 だけでは安心できない。
  マッドが落ち着きなく周囲を警戒しながら、それでも本日の食い扶持を稼ごうと藤の花をせっせ
 と籠に詰めていると、塀の外からぱさぱさと軽い足音が聞こえてきた。
  この足音は子供だし人間はこんな足音は立てないと思いつつも、マッドが警戒していると、木で
 出来た門を開いて現れたのは、雀のような羽色をしたビリーだった。まだ飛べないビリーは、ぱさ
 ぱさと小さな足を動かしてマッドの方へと駆けてくる。

 「よお、どうしたよ?」

  案の定ビリーであった事に安心しつつ、マッドが紫の花弁の入った籠を持ったまま問うと、ビリ
 ーは雀模様の羽を二、三回ぱたぱたと震わせた。

    「兄ちゃん!なんか井戸の底に変なのか流れ着いてたよ!」
 「井戸の底に……?」

  セイレーンの島には一つだけ井戸がある。真水に到達するまで深く掘り下げたそれは、途中、幾
 つもの分岐点のような穴があり、そのうちの一つは海に通じているのだ。子供達はそこに流れ着い
 た異国の珍しいものを集めるのが好きだったりするのだが。

 「人間の死体だと思う。」

    ビリーの口から突いて出た言葉に、マッドは危うく籠を取り落しそうになった。つい先程まで、
 人間の事を考えていたからだ。

 「……そりゃ、男か?女か?」
 「男の人みたいだよ。突いても動かないから、多分死んでるよ。」

  本当に死んでるのか、と言いかけるよりも先に。

 「おいおい、突いたって?危ねぇだろうがよ。」
 「だって死んでるみたいなんだもん。平気だよ。」

    ビリーはぷくうっと頬を膨らませて、自分は何も悪い事はしてないのだと言い張る。その様子に
 溜め息を吐いて、マッドはそれで、と先を促した。

 「お前の親父はどうした?もう井戸に入ったのか?」
 「ううん?今日は町内の集まりがあるから、大人の人は兄ちゃん以外皆いないよ。」

  まるで、マッドだけが仲間外れになっているかのような言い方であるが、それは仕方がない。そ
 もそもマッドはもともとこの島にいたセイレーンではないのだ。
  仕方ねぇなあと呟いて、内心はびくびくとしながら、マッドは籠を脇に置いた。  

 「俺が確かめに行ってやるよ。お前は後からついてきな。」 

  マッドは黒い羽根をばさっと広げると、一つ羽ばたきをしたかと思った瞬間に、空へと舞い上が
 った。
  例の井戸は、上空から見ればすぐに分かる。薔薇の茂みに囲まれた井戸は、普段は木の板で蓋が
 されているが、今は大きく開け放たれている。恐らく、ビリーが上がってきてから蓋を閉じずに来
 たのだろう。
  その開いた口の中に、マッドは真っ直ぐに飛び降りる。獲物に向かって滑空する隼のように井戸
 の中に入り、海へと通じる洞穴の前で身体をくるりと回転させてそちらへと飛び込む。
  長い井戸の中で外に通じているのはこの横穴だけだ。他の穴は途中で行き止まりになっている。
  海に通じているこの横穴は、例え満潮になったとしても、途中にあるごつごつと出っ張った岩に
 堰き止められて海水が井戸の中に入ってくる事はない。しかし、潮の匂いはする。耳を澄ませば、
 波音も聞こえてくるのだ。
  岩に羽根が引っ掛からないように避けながら、マッドは波が打ち寄せる広い部屋に辿り着いた。
 子供達が秘密基地と呼ぶそこは、そこだけ岩が柔らかかったのか波で抉り取られて出来たものだろ
 う。ひたひたと波が押し寄せる岩棚は、その周辺だけは辛うじて子供の腰までの深さになっている。
 そこに、ごろりと無造作に転がっているものがあった。
  長い間海に浚われて色の抜けた海藻のようにも見えるそれは、よくよく見れば人間の形をしてい
 た。茶色い人間。
  それを見た瞬間、マッドは身震いした。
  あの男だ。
  マッドの尻尾を不躾にも触った男。
  警戒しつつ男との距離を縮めつつ、顔を覗き込めば、髭に覆われた顔の中で、二つの瞼が固く閉
 じられている。半分だけ海水に埋まった顔は、波で髭と髪が揺れ動く以外はぴくりとも動かない。
  死んでいる。
  身動き一つない男に対して、ビリーがそういう感想を持ったとしてもおかしくはなかった。現に、
 マッドもこれは死体だと思いつつある。
  しかしそれにしても、何故こんな所に流れ着いたのか。見たところ、船の残骸も何もない。マッ
 ドが飛び蹴りを喰らわせたあの後、此処に流れ着いたと言うのだろうか。しかしその割にはまだ死
 んでから時間が経っていないような。
  とにかく子供の遊び場に死体を放置しておくわけにはいかない、とマッドが男の身体を持ち上げ
 て、海に流して沈めてしまおうと手を差し伸ばした。
  転瞬。
  今までぴくりとも動かなかった男の瞼が、くわっと見開いた。